伯爵家はあなたたちにお任せします
主人公が淡々と自立するだけのお話です。
「お姉さま、お願い、このレポート明日までなの。お姉さま、こういうの得意でしょう」
「だめよ、フルール。これは自分でやらないと意味がないのよ」
「だって、忘れていたんですもの。明日までに刺繍も仕上げなくちゃいけないし、とても時間が足りないの。お願い、お姉さま」
フルールは目にいっぱい涙を浮かべて懇願した。
それを見ていた母親のナタリーも、
「クロエ、少し手伝うくらい良いじゃない」
そう言って、妹の味方をした。
いつものことだった。妹のフルールが何かを願えば、それが何よりも優先された。クロエは自分の睡眠時間を削ってでも、妹のために奉仕することが当たり前とされてきた。
両親には、二人を差別している意識はなかった。ただ、ほんの少し、幼い妹には甘く、しっかりした長女には完璧を求めてしまっていた。クロエ自身も、妹は可愛くて、おねだりされれば『仕方ないなあ』と許してしまっていた。フルールの天真爛漫な明るさは、いつも家族の中心で輝いていた。
クロエは、フルールに頼まれたレポートの骨子をまとめたところで、婚約者のアルベールとの約束の時間になったと気づき、応接室に向かった。
部屋の中からは、楽し気な笑い声が聞こえた。
「ごきげんよう、アルベール様」
「やあ、クロエ。レポートは終わったの?珍しいね、いつも余裕をもって仕上げるのに」
「・・・ええ」
「お姉さまったら、期限を間違えて覚えていたのですって。うっかりさんよね」
「フルール?」
「クロエ、そんな顔したらだめだよ。ばらされて気まずいのは分かるけど、ギリギリまで放っておいたのは自分のせいだろう?」
「私は」
「ふふ、アルベール様、しっかり者のお姉さまも、こんなお茶目なところもあるのよ。可愛いでしょう?」
「フルールは人を褒めるのが上手だね。クロエも澄ましてばかりじゃなくて、フルールのように、人の良い所を見つけるように努力すべきだよ」
「どういう意味でしょう」
「ほら、お姉さま、そういうところよ。真顔で問い詰めたら、アルベール様だって困るでしょう?」
「その通りだ。クロエは堅苦し過ぎるんだよ。フルールの人当たりの良さを見習うといい。今日はこれで失礼するよ。クロエもレポート作成に、時間が必要だろう。きちんと仕上げて提出するんだよ」
「ええ?もう、お帰りですか。もう少しお話したかったのに。じゃあ、私、玄関までお見送りしますね」
「ありがとう、フルール、そうしてもらおうか。じゃあ、クロエ、また来週」
そう言って、アルベールとフルールは、肩の触れ合うほどの近さで並んで、部屋を出ていった。
残されたクロエは唖然とした。
今日はクロエと婚約者のアルベールとの茶会のはずだ。それがなぜ、クロエがフルールに頼まれたレポートをやっている間に、アルベールとフルールが茶を楽しんでいるのだ。時間がないと言っておきながら、人にやらせておきながら。しかも、まるでクロエが自分のレポートを忘れていたかのような言い草で。
この時初めて、クロエはフルールの天真爛漫さに疑問を持った。
応接間の食器を片付けに来たメイドに、アルベールとフルールは何時からお茶をしていたのか訊ねると、2時を少し回った頃だという。それはフルールがクロエにレポートを頼みに来た直後だ。
「どういうこと?約束は4時のはずなのに」
思わず呟くと、メイドが答えた。
「アルベール様のご都合で、2時間早まったと聞いております」
「聞いてないわ」
「フルールお嬢様がクロエ様にはお伝えしたとおっしゃっていました」
なるほど。クロエは自分のうかつさを呪った。
可愛くてなんでも許してしまいたくなる妹は、いつの間にか姉を利用することを躊躇わない、したたかな女に成長していた。
一度気がついてしまうと、フルールのあざとさばかりが目に付くようになった。そういえばあの時も、あの刺繍も、あの詩の連作も、あの課題も、フルールが褒められたものはどれも、クロエが手掛けたものだった。フルール自身の作品は、箸にも棒にもかからないものばかりだが、そこで口を出してフルールに恥をかかせることもあるまいと見逃していたのだ。フルールの態度も、これは違うのお姉さまが協力してくださって、などと一応は言っていた。すると周りはますます、フルールは謙虚だと褒め称えた。あの言い方だと、半分以上はフルールが手掛けたと思うはずだ。邪気のない笑顔が本当に上手い。
クロエは考えた。
