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34話:エマルジョンな共闘作戦

 吐く息が、真っ白に弾けた。

 週末を迎えた街へ、冬の冷気が一気に流れ込んでいた。


 コートの襟を立てた人々が足早に行き交う都内。夜空へ向かって屹立(きつりつ)する高級ホテルの、普段は国際会議や、国賓を招いた晩餐会に使われるメインバンケットルーム。


 大理石。シャンデリア。天井まで届く巨大スクリーン。


 数百人を収容するその豪奢な空間は、今夜、たった一つの化粧品ブランドに完全占拠されている。


 新生『Blanche』――完全復活お披露目イベントが、今、開かれている……。


 私は凍える外気から逃れ、ホテル地下のスタッフ専用通路を歩いていた。

 薄暗い廊下。立入禁止の札。忙しく行き交うスタッフ。

 そして、その突き当たりにある、巨大な防音扉。この扉を開ければ、もう舞台である。


 私は大きく息を吸い、冷えた掌を扉へ押し当てた。


 ズン、ズン、ズン――。


 腹の底を直接叩くような重低音が、厚い扉を貫き、指先から腕へ、腕から心臓へと這い上がってくる。


 私はそっと扉の隙間を覗き込む。


 次の瞬間。

 光と音が、巨大な塊になって私の顔面へ殴りかかってきた。


「うわっ、まぶし……!」


 天井を縦横無尽に駆け回るムービングライト。腹の底の臓器を、許可なく直接揺さぶってくる重低音。壁一面を埋め尽くす『Blanche』の巨大ロゴ。


 会場には、数十万、数百万のフォロワーを抱える美容インフルエンサー、美容誌の記者、百貨店のバイヤーたちがぎっしりと詰め込まれている。


 私はホール最後方、機材が並ぶ照明卓の陰へと滑り込んだ。そこには、すでに黒いスーツ姿の颯真が腕を組んで立っていた。


 いつもの恰好とは違う、特別なイベント用の身体のラインに吸い付くような上質な漆黒のスーツ。それが彼の引き締まった長身に恐ろしいほど似合っていた。


 光を吸い込むような黒いシルエットに、冷たいほどに整った色白の横顔。張り詰めたホールの空気も相まって、今にも闇の中から鋭い牙を剥き出しにしてきそうな、美しくも危険な夜の住人のような凄みがある。


「……暗いところが似合いますね」


 隣に並んで小声で囁くと、颯真はステージから視線を外さないまま、わずかに眉間を寄せた。


「何が言いたい?」

「今度来るときは、マントつけてきてください」

「何の話をしているのか分からない」


 低い声で切り捨てられたが、私は密かに満足して、彼と同じように前方のステージへと視線を向けた。


 すでに会場のBGMは静まり、メインステージにはまばゆい純白のスポットライトが降り注いでいる。


 その光の中央に、蘭子さんが立っていた。


 身にまとった漆黒のドレスは華麗で、銀縁眼鏡の奥の瞳は知的に澄んでいる。細いマイクを握るその所作は、指先まで一分の隙もない。


「本日はお忙しい中、新生『Blanche』のお披露目イベントにお集まりいただき、誠にありがとうございます。開発技術リーダーを務めております、西城蘭子です」


 凛とした声がスピーカーを通して響き渡ると、待っていましたとばかりに、会場から割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。


 蘭子さんはそれに応えるように小さく微笑み、やがて会場の熱気が落ち着くのを静かに待ってから、ふっと表情を引き締めた。


「――本日の新しい『Blanche』のお披露目を始める前に、まずは皆様へ、どうしても謝罪させていただかなければならないことがございます」


 声のトーンの変化に、弾んでいた歓声がすっと引いていく。


「前回の先行サンプルの配布において、輸送中の振動により、一部の製品で成分が分離するという問題が発生いたしました。楽しみに箱を開けてくださった皆様へ、大きな不安と失望を届けてしまったことを、改めて深くお詫び申し上げます」


 蘭子さんが、深く、長いお辞儀をした。


 今日の招待客の中には、分離した不具合品を実際に引き当ててしまった人たちもいる。健康被害が一件もなかったことや、その後の迅速な連絡、回収、そして両手で抱えきれないほどの代替品の発送といった真摯な対応もあってか、誰一人としてこの場を欠席してはいなかった。


