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[完結]36話:エピローグ:ブランシュ・エ・ノワール ~白と黒のその後~

 冬のコートをクローゼットの奥へしまい込み、街を行き交う人々の装いがふわりと軽くなり始めた頃――。


 新生『Blanche』。

 同じブランド名を冠しながら、『シンヴェール』と『ネオ・シンヴェール』の二つの処方を採用した、二種類の純白のクリームは社会現象と呼べるほどに売れていた。


 百貨店では、開店直後から『Blanche』のカウンターへ続く列が絶えない。書店のラックに並ぶ美容雑誌を見渡せば、シャンパンゴールドとアイスブルーのラインがあしらわれた純白のジャー容器が表紙を独占していた。


 SNSのタイムラインに目を向ければ、「一日中絶対に崩れない、完璧な盾」と称賛するゴールド派と、「息ができるくらい軽くて、素肌そのものが発光するみたい」と熱狂するブルー派が、連日のように熱い論争を繰り広げていた。

 

 二つの『Blanche』がヒットした理由は、あのPRイベントで私と蘭子さんが繰り広げた、意味不明極まりない専門用語の殴り合いも、ちょっと関係あるらしい。


「言っていることは一ミリも分からないけど、ガチで作っていることだけは伝わった」

「変態的な技術オタクが本気で作った化粧品なら間違いない」


 SNSでは、そんな呆れ半分、面白がり半分の好意的なコメントが飛び交っていた。


 『Blanche』が見栄えのいい綺麗な広告の言葉だけでなく、なに言ってるか分からない最先端の技術もちゃんと使われていることが伝わったのがよかったとのこと。これは一度目のPRイベントを見て使えると思った、黒瀬さんの狙い通りだった。



 世間を席巻する、そんな華やかな熱狂から少し離れた――アルカサス本社、地下二階。


 かつて社内カーストの最底辺と呼ばれ、流刑地のように扱われていた薄暗い廊下。その突き当たりにある鉄扉には今、廊下の蛍光灯を反射してピカピカに輝く真新しい真鍮のプレートが誇らしげに掲げられていた。


『研究開発チーム・白組』


 復活である。


 解散の危機を乗り越え、私たち白組は、あの愛着しかない地下ラボで完全復活を遂げていた。


 組織再編の大波に呑まれ、いくつもの部署をクラゲのように漂い、たらいからたらいへ華麗に回され続けた私も、ようやく、この鉄扉の内側へ帰還することができたのだ。


 扉を開ければ、ツンと鼻を突く薬品の匂い。

 恒温槽が奏でる、かすかなモーター音。

 華やかさも映えもゼロ。

 ああ……ただいま、私の楽園。


「由芽、ネオシンの改良版シミュレーション、終わったよ」


 実験台の向こうから、小気味よくキーボードを叩く音とともに、千夏の落ち着いた声が飛んできた。


 三台のノートパソコンを要塞のように並べ、その中央で丸眼鏡の奥の理知的な瞳を細めている。膝の上には、あの有休の戦いをともに生き延びたサメ型の抱き枕が、相変わらず少し潰れた姿で鎮座していた。


「結果、試作条件のパラメーターにまとめて、共有フォルダに投げといたから。見といて」


「サンキュー!」


 私は手元のタブレットを素早くスワイプし、千夏が弾き出したマトリクス表へ目を落とした。


「さすが千夏! 完璧! すっごく綺麗に出てるよ! 何これ、美しい! このまま額縁に入れて壁に飾りたい!」


「飾らなくていいから、試作して」


「うん。早速これで組んでみる!」


 興奮のまま新しいビーカーを取り出そうとした、そのときだった。


「お疲れさーん。由芽ちゃん、ちょっといいかな」


 地下ラボ、本日の来訪者一人目。

 技術営業の三村さんが、開いた扉からひょっこり顔を覗かせた。

 

