鉄の柩(ひつぎ)
地下二千メートル。ここには太陽もなければ、風もない。あるのは、巨大な換気扇が吐き出す、湿った油の匂いと機械の唸り声だけだ。
「……九十八、九十九、百」
シンは煤に汚れた指先で、ひしゃげたボルトをコンテナに放り込んだ。金属同士がぶつかる高い音が、コンクリートの壁に反響して虚しく消える。
彼の仕事は、上層階の戦闘で破壊された兵器の残骸を仕分けること。あるいは、防壁にこびりついた「リセッター」の死骸――その無機質な結晶の欠片を、命がけで削り取ることだ。
「おい、一〇四番! 手が止まってるぞ!」
背後から飛んできた怒声に、シンは肩を跳ねさせた。
振り返ると、重厚なパワードスーツの歩行音と共に、特殊作戦群の先遣隊長――確か、ガリアという名前だったか――が立っていた。分厚い胸板と、戦場で刻まれた無数の傷跡。彼のような「戦士」にとって、シンたち雑用係は背景の石ころと同義だった。
「……すみません、隊長」
「謝る暇があるなら動け。お前らが仕分けをミスって、リセッターの破片が動力炉に混じってみろ。この『ジオ・アーク』ごと、俺たちは綺麗な水晶細工に早変わりだ」
ガリアは鼻を鳴らし、シンの横を通り過ぎる。その際、シンの手元にあるボルトの山を忌々しげに一瞥した。
シンは再び視線を落とし、作業に戻る。
(……空って、どんな色なんだろう)
ふとした瞬間に、脳裏をよぎる疑問。
かつて人類が住んでいたという地表。そこには、どこまでも続く「青」があるのだと、配給される古びた電子書籍には書いてあった。だが、生まれた時からこの灰色の箱の中で生きているシンにとって、それはお伽話よりも現実味がなかった。
ガリアの足音が完全に消えると、隣の作業ブースから低い咳払いが聞こえた。
「……またガリアの親父に絞られたか。運がねえな、シン」
声をかけてきたのは、同じ廃棄物処理班のトニだった。シンよりいくつか年上で、過酷な労働のせいでその肌は青白く、不健康にテカっている。
トニは汚れきったタオルで顔を拭い、腰に下げた水筒から濁った水を一口飲んだ。
「別に。いつものことだ」
「相変わらず愛想のねえ奴。まあいい、これ食うか? 昨日の配給の余りだ。少しシケってるがな」
トニが差し出してきたのは、合成タンパク質の塊――通称「ブロック」の破片だった。見た目は消しゴムのようで、味は埃っぽい大豆に近い。地下で暮らすシンたちに与えられる、唯一の食糧だ。
シンはそれを黙って受け取り、口に運ぶ。
噛みしめるたびに、リサイクルされた再生水の不自然な金属味が舌に残った。この地下世界では、空気も水も、そして自分たちの命でさえも、すべてが使い回しの循環の中にあった。
「なあ、シン。聞いたか? 上の階じゃあ、また奪還作戦の準備が進んでるらしいぜ」
トニが声を潜めて言った。
「レオン少佐とかいう冷血漢が、今度は本気で地表を叩くつもりだってよ。……笑っちまうよな。俺たちがこうして鉄屑を拾ってる間に、お偉いさんたちはまた新しい鉄屑を増やす相談をしてるんだ」
シンは答えなかった。
トニの言うことは正しい。奪還作戦が始まれば、処理場にはまた山のような「兵器の死骸」が届くだろう。そして、運ばれてくるのは鉄屑だけではない。時折、中身が入ったままのパワードスーツが届くこともある。その「中身」を処理するのも、一番下っ端であるシンたちの役目だった。
シンはコンテナに寄りかかり、遠くにある巨大な通気ダクトを見上げた。
そこから漏れ出すわずかな光は、本物の日光ではなく、ただのナトリウムランプの残照だ。
「……何でもいいよ。作戦だろうが、全滅だろうが。僕たちがやることは変わらない」
「違いないな。……おっと、休憩は終わりだ。監視カメラがこっち向いたぜ」
トニが慌てて作業に戻り、再び金属を叩く音が響き始める。
シンもまた、錆びたボルトを手に取った。
だが、その瞬間だ。
