銀の檻(おり)
目覚めたとき、シンの視界を埋め尽くしたのは、地下の薄汚れた天井ではなく、眩いほどに白い無影灯の光だった。
両手首には、分厚い拘束具。
皮膚には何本もの電極が貼り付けられ、それが細いケーブルとなって周囲の巨大な解析端末へと伸びている。
「……あ、目が覚めた?」
耳元で、鈴を転がすような、けれどどこか緊張を含んだ声が聞こえた。
シンが視線を動かすと、そこには白いコートを着た少女――ルナが覗き込んでいた。彼女の持つタブレット端末には、シンの鼓動や脳波を示す波形が、不気味なほど規則正しく刻まれている。
「ここは……」
「軍の医科学研究所、最深部。……あなたはあそこで倒れた後、レオン少佐の命令でここへ運ばれてきたの」
ルナはシンの腕に貼られたパッチを貼り直しながら、少しだけ困ったように笑った。
その瞳には、シンを「化物」として恐れる色はなく、純粋な好奇心と、かすかな同情が混じっている。
「信じられない……あなたの体、細胞の結合エネルギーが、普通の人間とは根本的に違う。まるで、この体そのものが巨大な『変換器』みたい。……あんな風にリセッターを消したのは、あなたが初めてよ」
シンは答えず、ただ自分の掌を見つめた。
あの時、敵に触れた瞬間の冷たい感触。自分が「人間ではない何か」のスイッチを押してしまったという確信が、重く胸にのしかかっている。
「……僕は、どうなるんですか」
「今は検査中。でも、少佐はあなたを『奪還作戦の切り札』にするつもりよ。……正直、お勧めはしないけど。あの人の訓練は、死ぬより辛いって評判だから」
ルナが言い終えるより先に、自動ドアがスライドし、凍りつくような冷気が部屋に流れ込んだ。
「世間話はそこまでだ、ルナ」
軍靴の音と共に現れたのは、レオンだった。
彼はベッドに横たわるシンを見下ろすと、手にしたファイルを放り投げた。そこには、シンがいた廃棄物処理班の解散通知と、新しい身分証が挟まっていた。
「シン。今日からお前の名は『一〇四番』ではない。特殊作戦群、対無機生物戦・独立分隊の所属だ」
「……勝手すぎる。僕は、元の生活に戻りたい」
「戻る場所など、もうない。……お前が消したリセッターの死骸(砂)を覚えているか? あれを解析した結果、お前の能力は敵を『無』に還すだけでなく、周囲の環境そのものを書き換えるリスクを孕んでいることが分かった。お前を野に放つことは、時限爆弾を放置するのと同じだ」
レオンはシンの顔を掴み、無理やり自分の方を向かせた。その瞳は、獲物を見つけた猛禽類のように鋭い。
「お前が人間として扱われたいなら、証明しろ。その力が人類を救うためにあるのだと。……さもなければ、お前はただの、処分待ちの欠陥品だ」
レオンはルナに短く指示を出すと、踵を返した。
「検査を切り上げろ。シン、着いてこい。今から訓練場へ行く。……生き残れるかどうか、まずは試させてもらう」
レオンが去った後の静寂の中で、シンはただ、拘束具を締め付ける冷たい感触を噛み締めていた。
「……ごめんね。でも、死なないで。私が、あなたのデータを見ているから。あなたの体が壊れないように、必ず、私が守るから」
_______________________________________________
無機質な白い壁が途切れ、重厚な鉛色の装甲板に囲まれた通路へと入る。
前を行くレオンの背中は、微塵の揺らぎもなく、軍靴が床を叩く硬い音だけが規則正しく響いていた。シンはその後ろを、借り物の軍服の硬い感触に戸惑いながら、引きずられるように歩いていた。
通路の脇には、訓練を終えたばかりの兵士たちがたむろしている。彼らはレオンを見ると一斉に直立不動の姿勢をとったが、その視線はすぐに、彼の後ろをついて歩く少年に注がれた。
「……おい、あれか。例の『化け物』っていうのは」
「ああ、処理場のゴミ溜めから拾われてきたっていう……」
隠そうともしない露骨な囁き。
恐怖と、自分たちが命を懸けて手に入れた力を「得体の知れない何か」が凌駕することへの嫉妬。シンは俯き、自分の爪先だけを見つめて歩いた。
「周囲の雑音を気にするな」
レオンが、振り返りもせずに言った。冷徹だが、鼓膜に突き刺さるような鋭い声だった。
「お前を蔑んでいる連中の大半は、地表に出て数分でリセッターの餌食になるゴミだ。価値のない人間に、価値を決めさせる必要はない」
励ましの言葉ではあるのだろうが、れっきとした軍の少佐がそんなことを言っていいのだろうかと、シンの中に疑念が生まれた。
「......少佐は、自分自身に価値があると思っていますか」
「あぁ?」
レオンが足を止め、急に振り返った。
シンは危うくその胸元に衝突しそうになり、たじろぐ。
「価値があろうがなかろうが関係ない。ただ我々には、地表を奪還しなければここで野垂れ死ぬという確かな事実があるだけだ」
レオンの瞳には、一切の慈悲がなく、ただ「目的」だけを見据える冷たい知性があった。
「いいか、シン。地下は巨大な棺桶だ。食料をリサイクルし、空気を濾過し、死を先延ばしにしているだけの場所だ。我々が外に出ない限り、人類は緩やかに、だが確実に窒息死する」
レオンは廊下の突き当たりにある強化ガラスを指差した。その向こうには、広大な地下訓練場が広がっている。
そこでは、数十人の兵士たちが泥にまみれ、リセッターを模した鋼鉄の標的に向かって絶叫しながら銃を乱射していた。