 今度こそ完成した「本物」を見るために。自分の肌で試すために。

 誰もが期待に頬を上気させ、熱を帯びた眼差しで最新型のスマートフォンをステージへと向けている。


 蘭子さんが顔を上げる。


「ですが――」


  巨大スクリーンが、純白に輝いた。


「その問題は、すでに解決しています」


 映し出されたのは、光を放つクリームのイメージムービー。


 その周囲へ、透き通った膜が形成されていく。

 ハイドロゲルの装甲。

 粒子同士が激しくぶつかる。

 それでも、壊れない。

 くっつかず、光を失わない。


「この改良されたシンヴェールは、製造、保管、輸送。そのすべてに耐え抜き、お客様の肌へ触れた瞬間にのみ、本来の光を解放する新技術です」


 蘭子さんが、会場を見渡した。


「このシンヴェールを使用することで完成したのが、新しい『Blanche』なのです!」


 凛とした宣言が響き渡った、直後。

 一瞬の静寂を切り裂くように、腹の底を震わせるスタイリッシュな重低音のビートがホールに炸裂した。


 蘭子さんの背後にそびえる巨大スクリーンが一斉に切り替わる。

 映し出される、完成した新生『Blanche』のパッケージを捉えたイメージムービー。


 暗闇の中から滑らかに浮かび上がる、洗練された純白のジャー容器。縁を彩るシャンパンゴールドの優美なラインが、艶やかに煌めき、ゆっくりと回転する。


 その完璧な演出に、巨大なホールが文字通り揺れた。

 地鳴りのような拍手と、インフルエンサーたちの歓声。無数のスマートフォンのフラッシュが、音楽のビートに合わせて弾ける光の波となって、広大な会場を真っ白に染め上げた。