 くたびれたコットンのジャケットを羽織り、申し訳なさそうに眉尻を下げている。


 あの種の顔は知っている。営業が白組へ無茶を頼みに来るときの顔だ。


「なに、三村さん。また基材の海外レートが上がったから、値上げ交渉しろって話?」


「いや、それとは違ってさ。秋の限定コフレなんだけど、今朝始まった先行予約でサーバーが落ちちゃって。ネオ・シンヴェールの反響、まだまだすごいことになっててさ」


「へえ。それは嬉しいけど……」


 私は手にしていたガラス棒を、そっと実験台へ置いた。

 そして、三村さんをじろりと見る。


「なんか、すごくいやな予感」


「それで、ちょっと相談なんだけど……」


 ほら来た。


「工場の生産ライン、あと三週間、増産を前倒しできないかな? 販売の連中が在庫が足りないって泣いててさ。なんとか少しでも早く出せない?」


 三村さんが、胸の前で両手を合わせた。


 拝んでいる。

 だが、ここは神社ではないし、私は、増産の神ではない。


 私は満面の笑みを浮かべた。


「無理です」


「だよねえ。そこをなんとか……」


「無理なものは無理です」


 笑顔のまま畳みかけた。


「今でも釜のスケジュールは、かなりキツキツなんです。三週間も前倒しして生産速度を上げるということは、一回の製造にかける冷却時間を短縮するということですよね?」


「うん。まあ、そうなるかな……」


「急激に温度を下げたら、せっかくのラメラの網目が綺麗に形成されません。網目が乱れる。構造が弱くなる。品質が担保できなくなる。つまり――」


 私はガラス棒を、ずびし、と三村さんへ突きつけた。


「売るものが増えても、売っていいものが減ります」


「うん。やっぱりそうだよなあ」


 三村さんは、あっさりと両手を下ろした。


「せっかくのネオシンの良さが消えちゃったら、本末転倒だし。分かった。あっちには俺から、諦めるようにきつく言っておくよ」


「すみません。お願いします」


 頼もしい。

 無茶は持ってくるが、理由を説明すれば引き下がる。それが三村さんの良いところである。


 納得して帰っていく三村さんの背中と、入れ替わるように。


「あら、湊川さん。ここにいたの」


 地下ラボ、本日の来訪者二人目。


 開いたままの扉から、プロモーションチームの黒瀬さんが優雅な足取りで入ってきた。


 カツン。カツン。

 鋭いピンヒールが、リノリウムの床を鳴らす。

 高級ブランドのシルクブラウス。寸分の隙もないフルメイク。ふわりと漂う、上品な香水。


 薬品臭とモーター音に支配された地下ラボへ、突然、百貨店の化粧品フロアが殴り込んできたような華やかさだった。


「予約限定ポーチのサンプルが上がってきたわよ。表面に、ネオ・シンヴェールのラメラ構造をイメージしたデザインをあしらってみたから、技術的な視点でも見てもらおうと思って」


 黒瀬さんはそう言うと、コロンとした純白のポーチを実験台へ置いた。


 表面には、銀色の細いラインが幾重にも交差し、美しい網目を描いている。 

 細部まで洗練されていてお洒落だ。


 私は、パソコンから顔を上げた千夏と一緒にポーチを覗き込んだ。


「いいじゃん。かわいい」


 千夏が、端的かつ的確な評価を下す。


「うん。かわいいけど……」


 私はポーチの表面を指でなぞりながら、眉を寄せた。


「このラメラ、ちょっとおかしい……」


「出たよ」


「ネオ・シンヴェールのラメラ構造って、親水基と親油基が交互に規則正しく並んで層を作るんですけど、このデザイン、ところどころ親油基の向きが逆になってますよね」


「……そうなの?」


 黒瀬さんが不安そうな表情を浮かべる。


「はい。ここです。ここと、ここ。それから、このラインも。細かいことを言うと、この向きだと分子同士が反発して――」


「つまり……、お客様が見る分にはまったく問題ない。オッケーってことね」


 黒瀬さんは、私のマニアックな指摘を一ミリも表情を変えずに華麗にスルーした。


「じゃあ、デザインチームにはその旨を伝えておくわ」


 黒瀬さんは純白のポーチをさっさと回収すると、香水の匂いだけを残してラボから出ていった。


「だったら、最初から聞かなきゃいいのに……」


 私は頬を膨らませ、誰もいなくなった扉へ向かって口を尖らせる。


 まあ、いっか。


 私は気を取り直し、新しい試作のためのビーカーへ手を伸ばした。


 営業は、売るために無茶を言う。


 プロモーションは、魅せるために分子の向きを無視する。


 そして私たち白組は、世界で誰も気にしないような細部にまで執念深く噛みつき、駄目なものには笑顔で「無理です」と言う。


 それぞれの部署が、それぞれの強みと役割を持ち、遠慮なく意見をぶつけ合う。営業やプロモーションと密に連携しながら、それでも製品の品質だけは決して譲らず、妥協のない研究開発を続けていく。