シンの指先が、奇妙な「震え」を感知した。
それは機械の振動ではない。
もっと細かく、もっと鋭い――まるで空間そのものが、細かくひび割れていくような不快な共鳴。
「……?」
シンは、目の前の巨大な防壁を見上げた。
重さ数百トン、人類の生存を担保する鉄の門。その表面に、見たこともない銀色の亀裂が、生き物のように走り始めていた。
空気が、変わった。
何千人もが蠢く地下特有の淀んだ熱気が、一瞬にして凍りついたような、異常な静寂。シンの指先が触れていた鉄のボルトが、不自然なほど冷たく、そして「脆く」感じられた。
(……何だ、これ)
シンは自分の手を見つめた。
指先の皮膚が、見たこともないほど白く、透き通っている。
まるで、彼自身の肉体が「物質」としての定義を失い、境界線が曖昧になっていくような感覚。
その時、処理場全体の照明が、激しいスパークと共に一斉に消えた。
非常用電源に切り替わった回転灯が、処理場を赤色に染め上げた。重苦しいサイレンの音が、コンクリートの四壁に激しくぶつかり合い、耳の奥を掻き乱す。
「な、なんだ!? 停電か!?」
トニのうろたえた声が響く。だが、シンの耳にはその声さえも遠く、歪んで聞こえた。
シンの意識を支配していたのは、足元から這い上がってくる、心臓を直接握り潰されるような「不快な音」だった。
キィィィィィィィィン――。
鼓膜を突き刺すような高周波。いや、それは音ですらなかった。
空間を構成する何かが、無理やり引き剥がされるような、物質の悲鳴。
「トニ、逃げろ……!」
シンは叫んだ。自分でも驚くほど、喉が引き攣っていた。
「あ? 何を言って――」
トニが言い終えるより先に、背後の防壁が「爆発」した。
爆薬による破壊ではない。鋼鉄の扉が、まるで凍りついたガラスのように粉々に砕け散ったのだ。
その破片の向こうから、それは現れた。
人型を模してはいるが、肉も皮もない。
全身が、鈍い光を放つ半透明の銀色の結晶で構成された個体。関節があるべき場所には幾何学的な多面体が浮遊し、顔があるべき場所には、ただ深い虚無のような暗い十字の裂け目があるだけだ。
「リ、リセッター……! なんで、こんな最下層に……ッ!」
トニが腰を抜かし、尻餅をつく。
リセッターの「腕」が、音もなく持ち上げられた。その指先が、空中の湿気を吸い込み、瞬く間に鋭利な氷の槍のように伸長していく。
「動くな、そこまでだ!」
その時、頭上のキャットウォークから鋭い怒声が響き、銃声が闇を切り裂いた。
先遣隊の狙撃手、ニーナだった。
彼女が放った高初速の徹甲弾が、リセッターの胸部に直撃する。
だが。
「……っ、嘘でしょ!?」
ニーナの戦慄した声が漏れる。
弾丸は、リセッターの結晶体に触れた瞬間、運動エネルギーをすべて吸い取られたかのように、ポロポロと鉛のクズとなって床に落ちた。傷一つついていない。
リセッターは、感情の欠片もない動作で、標的をトニからニーナへと切り替えた。
その胸の裂け目から、銀色の光が溢れ出す。
「逃げろ、ニーナ! 散れっ!」
後方から駆けつけたガリアが叫び、パワードスーツの重火器を掃射する。
激しい火花が散り、処理場は爆音に包まれた。しかし、リセッターはその爆炎の中を、まるで霧の中を進むかのように平然と歩いてくる。
人類の武器が、この「物質の法則を無視する怪物」には、文字通り何の意味もなさない。
リセッターが、ゆっくりと右腕を振った。
それだけで、ガリアが守っていた鉄製のバリケードが、砂の城のように崩落した。
「がはっ……!」
ガリアが吹き飛ばされ、コンクリートの柱に叩きつけられる。
防衛線の崩壊。
助けに来たはずの戦士たちが、一瞬にして絶望の淵に立たされた。
そして、リセッターの十字の瞳が、再びシンの姿を捉えた。
仲間を守ろうとしたガリアも、必死に銃を構えるニーナも、もはや目に入っていない。