「それでは皆様」


 蘭子さんが、優雅に片手を差し出す。


「新しい『Blanche』を、実際にその肌でお試しください」


 BGMが、柔らかなアンビエントミュージックへ切り替わった。


 天井から純白のスポットライトが幾筋も降り注ぐ。

 黒い制服。

 白い手袋。

 スタッフたちが会場の四方から一斉に現れた。

 銀色のトレー。

 その上には、『Blanche』のロゴが銀箔で刻まれた、真新しい白いギフトボックス。

 スタッフが客席の間を流れるように進み、一人ひとりへ箱を手渡していく。


 インフルエンサーたちが色めき立った。


「わあ、箱からもう可愛い!」

「待って、開封動画撮る!」

「リボンほどくの待って! まだカメラ回ってない!」

 サテンのリボンへ、一斉に指がかかる。


 三……二……一……開封。


「…………あれ?」


 歓声が、不意に途切れた。

 一人。

 また一人。

 箱の中を覗き込み、首を傾げる。


「え、二個?」

「色違い?」

「朝用と夜用とか?」

「聞いてないんだけど、これ何!?」


 箱の中には、純白のジャー容器が二つ並んでいた。

 一つは、シャンパンゴールドのライン。

 もう一つは、冷ややかな光を放つアイスブルーのライン。


 ステージ中央。

 蘭子さんの笑顔が、止まった。


 ゴールドは知っている。彼女が作った、新生シンヴェール。

 だが、青い容器など聞いていない。


 壇上のスタッフが、蘭子さんの前にも箱を差し出す。


「……なに、これは」


 マイクにも拾われない、小さな声が聞こえた。


 会場では二種類の塗り比べが始まっていた。


 右手には、シャンパンゴールド。

 左手には、アイスブルー。


「全然違う!」

「ゴールド、すごい! 肌の凹凸が消えた!」

「陶器みたい! 撮影の日は絶対こっち!」

「青い方、軽っ!」

「塗ってる感がないのに、肌が光ってる!」

「これ、仕事の日に使いたい!」


 どちらも、すごい。

 だが、すごさの方向が違う。

 シンヴェールは、凛と整える白。

 謎のクリームは、素肌にほどける白。


「この青い方、何!?」

「商品名、どこにもない!」

「ねえスタッフさん、これ買えるの!?」

「発売日いつ!?」


 疑問と期待と興奮で、会場の熱が、秒単位で跳ね上がっていく。


 インフルエンサーの声に押されるように、蘭子さんもアイスブルーの容器を手に取った。内心の戸惑いを悟られないよう、あくまで優雅に。


 カチリ。


 蓋を開ける。

 中身は、純白のクリーム。見た目だけなら、彼女のシンヴェールとほとんど変わらない。だが、スパチュラを差し込んだ瞬間、蘭子さんの目が、見開かれた。


「……柔らかい」


 すくい上げ、指先へ取る。

 手の甲へ伸ばすと、するりと純白のクリームが、体温に触れた瞬間、肌の上で柔らかくほどけた。


 そのまま肌へ溶け込んでしまいそうなほど、なめらかだ。


 ハイドロゲル装甲に守られたシンヴェールの、均一で、隙がなく、規律正しい伸びとは違う。

 なのに。

 中空粒子が少しも凝集していない。肌の上へ均等に広がり、内側からにじみ出るような透明な白を生み出している。


「……この柔らかさ、一体、どうやって……」


 研究者の目が、必死に答えを探そうとした時――。


 会場の全照明が一斉にブラックアウトした。


 ゲストのざわめきと暗闇を引き裂くように、歪んだギターの音が吠えた。ドラムが走り、重低音が、腹の底を蹴り上げる。


 巨大スクリーンに、二本の光が飛び込んだ。

 シャンパンゴールド!

 アイスブルー!

 ゴールドの光が、『Blanche』と書かれた化粧品ボトルを透明な装甲で包み込む。

 アイスブルーの光は、装甲を作らない。

 代わりに柔らかな網の目となり、ボトルを包まず、絡めるように全体で支える。


 守る白。

 ほどける白。


 画面中央へ、二つの言葉が叩きつけられた。


『GUARD』

『MELT』

 二本の光が、正面衝突する。

 閃光と爆発が広がり、吹き上がる銀色の粒子。

 同時に、スクリーンいっぱいに、巨大な文字が躍り出た。


『NEO SYNVEIL:ネオ・シンヴェール』


「ネオ!?」

「新商品だったの!?」

「二種類、同時に出すの!?」


 会場が、完全に爆発した。


 無数のスマートフォンがスクリーンへ向けられる。

 ライブ配信のコメントが滝のように流れる。


『青い方ほしい!』

『二個売り確定?』

『ゴールド派!』

『ブルー派!』

『両方派!』


 パッ!