 それが、私たちの新しい『白組』なのだ。



* * *



 夜になると、私はもう一つの地下ラボへ向かう。


 昼はアルカサス本社の地下二階。夜は座馬邸の地下。しかもインドア、夜行性。我ながら、どこまでも日の当たらない女である。


 ちなみに未だに座馬邸の地下に来るのは、会社とはまったく別の、純粋な基礎研究や自由な発想の実験……というのは建前で、もう一つ、非常に切実な目的があった。


 美味しいご飯を食べるためである。


「キリのいいところで上がるといい。夕飯にする」


 実験台でフラスコと睨み合っていると、いつの間にか地下へ降りてきた颯真に、手からピペットをひょいと取り上げられた。


「ああっ! 返してください! あと一滴だけ!」


「その『あと一滴』を、今日はすでに三回聞いた」


「今度こそ本当に一滴です! これを加えたら界面の状態だけ確認して――」


「四回目だ」


「増えた!」


「だめだ」


 有無を言わせぬ低い声で、実験は強制終了。

 私の手からピペットの親権を奪った颯真は、さっさと上の階へ戻っていった。


 横暴だ。

 しかし、抵抗したところでピペットは返ってこないし、なにより晩ご飯が冷めてしまう。私は白衣を脱ぎ、颯真のあとを追って、いそいそと彼の母屋へ向かっていく。


 キッチンへ入った瞬間、出汁の優しい香りが鼻をくすぐる。


 もう美味しい。

 まだ一口も食べていないのに、すでに美味しい。


「すぐにできる」


 アイランドキッチンの前では、白いシャツの袖を肘までまくった颯真が立ち働いていた。


 冷徹な役員。

 社内の人間を震え上がらせる吸血鬼。

 そして、私の食事時間と栄養状態を一切の妥協なく管理するオカン。

 今日も彼の属性は、キッチンの入り口で順調に玉突き事故を起こしているのだ。


 私はダイニングテーブルのいつもの席に座り、すっぴんの頬を両手で挟んで、キッチンに立つ彼を眺めた。


 トントントン、と小気味よく響く包丁の音。

 鍋から立ち上る、柔らかな湯気。

 無駄のない動きで小鉢を並べる颯真の横顔は、本社の執務室で重要書類を見つめているときと同じくらい真剣で――それなのに、どこまでも穏やかだった。


「さあ。食べよう」


 やがて、完成した料理が次々とテーブルへ並べられた。


 甘辛い煮汁をまとい、つやつやに輝く金目鯛の煮付け。大きな筍が惜しげもなく入った、ふっくら炊きたての筍ご飯。

 出汁の効いた茶碗蒸しに、鮮やかな緑の菜の花の辛子和え。そして、透き通った汁の中であさりが口を開く、澄まし汁。


「わあ……!」


 反射的に両手を合わせた。


「いただきます!」


 まずは、金目鯛の煮付けを一口。甘辛い煮汁が染み込んだふっくらとした身が、舌の上でほろりとほどける。


「ん~~~っ!」


 私は箸を握ったまま、全身を震わせた。


「美味しい! 生き返る! 私の細胞が一斉に再起動してます!」


「もっとよく噛んで食べろ」


「だって、本当に美味しいんですもん。というか颯真、また料理の腕、上がってません?」


「そうか?」


「そうですよ! この煮付け、味の浸透圧が完璧です! このままだと本当に、小料理屋『ざま』を開業してしまいそうな勢いなんですけど!」


 呆れ半分、感心半分、幸福百パーセントで筍ご飯を頬張る私を見て、颯真は小さく息を吐いた。


 それから、私の湯呑みにほうじ茶を注ぎ、手元のティッシュケースを無言ですっと差し出してくる。


「口の端。醤油がついているぞ」


「あっ、すみません」


 慌てて口元を拭きながら、私は少しだけ思った。


 この人は、ずっとこうだった。

 私が実験以外のすべてを忘れても、食事を作って、休ませて、口の端についた煮汁まで教えてくれる。

 颯真はずっと、オカンみたいに小言を言いながらも、こうやって私を甘やかしてくれている。


「ごちそうさまでした!」


 金目鯛の身も、出汁の染みた筍ご飯も、最後の一粒まで綺麗に平らげ、私は満足いっぱいに箸と茶碗を置いた。


 温かい食事。静かな部屋。向かい側には、私のためにほうじ茶を淹れてくれている颯真。


 呆れたような、それでいてどこまでも穏やかな横顔。


 そんな颯真を見ながら――、それは突然、起きた。


 胸の奥で、何かが大きく跳ねた。


 ロマンチックな夜景も、特別な演出もない、美味しいご飯を食べたあとの、すっぴんの日常。