怪物は、確かな殺意を持って、ただの雑用係であるはずのシンに向かって一歩を踏み出した。
(くる……)
シンの視界が、急激に色彩を失っていく。
白と黒。そして、敵の核から放たれる、狂おしいほどの銀の光。
シンの血管の中を、沸騰するような熱が駆け巡り、脳内に未知の文字列が高速で転送され始めた。
[ 警告:周辺物質の整合性が低下しています ]
[ 調停者権限、部分承認 ]
[ 物理干渉プロトコル、起動します ]
「くるな……」
シンは、震える右手を前に突き出した。
リセッターの鋭利な結晶の爪が、シンの指先に迫る。
死の冷気が肌を刺した、その刹那だった。
世界から、すべての音が消えた。
ガリアの叫びも、ニーナの銃声も、警報の轟音も。
まるで古い映画のテープが引きちぎられたかのように、完璧な真空がシンの意識を包み込む。
(あ……これ、知ってる)
シンは思った。
なぜか、懐かしかった。この、世界が分解されていく感覚。
目の前の怪物は、もはや恐るべき侵略者ではなかった。それはただの「記述ミス」だ。この惑星に書き込まれた、不要な一節。消去すべき不純物。
シンの瞳の中で、銀色の幾何学模様が万華鏡のように回転する。
脳内に響く無機質な声が、最終プロセスを告げた。
[ 構造解析:完了 ]
[ 対象の結合権限を無効化します ]
「消えろ」
シンが呟いた。
震えていたはずの指先は、今や鋼のように静止し、リセッターの結晶の腕に触れた。
その瞬間、物理法則が悲鳴を上げた。
ドクン、と世界が脈動する。
衝撃波も、光の爆発もない。
ただ、シンが触れた指先を起点として、リセッターの硬質な肉体が「情報の霧」へと変わっていく。
「…………え?」
ニーナが、構えた銃をそのままに固まった。
彼女の目の前で、人類のあらゆる兵器を跳ね返してきた無敵の怪物が、まるで古い砂細工が風に解けるように、指先から、腕から、そして巨大な胴体から、さらさらと崩れ去っていく。
カチッ、カチッ、カチッ。
時計の針が刻むような乾いた音が、静まり返った処理場に響く。
それはリセッターの「存在」がこの世界から抹消され、元の無機質な塵へと還っていく音だった。
数秒後。
そこには、何も残っていなかった。
床に散らばったのは、リセッターの残骸ですらない。ただの、変哲もない灰色の砂だけだ。
「……一〇四番。お前、今、何をした……?」
壁際に倒れ込んでいたガリアが、呆然と声を漏らす。
その瞳には、救世主を見るような期待ではなく、得体の知れない「未知」に対する本能的な恐怖が浮かんでいた。
シンは、ゆっくりと自分の右手を見つめた。
指先からは、まだ銀色の淡い光が微粒子のように立ち上っている。
熱い。
血管を流れる血が、自分のものではない別のエネルギーに置き換わってしまったかのような、耐え難い全能感と空虚さ。
(僕は……壊したんじゃない)
シンは理解していた。
自分はただ、そこに在るべきではないものを消しただけだ。
「おい、動くなッ!」
不意に、複数の足音が響き、赤い照準レーザーがシンの胸元に集中した。
上層階から駆けつけた、軍の精鋭部隊だ。その中央を割って、一人の男が歩み出る。
漆黒の軍服に身を包んだ、若きエリート。
レオン少佐だ。
彼は、灰色の砂の山と、そこに立ち尽くす銀色の瞳の少年を交互に見た。
その口元が、冷酷な、しかし狂喜を孕んだ歪な形に吊り上がる。
「素晴らしい。これほどまでとはな」
レオンは、怯える兵士たちを制し、シンの目の前まで無防備に歩み寄った。
そして、シンの喉元に冷たい銃口を突きつける。
「選べ、少年。ここで『化物』として処分されるか、それとも私の飼い犬として、地上のゴミを掃除するかだ」
シンの視界から、銀色の文字が消えていく。
急激な脱力感に襲われ、膝が砕けた。
それが、シンという「兵器」が産声を上げた瞬間だった。