 照明が戻った。

 巨大な『ネオ・シンヴェール』の文字を背にして。

 いつの間にか、ステージ中央に一人の女性が立っていた。

 身体へ吸い付くような漆黒のパンツスーツ。寸分の隙もないフルメイク。ルブタンの真紅のソール。


 そして。

 この会場で一番、自分が美しいと確信している人間にしかできない笑み。

 ――黒瀬麗奈。


「あっ、前のイベントの人!」

「サンプル対応のメール、この人の名前だった!」

「黒瀬さん、戻ってきたんだ!」


 客席のざわめきを、黒瀬さんは真正面から受け止めた。

 マイクを構える。


「皆様」


 真っ赤な唇が、凶悪なほど美しく吊り上がる。


「二個入っていて、驚かれましたでしょうか?」

「驚いたー!」

「先に言ってよ!」

「言ったらサプライズにならないでしょう?」


 即答。

 会場から笑いが弾けた。


「前回の先行サンプルでは、PR責任者として皆様へご心配をおかけしました」


 黒瀬さんは、深く一礼した。


「ですので今夜は、お詫びの言葉ではなく――新しい選択肢をお持ちしました!」


 黒瀬さんの言葉は潔く、そして、もう前しか向いていない。


「私たちは、ヒラルダ社の皆様が完成させた素晴らしいシンヴェールと並行して、もう一つの製品を開発してまいりました」


 背後のスクリーンに、二つの滴が現れる。


 白い水滴で表現された『白組――技術』

 極彩色の油滴の『キラキラ組――発信』


 二つが近づく。弾く。

 もう一度ぶつかる。やっぱり弾く。


「研究開発を担う白組と、PRを担うキラキラ組」


 黒瀬さんが、にっこり笑った。


「少し前まで、会議開始三分で分離する、非常に純度の高い水と油でした」


 会場から笑いが起きる。


「ですので――」


 黒瀬さんが、指を鳴らした。

 画面の中で、水と油が激しく回転する。

 砕ける。

 細かな粒になる。

 互いの中へ分散し、艶やかな純白の乳液へ変わっていく。


「乳化(エマルジョン)しました」


 スクリーンへ、銀色の文字。

『白組×キラキラ組』

『エマルジョン計画』


「白組が、本物を作る。キラキラ組が、その本物を、最も必要とする人へ届ける」


 二つの映像が一つに重なる。


「両方揃って、初めて商品になる」


 黒瀬さんが、二つのジャー容器を掲げた。


「一日中、崩れない、隙のない肌へ整えたい方には――シンヴェール。軽く、柔らかく、まるで素肌が深呼吸するような透明感を楽しみたい方には――」


 ステージ上で、黒瀬さんがアイスブルーの容器を前へと突き出す。


「ネオ・シンヴェール」


 歓声が跳ねる。


「これは、どちらが優れているかという戦いではありません」


 二つの容器を、並べる。


「美しさの方向が違うのです。今日の気分。今日の肌。そして、今日なりたい自分」


 黒瀬さんが、会場を見渡した。


「正解は、私たちが決めません。皆様ご自身で、お選びください」


「両方!」


 客席から声が飛んだ。


「両方買う!」

「そういう選択も、大歓迎です」


 会場が、笑いと拍手で揺れた。

 これが、黒瀬さんの真骨頂だ。


 技術的な設計思想の違いを。

 たった数分で。

 誰もが欲しくなる、二つの価値へ変えてしまう。


 私だけでは、できなかった。蘭子さんの完璧な『Blanche』に対抗し、さらにその価値をも高めながら並び立つためには、どうしても彼女――黒瀬麗奈のPR力が必要だったのだ。


 実は、『ネオ・シンヴェール』という名前も、白組とキラキラ組が連携して「二つの選択肢」として同時に売り出すこの『エマルジョン計画』も、すべて黒瀬さんのアイデアだった。


 私から未完成の青いクリームを見せられた彼女は、この途方もない演出と計画を組み上げてみせたのだ。


 ステージの袖で、蘭子さんが呆然とブルーのラインの容器を見つめている。一体何が起きているのか、まだ理解できていない様子だった。


 会場中の視線が黒瀬さんとスクリーンに釘付けになっているその隙に、私は颯真と目配せをし、照明卓の陰からすぐ背後の大扉をそっと開けて、会場外の廊下へと抜け出した。


「さて」


 黒瀬さんの声で、会場が再び静まった。


「このネオ・シンヴェールが、どうやってハイドロゲル装甲を使わず、繊細な中空粒子を安定させたのか」


 一拍。


「残念ながら、キラキラ専門の私にも分かりません!」


 笑いが起きる。


「したがいまして――」


 黒瀬さんが、ホール最後方の大扉へ手を向けた。


「ここからは、専門家に任せます」


  会場中のスポットライトが、一斉に走った。純白の光が、内側から最後方の大扉へ集中しているのが、扉の向こうの気配で分かる。


 数百人が振り返り、無数のスマートフォンが、同時にこちらを向いていることだろう。


 私は薄暗い廊下で息を整え、閉ざされた大扉の真正面へと歩み出た。


「出番だな」


 廊下の暗がりの中、隣に立つ颯真が私を見た。

 漆黒のスーツに身を包んだその姿は相変わらず闇に溶け込んでいる。でも、いつも冷ややかなその顔には、めずらしく微かな笑みが浮かんでいた。


「行ってきます!」


 私が迷いなく頷くと、颯真は無言のまま、すっと右手の拳を差し出した。

 私も、白衣の袖口からぎゅっと握り込んだ拳を突き出す。


 トン、とグータッチ。


 一瞬でも伝わる一回り大きい拳の温もり。

 いつだって、颯真が私の背中に弾みをつける。


 重厚な扉が左右へ大きく開かれた。

 むせ返るような熱気とまばゆい純白の光が、私の全身へ降り注ぐ。


 すっぴん、一つ結び、白衣。

 化粧品を作っているのに、メイクもしていない。

 ドレスもなければ、ハイヒールもない。

 白衣の胸元には、銀糸で刻まれた文字。

『TEAM SHIROGUMI』


 私はスニーカーの底で、大理石の床を踏みしめた。

 

 会場がざわめき、フラッシュが弾ける。数百台のカメラが、私を追ってくる。


 その真ん中を。

 洗い立ての白衣の裾を揺らしながら、私はまっすぐに歩いていく。


 階段を上りステージへ立つと、黒瀬さんが、マイクを差し出してきた。


「遅いわよ」

「照明が眩しくて、歩きづらかったです」

「言い訳はあと」

「はい」


 マイクを受け取り、会場の中央へ進み出る。


 会場を見渡す。


 うねるような熱気。

 容赦なく突き刺さる無数のフラッシュ。

 肌を焼くほどの強烈な純白のスポットライト。

 数百人という人間の期待と視線がのしかかってくる。


 けれど、自分でも不思議なくらい、怖くなかった。


 私は、すっぴんの顔で、思いきり笑った。


「ネオ・シンヴェールの処方設計を担当しました。アルカサス研究開発チーム・白組、湊川由芽です。ここから先は――」


 背後のスクリーンへ、ネオ・シンヴェールの測定データが一斉に展開される。


「化学をお見せします」


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