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23話:頼もしい仲間

 会議直後の座馬颯真(ざまそうま)の地下ラボ。

 そのホワイトボードの前に、私と颯真はいた。


 会社は早引き、というのかどうかは分からないが、これも仕事なので出張のようなものかもしれない。


 パイプ椅子に座る颯真はいつもどおりの黒いスーツ姿だった。けれど、さすがに疲れたのか、ネクタイの結び目を指でわずかに緩めている。


 先ほど、役員たちの前で、実の叔父を真正面から見据えた男。


『アルカサスの研究開発を、あなたの権力基盤を固めるための道具にするつもりなら――俺は、あなたを止めます』


 あの声が、まだ耳の奥に残っていた。


 日和見で。何を考えているか分からなくて。味方なのかと尋ねても答えず、肝心な説明はいつも三行ほど省略する男だと思っていた。


 その彼が今日、会社中を敵に回す覚悟で、私たちの研究を守ると言った。


 正直、胸が震えた。

 ほんの少し格好いいとすら思ってしまった。


 けれど、今の私の口から出たのは、そんな言葉ではなかった。


「……すみません」


 颯真の手が、ネクタイから離れた。


「何がだ」


「あなたまで、巻き込んでしまって」


 私は白衣の裾を握った。


「私があの会議で余計なことを言わなければ、あんなふうに叔父上と正面からぶつかる必要はなかったでしょう。私のせいで、次期社長候補の立場まで危うくして……」


「巻き込まれた覚えはない。俺が自分で決めて、あの場に立った」


「でも、もし証明ができなかったら……」


 颯真がアルカサスを去らないといけないかもしれない。

 颯真のお祖父様が興した会社を……。


 颯真は、あっさりと言った。


「問題ない。そのときは、小料理屋でも開く」


「…………はい?」


 思いがけない単語に、顔を上げる。


「小料理屋? 颯真が?」


 黒いスーツ。青白い肌。鋭い目元。深夜に出会えば、十人中九人が吸血鬼判定を下しそうな男である。


 そんな人が、カウンターの向こうで藍染めのエプロンを締め、黙々とだし巻き卵を焼いている姿を想像した。


 ……似合う。腹が立つくらい似合う。


「いいですね。絶対に繁盛しますよ。料理はものすごく美味しいですし、顔もいいですから。女性客で毎晩満席になります。私も手伝います」


「いや、それはちょっと」


「君が休憩室で使っているマグカップ……。内側の茶渋が、地層のようになっていた」


「そ、それは」


「飲食店には向いてない予感がする」


「研究員としての衛生管理能力を、マグカップ一個で判定しないでください!」


 私が抗議すると、颯真の口元がわずかに歪んだ。


 次の瞬間。


「……ふっ」


 短い吐息が、彼の喉からこぼれた。


 笑った。叔父へ宣戦布告し、次期社長候補の座を危うくして、それから一時間も経っていないのに。


 私も、たまらず吹き出した。


 二人の笑い声が、無人の地下ラボへ小さく響いた。


 ほんのわずかな時間。それでも、会議室を出てからずっと肩へ食い込んでいた重圧が、少しだけ軽くなった気がした。


 やがて笑いが収まる。


 代わりに耳へ戻ってきたのは、分析機器の冷却ファンが立てる、低く一定の駆動音。


 颯真の視線が、ホワイトボードへ向けられた。


「――それで、できそうか?」


 私は返事の代わりに、黒いマーカーを手に取り、ホワイトボードののいちばん上へ大きく書いた。


『残り――七日』


 私はその下へ、キュッ、キュッと二つの命題を書き出した。


『一、メスキータ社の評価プロトコルに、上市判断を覆す欠陥があると証明する』


『二、問題のクリームは、白組の最終処方をそのまま持ち出して作られたものではないと証明する』


 少し下がり、二行を眺める。


「……率直に言います」


「ああ」


「どっちも、ものすごくきついです」


 一つ目。メスキータ社が採用したのは、実試験の多くを、既存データと予測モデルによる机上評価へ置き換えた新しいプロトコルだ。


 そこへ、化粧品としての品質保証を根底から揺るがす穴があると証明する。


 二つ目。外部へ流出したとされる純白のクリームが、蘭子さんによって白組の完成処方ごと持ち出されたものではないと証明する。


 成分は一致している。見た目も、ほとんど同じ。けれど、粒径分布、温度に対する粘度変化、塗布時のレオロジーには、ごくわずかな違いがある。


 そのわずかな差が、単なる製造スケールの違いではなく、白組とは異なる技術を経た痕跡だと、根拠をもって示す。


 それは、このラボを使い始めてから、ずっと追い続けてきた問題だった。

そして、いまだに解けていない問題でもある。


「二つとも同時に追えば、どちらも中途半端になる可能性があります。できれば、どちらか一方へ戦力を集中したいです」


「どちらを選ぶ」


「二つ目」


 私は、迷わず純白のサンプルを指した。


「こっちは、私の専門です。後、七日で見つかる保証はありませんが、まだ可能性はある」


「一つ目は?」


「正直、私だけでは厳しいです」


 認めるのは悔しい。けれど、研究者の意地と、自分の能力を過大評価することは違う。


「評価プロトコルを読むことはできます。引用された論文も、試験項目の意味も分かります。でも、妥当性を崩そうとすると、私の専門から外れます。白組にはいたんですけどね」