 ここでこうして、颯真と向かい合って過ごす時間。

 実験を止められ、食事をさせられ、口の端についた煮汁を指摘される毎日。


 それがたまらなく好きだということに、気が付いてしまった。


 相関係数、ほぼ一。

 再現性、あり。

 有意差、文句なし。

 解析完了。


 今までバラバラだと思っていた事象が、カチリ、と音を立てて一本の線で繋がった。

 あ。そっか。


 そういうことだったんだ。


「颯真」


「なんだ」


「私、たった今、ものすごい真実に気づきました」


 私の声があまりにも真剣だったからだろう。

 颯真は口元へ運びかけていた湯呑みを止め、怪訝そうに眉を寄せた。


「……なんだ。また新しいクリームの処方でも思いついたか」


「違います」


「では、ラボの設備を増やせという話か」


「それでもありません」


 私は椅子の上で姿勢を正し、颯真の漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめた。



「実は……」


 さすがに少しだけ緊張して、私は膝の上で両手を握った。


「私は、颯真のことが好きだということに、たった今、気づきました」


「はっ?」


 颯真の全機能が停止した。


「今までの事象と感情のデータが、全部、一本の線で繋がったんです。私、颯真と一緒にいるこの時間が、すごく好きです」


「君……」


「だから、これは暫定報告ではありません。確定した解析結果です」


 私は大きく息を吸い込んだ。


「私、颯真のことが大好きです」


 言った。

 言ってしまった。

 しかも、言葉にしたら、思っていたよりずっとしっくりきた。


 でも、間違いない。これはもう、追加試験の必要もないだろう。


 そこで私は、さらに重要な提案へ踏み込んだ。


「一生、私に美味しいご飯を作ってください」


「…………」


「あと、地下ラボも一生使わせてください」


「…………」


「その代わり、私はずっと颯真のそばで白衣を着ます。颯真って、白衣、好きですよね?」


 再び、沈黙。


 湯呑みから立ち上る白い湯気だけが、私たちの間でゆらゆらと揺れている。

 颯真は、深いため息とともに眉間を指先で押さえた。


「……今のは求婚なのか?」


「はい」


「それとも、食事と研究設備の終身利用申請なのか?」


「はい」


「どちらだ」


「どっちもです!」


 私はダイニングテーブルへ両手をつき、勢いよく身を乗り出した。


「颯真。私と結婚してください!」


 静かなリビングに、私の声が高らかに響き渡った。颯真の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。


「告白の直後に、いきなり結婚まで行くのか」


「必要な検証が、もう全部終わったので!」


「つい数秒前に気づいたと言わなかったか」


「自覚したのが数秒前なだけです。データの蓄積期間は十分です!」


「君の結婚相手に対する評価項目は、どうなっているんだ……」


 颯真が、片手で顔を覆った。


 けれど、その長い指の隙間から見える耳の裏は、今まで一度も見たことがないほど真っ赤に染まっていた。もともと色白だから、余計に分かるのだ。


 どんな役員の恫喝にも表情を変えなかった男が、今は真っ赤。

 これは希少データだ。保存したい。


 急に、颯真が顔を覆ったまま肩をわずかに震わせ、くくっ、と笑い始めた。


「本当に、君はどこまでも予測不能だな。いくらなんでも、唐突過ぎる」


 颯真はそう言って立ち上がると、椅子の背に掛けてあった漆黒のジャケットへ歩み寄った。


 そのまま内ポケットへ手を入れる。


「えっ」


 取り出されたのは、小さな黒いベルベットの箱。

 私の目の前で、その蓋が静かに開かれる。

 ダイニングの温かな照明の下で、一粒の透明な石が、凛とした光を放った。


「えええっ!?」


 私は椅子から半分ほど浮き上がった。


「いつの間に!?」

「ああ。実は、今夜、俺から言う予定だった」

「今日!?」

「そうだ」

「今夜!?」

「そう言っている」

「まさか、私、プロポーズを横取りしました!?」

「そういうことになるな」


 颯真はちょっと悔しそうに、同時に、とても優しい顔で笑っていた。