「あそこにいるのは、家族を守るために戦うと誓った者たちだ。だが、現実は残酷だ。彼らの銃弾は敵を貫かず、彼らの命は数秒の足止めにすらならない。……だが、お前は違う」
レオンがシンの肩に手を置いた。その手は、驚くほど冷たく、そして重い。
「お前だけが、あの絶望的な物理法則を書き換えることができる。……シン。お前が戦わないということは、あそこで泥を啜っている連中の死を放置するということだ。お前に、その責任が負えるか?」
「…………」
シンは言葉を失った。
「戦え」という命令よりも、「お前が戦わなければ誰かが死ぬ」という呪いのような倫理。それは、力を持ってしまった者が背負わされる、最も残酷な足枷だった。
「……僕は、そんな立派な人間じゃない」
「分かっている。だから、私がお前を『兵器』として完成させてやる」
レオンが再び歩き出す。その先にある重厚なシャッターが、重々しい金属音を立てて開き始めた。
「歓迎しよう、シン。ここから先は、数字で管理される雑用係の世界ではない。強者が弱者を喰らい、勝者がすべてを決定する――地上の論理が支配する場所だ」
シャッターの向こうには、硝煙と怒号が渦巻く訓練場が口を開けていた。
_______________________________________________
訓練場の空気は、火薬の燃えカスと兵士たちの汗、そして剥き出しの殺意で満ちていた。
重厚なシャッターが完全に閉まると同時に、シンを待ち構えていたのは、鼓膜を震わせるような怒声だった。
「――遅いぞ、お坊ちゃん! ここはゴミ捨て場じゃねえ、戦場だ!」
声の主は、狙撃手のニーナだった。
彼女は愛銃を肩に担ぎ、キャットウォークから飛び降りるようにしてシンの前に着地した。その瞳には、「化物」に対する激しい拒絶の色が浮かび上がっている。
「ニーナ、挨拶が過ぎるぞ」
ガリアが重いパワードスーツの足音を響かせ、奥から歩み寄ってきた。彼は一瞥してシンの青白い顔を確認すると、鼻で笑った。
「……まあ、無理もねえか。昨日は処理場でボルトを拾ってたガキが、今日は人類の希望様だ。反吐が出るのも分かるぜ」
「ガリア隊長、準備はできているな」
レオンの冷徹な問いに、ガリアは短く頷いた。
「ああ。地表から回収した『リセッター』の不活性個体だ。心臓部だけは生かしてある」
訓練場の中央に、強化ガラスで仕切られた巨大な円柱状のケージが運び込まれた。その中にいたのは、かつてシンが消去した個体よりも一回り小柄な、しかし全身が鋭利な黒曜石のように輝く無機生物だった。
「……ッ」
シンは反射的に後退りした。あの「音」が、脳の裏側で再び鳴り始めたからだ。
「シン、ケージに入れ」
レオンの声に、感情は一切なかった。
「いいか。お前の能力はまだ不確定な部分が多い。だが実戦でパニックを起こせば、敵を消す前にお前が死ぬか、あるいは味方を巻き添えにして消去するかだ。……意思の力で、戦場に向かえ」
シンは震える足でケージの中へと踏み込んだ。背後で、重厚なロックが掛かる。
ニーナが、ガラス越しに冷たい笑みを浮かべた。
「ほら、やりなさいよ。あんたが本当に『切り札』だって言うなら、その気持ち悪い手で、その怪物を砂に変えてみせてよ」
リセッターが、シンの体温に反応して活動を開始した。
多面体の関節が軋み、空間が歪むような高周波が響く。怪物の指先が、シンの喉元を目掛けて急伸する。
(くる……でも、出ない。あの時みたいに、文字が見えない……!)
焦れば焦るほど、シンの意識は混濁し、能力は沈黙を保った。
「どうした! 逃げ回るだけか!」
ガリアの罵倒が響く。
リセッターの鋭い結晶が、シンの頬をかすめた。鮮血が舞い、床に散る。
その時、観察室のモニター越しにシンを見つめるルナの、悲痛な声がインカムから届いた。
『シン君! 自分の鼓動を聴いて! 敵を見ないで、その「繋がり」を感じて……!』
(繋がり……?)
シンは、襲い来る結晶の爪を紙一重でかわしながら、目を閉じた。
恐怖の先にある、もっと深い場所。
足元のコンクリート、この地下都市を包む地殻、そしてその奥底で脈動する「何か」。
自分は今、巨大な回路図の上の一点に立っているのだという感覚。
[ 警告:対象の干渉強度が規定値を超えています ]
[ 権限を再取得――実行を開始します ]
「あ……」
不意に、視界が「透けた」。
目の前の怪物は、結晶の塊ではない。ただの、稚拙に組み上げられた「数式」の集合体に見えた。
シンは、あえて自分から一歩踏み出した。
リセッターが、逃げない獲物に困惑するように動作を止めた。その胸の中心、心臓部に向かって、シンはそっと右手を差し出した。
「デコード(解体)」
囁きと共に、シンがコアに触れる。
次の瞬間、リセッターの全身からすべての「色」が失われた。
真っ白な虚無が個体を包み込み、次の瞬間に訪れたのは、音のない崩壊だった。
黒曜石のような結晶体は、シンの足元で、ただの無害な灰色の塵へと変わり果てた。
訓練場に、静寂が訪れる。
ニーナは言葉を失い、ガリアは不気味なものを見るように顔を歪めた。
レオンだけが、満足げに薄く笑った。
「……素晴らしい。ルナ、今のデータを保存しろ。これが我々の『地表奪還』の第一歩だ」
シンは、塵の山の中に膝をついた。
全能感はない。ただ、自分の右手が、ひどく冷たく、人間離れした質感に変わっていく恐怖だけが残っていた。