 その顔が、すぐに浮かぶ。


 五年間、私の隣の席で、私が吐き出す大量の実験データを片っ端から整理し、解析し、ときには私自身も気づかなかった相関まで見つけてくれた相棒。


「私より、ずっと詳しい人が。白組で机上検討とデータ解析を担当していた――」


「――勝手に過去形にしないでほしいなあ?」


 背後から、呆れ返った声が飛んできた。


「え?」


 振り返る。


 いつの間に開いたのか、重い扉の前に、小柄な女性が立っていた。

 柔らかな黒の髪に眼鏡。童顔をさらに幼く見せる、ふっくらとした頬。地味なカーディガンに、膝丈のタイトスカート。


 見た目だけなら、職場見学に来た高校生と言われても信じる。


 だが、その肩には、年季の入ったノートパソコン用バッグが二つ。

 左手には、さらにもう一台。

 その時点で、ただの高校生ではない。情報機器を武器にして乗り込んできた、小型の攻城兵器である。


「千夏!?」


 白組の元同僚であり、私の親友。

 九条千夏。

 白組では分析チームを率い、成分データから市場評価まで、あらゆる数字を操っていたデータサイエンティストだ。


 白組の解体後は研究職を外され、なぜか人事部へ異動させられていたはずだった。


「なんでここに? というか、どうやって入ったの? ここ、颯真の私物の秘密ラボで――」


「そこの座馬部長から、いきなりメールが来たの」


 千夏は親指で、颯真を示した。


「件名は『協力依頼』。本文は、『今すぐに下記住所へ来てほしい』。その下に、電車の乗り換え、最寄り駅の出口、タクシー乗り場、運転手に見せる住所、入り方まで、全部書いてあった」


「え。いつの間に……」


「私が行くって返事する前から、タクシーまで予約済み。正直、差出人を三度見したよ。突然、会社の部長から秘密基地への潜入経路みたいなメールが届く身にもなってほしいんだよね」


「必要な情報は、すべて記載した」


 颯真が、悪びれもせず答える。


「普通はまず、『来られるか』って確認するんですよ」


「断るつもりだったのか?」


「……断らないけどさ」


 千夏は口を尖らせて肩をすくめた。


「それで……来てくれたの?」


「人事部まで噂が届いてるよ。あんたと座馬部長が、役員会議で専務に大喧嘩売ったって」


「大喧嘩ではない。正式な異議申し立てだ」


「社内では『創業家のお家騒動・第二幕』って呼ばれてるけど」


 千夏は、颯真の訂正を軽く流した。


 コツコツと低いヒールを鳴らして私の隣へ来ると、ホワイトボードを見上げる。


 丸眼鏡の奥で、瞳だけがすっと冷えた。


 この目を、私は知っている。

 千夏が何万行もの数値から、たった一つの異常値を見つけたときの目だ。


「一つ目。メスキータ社の評価プロトコルに、上市判断を覆す穴を見つける」


 千夏が読み上げる。


「由芽、ウェットな実験は変態的に得意だけど、ドライな解析は壊滅的じゃん」


「壊滅的まではいかない。ちょっと苦手なだけ」


「白組時代、相関係数を見て『一に近いから仲良し』って言った人が?」

「分かりやすい説明を心掛けただけです」

「多変量解析の途中で、三次元グラフを回転させて『きれい』って十五分眺めてた人が?」

「あれは本当にきれいだった」


 千夏は小さく息を吐いた。


「うん。やっぱり私が必要だね」


 千夏は二つのバッグと、手にしていた一台を実験台へ下ろした。

 どすん。

 小柄な体からは想像できない重い音が、実験台を震わせた。


「白組で、その『机上検討』を担当してたのは私。データ管理の専門家を人事部へ飛ばして、人の管理をさせた結果、ここ二週間の私の業績は、社員名簿を五十音順に並べて、元へ戻して、また所属順に並べたことだけ」


「何、その賽の河原みたいな仕事」

「しかも今日、自動ソートのマクロを組んだ。明日から私、やることゼロ」


 淡々と言ってから、千夏は私を見た。


「メスキータ社のモデルは、私が洗う。入力データ、境界条件、係数の置き方、引用論文との整合性。紙の上の戦争は、私の担当」


 それから、ホワイトボードの二つ目を指で叩いた。


「由芽は、二つ目に集中すればいい」


 口元が、少しだけ上がる。


「分担すれば、勝率は上がるじゃん」

「でも……」


 嬉しい。

 泣きそうなほど、嬉しかった。

 けれど、それ以上に怖かった。

 私は白衣のポケットの中で、拳を握った。


「……千夏まで巻き込みたくない。これ、専務に喧嘩を売るってことだよ。私なら、もともと黒瀬さんに嫌われてるし、今さらだけど……千夏は違う。せっかく会社に残れたのに、また何をされるか」