「す、すみません。でも研究成果は、先に発表した人のものですから!」

「プロポーズに先願主義を持ち込むな」

「今回は私の方が数分早かったので、発案者は私です!」

「その理屈なら、箱を用意していた俺の方が先ということになる」


 颯真は呆れたように言いながら、ケースからリングを取り出した。


 そして、テーブル越しに私の左手を取る。

 冷たく滑らかな輪が、私の薬指へゆっくりと滑っていく。


 透明な石が、私の指の上できらりと輝いた。まるで最初から、そこに収まることが決まっていたように、ぴたりとはまっていた。


「由芽」

「はい」

「俺と結婚してくれ」


 今度は、私の方が止まった。

 ついさっき、まったく同じ意味の言葉を自分から大声で叫んだはずなのに。告げられた途端、胸の奥がいっぱいになった。


 急に心臓の音が、うるさく感じた。

 顔が、熱くなる。息の仕方まで、分からなくなった。


 それでも私は、何度も力強く頷いた。


「……はい」


 声が少し震えた。だから、朝礼で校長先生にダメ出しされた時のようにもう一度。


「はいっ!」


 大きな声で、頷いた。


 返事に呼応するように、薬指のリングが、私の動きに合わせてきらきらと輝いた。

 その濁りのない、純粋な光に私はポツリと呟いた。


「これ、プラチナですね」

「ああ」

「馴れ初めに合わせて、シルバーにする考えは?」

「あったが、やめた」

「どうして?」

「黒ずむたびに、君がアルミホイルと熱湯と塩で還元する姿しか想像できなかった」

「いくら私でも、婚約指輪を給湯室で煮たりしませんって!」

「本当か?」

「本当です!」

「…………」

「だから、さすがに給湯室ではやりませんって。……でも、地下ラボのビーカーなら、ワンチャン……」

「やはりだ。だからプラチナにした」


 隙のない判断だった。さすがは事業戦略部である。


「でも、確かに。よく考えたら吸血鬼は銀が弱点ですもんね。銀の指輪は調子悪かったですね」


 リベンジだ。


「婚約した直後まで、俺を吸血鬼扱いか」

「一生します」

「それも結婚の条件に含まれているのか」

「もちろんです。一括契約です。地下ラボと、美味しいご飯もセットです」

「一方的な契約に聞こえるな」

「残念でした! もう解約(クーリングオフ)できません!」


 私は椅子から立ち上がり、テーブルを回り込むと、そのまま颯真へ飛びついた。


 前と同じように、身長も、体格も違いすぎるせいで、抱きつくというより、ほとんど胸元への正面衝突になった。


 颯真はよろめくことなく私を受け止めると、あの時とは違い、大きな腕を私の背中へ回し、腰を力強く引き寄せた。


 いい雰囲気でも頭ナデナデしかしなかった癖に、今は、逃がさないとでもいうように、しっかりと抱き締めてきた。


 出汁の優しい香り。

 清潔なシャツの匂い。

 背中へ回された、温かな手。


 私はふっと全身の力を抜き、その腕の中へ身を預けた。



 昼は会社で夜は家で。白衣姿で好きなだけ実験する。

 お腹が空いたら、美味しいご飯を食べる。

 私が過集中で暴走したら、颯真が止める。

 颯真が一人で何もかも背負おうとしたら、今度は私が止める。

 私が間違えたら、颯真が怒る。

 颯真が間違えたら、私が執務室の扉をこじ開けてでも怒る。


 もし彼に硫化した銀の弾丸が撃ち込まれそうになったら、給湯室にもあるアレで、一発で元に戻す。

 ――吸血鬼相手だと、それはむしろダメージが増えるかもしれないけれど。


 そんな騒がしくて、美味しい毎日を。これから、一生。

 二人で



 私と颯真は、きっと沢山違う。

 身長も。体格も。生活の几帳面さも。料理の腕も……。

 計画を立ててから動く男と、思いついた瞬間にビーカーへ手を伸ばす女。

 水と油くらい、決定的に違うのかもしれない。


 でも、どれほど激しく振り回されても、大きな温度変化に晒されても。私たちはきっと分離しない。


 長期安定性試験の終了予定は――もちろん、なし。


 すっぴん白衣の私と、吸血鬼系オカンの颯真。


 二人で始めるこの終身共同研究は、これから先も、ずっとずっと続いていく。


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