「いいのいいの」


 千夏は、あっさりと言った。


「私、もう仕事に飽きちゃってたのよ。研究を取り上げられて、専門性と関係ない部署に放り込まれて、仕事を与えない。これで会社に残してもらったことになるなら、ずいぶん親切な追い出し方だよね」


「千夏……」


「それに、明日から一週間、有給とったから」


「一週間!?」


「会社に知られる心配はしなくていい。私は一週間、正々堂々と休暇を満喫しながら、ここにこもるから。百六十八時間働くこともできるから大丈夫」


「休暇の定義が過労死寸前なんだけど」

「大丈夫。パソコン三台持ってきたから」

「何が大丈夫なの?」


 そう返したはずなのに、声が震えた。

 視界まで滲んでくる。


「千夏……ありがとう」


 私は堪えきれず、その小さな体を抱きしめた。


「ちょ、暑い。白衣が薬品くさい。あと、抱擁圧が高い」

「ごめん。でも、もうちょっと」

「仕方ないなあ」


 千夏の手が、私の背中を二度、ぽんぽんと叩いた。

 それから数秒だけ待って、私の腕からするりと抜け出す。


「ただし、最初に言っておくけど」


 ふざけた色が、顔から消えた。


「かなり厳しい戦いになるよ」


 千夏はバッグから一台目のパソコンを取り出し、実験台へ置いた。


「今回の評価プロトコルは、専務が一人で鉛筆舐めて作った数字じゃなくて、正式な審査を経て、上位会議で決裁されてる。つまり、たくさんの専門家が見て、一度は『妥当』と判定したもの。海外では、アルフレッドと似た中空粒子を、机上計算と予測モデルで評価した成功例も出てる。だから、たぶん机上検討という手法そのものは間違ってない」


「……だよね」


「モデルは、与えられた問いには正確に答える。でも、最初から問われなかったことには、何も答えてくれない」


 千夏は一台目のパソコンを起動しながら、静かに言った。


「だから間違ったモデルじゃなく、モデルの間違った使い方を暴く。もし、そんな穴があるならね」


「なるほど……」


 思わず、息を吐いた。私には、その発想はなかった。


 私は目の前のクリームを混ぜ、壊し、測り、その中に潜む違いを探す。

 千夏は数字の海へ潜り、計算からこぼれ落ちた現実を拾い上げる。


 私はホワイトボードを振り返った。


 二つの命題。


『一、メスキータ社の評価プロトコルに、上市判断を覆す欠陥があると証明する』


『二、問題のクリームは、白組の最終処方をそのまま持ち出して作られたものではないと証明する』


「二つ目は、私がやる」


 黒いマーカーを握り直し、二つ目の命題を大きな丸で囲んだ。


「一つ目は、私」


 千夏が、一つ目の命題を指した。


「方針は決まったな」


 颯真が、低い声で言った。私たちの視線が、同時に彼へ向く。


「俺は、七日後の上市可否判定会議までに証拠が揃うことを前提に動く。専務派以外の役員へ接触し、再審議を求めるための票を固める。製造、法務、品質保証にも、水面下で手を回す」


 正しい証拠があっても、それを突きつける場所がなければ握り潰される。その場所を作るのが、颯真の戦いだった。


「君たちは、全力で証拠を集めろ。判断を覆すための、誰にも否定できない証拠を」


 颯真の黒い瞳が、私と千夏を真っ直ぐに捉えた。


「それを、俺が会議の中央へ持ち込む」


 クリームを暴く私、数字を暴く千夏、会社を動かす颯真……。


 味方は三人。相手は、巨大企業の最高意思決定機関だ。


「よし!」


 私は右手を、実験台の中央へ突き出した。

 手のひらを下にして、二人の顔を見る。


「……何をしている?」


 颯真が怪訝そうに眉を寄せた。


「決起です」


「必要か?」


「必要です」


 千夏が即座に私の手の上へ自分の手を重ねた。


「こういうのはね、最初に勢いをつけないと、開始五分で正気に戻っちゃうんですよ」


「正気を失っていることが前提になっているが……」


「颯真も早く」


 私が急かす。


「俺もやるのか?」


「当たり前」


 私と千夏が、揃って彼を見上げる。

 颯真は納得できないという顔で、重なった二つの手を見下ろした。


 数秒の沈黙。


 やがて、観念したように小さく息を吐く。

 白く大きな手を、私たちの手の上へ重ねた。


「七日後――絶対に、ひっくり返すよ! いきますよ――せーのっ!」


 三人の手を、勢いよく振り上げる。


「えい、えい!」

「おーっ!」

「……おー」


 三つの声が、地下ラボの高い天井へ響き渡った。


 それに呼応するように、分析機器の冷却ファンが低く唸る。


 残された時間は七日間――百六十八時間。

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