両親はフルールに甘い。フルールがアルベールと結婚してこの伯爵家を継ぎたいと言い出せば、両親はそれを叶えるだろう。これまでクロエがそのつもりで努力してきたことに目をつぶって、アルベールと二人で頑張ればなんとかなる、などと言って。実際アルベールはそこそこ優秀なので、そつなくこなすかもしれない。
一つしか歳の違わないフルールには、まだ婚約者がいない。嫁入りする貴族令嬢は、卒業と同時に結婚するのが普通だ。両親も結婚相手を探している様子がない。最近のアルベールとフルールの距離の近さを見るにつけ、クロエとフルールを挿げ替えるというのが現実味を帯びてくる。
そうなった時、クロエはどうなるか。卒業まで半年を切った今、新たな嫁ぎ先など探すのは難しい。最悪なのは、嫁がずにフルールとアルベールの補佐をするために家に残れと言われることだ。実質仕事は全て回ってきて、社交などの表舞台をフルールたちが引き受けるというものだ。
ふざけんな。と、想像だけでクロエは腹を立てた。
だが、あり得過ぎて怖い。
こうなったら、もう就職して自立しよう。
王宮の女官採用試験を受けよう。
クロエは、こうと決めたら行動は早かった。
試験までひと月もなかったが、もともと優秀でなんでもこなしてきた。ただ、このところフルールの手伝いに時間を取られ、自分の勉強に集中しきれなかったところがある。レポートなども満足のいくところまで仕上げられずストレスも溜まっていた。
これからは自分のために時間を使おう。そう決意した。
それからクロエは、フルールのお願いを聞くのを止めた。
クロエのドレスやアクセサリー、お気に入りの小物など、物をねだられた時は、今まで通り『大切にしてね』と言って渡した。
その代わり、レポートや刺繍の制作などは、自分の宿題があるからと断った。母親からもフルールを手伝うように言われたが、卒業がかかっているのだから自分の宿題が優先だと譲らなかった。母親としても、クロエを貶めたいわけではないので、それ以上強く言ってはこなかった。
すると、フルールの提出物の評価が目に見えて落ちだした。当然である。これまでクロエがやっていたのだから。
フルールは、姉が自分の思う通りに動いてくれないことに不満を持った。そしてそれを、姉の婚約者であるアルベールに訴えた。
「最近、お姉さまが冷たいの。私、知らないうちに何かしてしまったのかしら」
「どうしたの?」
「私に時間がないことを知っていて、わざと宿題の邪魔をするんです。だから、まともなレポートが書けなくて、学校で叱られてしまいました」
「それはひどい。僕からクロエに言ってあげようか」
「いいえ、アルベール様、姉も最近思い悩んでいることがあるようなんです。私はまだ耐えられますから、このことは・・・」
「フルール、君はなんて姉思いなんだ。これまでも、約束の時間に大幅に遅れておきながら、謝罪の一つもない。代わりに妹の君が、僕のお茶の相手をしてくれているのに、どういうつもりなんだ」
「あの、そのことなんですけど、もしかしたら、姉にはほかに好きな人ができたのかも」
「なんだって!」
「いえ、そうと決まったわけではありませんが、最近様子がおかしくて」
クロエはこの会話を、隣の部屋のベランダから聞いていた。
「また時間を変更して、私には言わないのね。これまでも私が遅刻したことになってるなんて。おまけに私に好きな人ができたの『かも』ですって。『かも』って言葉で、言い訳する余地を残しているのはさすがね」
それにしても、フルールはこんな子だったろうか、とクロエは思う。
ちょっと要領よくおねだりをする可愛い末っ子のはずが、平気で噓をついて人を陥れるようになるなんて。アルベールも、そんなフルールの言うことを真に受けるような、見る目のない男に成り下がったのか。もう、どうでもいいか。クロエは、二人を見限った。
クロエは、その後も地道な努力を重ね、王宮の女官採用試験に合格した。
就職後は寮に入ることも決まったので、クロエは自宅の部屋を少しずつ片付け始めた。ドレスもアクセサリーもフルールに譲ってきたので、持ち出すものは本当に少なかった。トランクひとつに納まったので、いつでも出て行ける。
両親には、まだ王宮に勤めることは話してなかった。邪魔されるのがイヤだったし、だいいちアルベールとの婚約が解消されることもまだ知らされていないのだ。こちらが身動きできなくなるタイミングまで待っているのだろう。
それにしても、クロエが何も気づいていないと思っているのだろうか。使用人たちはあちこちでコソコソと噂をしているし、クロエに同情的な使用人は、フルールとアルベールの会話を伝えてくれたりもする。二人は結婚後の予定を語らい合っているらしい。夢いっぱいで結構なことだ。
あるいは、卒業式という記念すべき式典で、婚約破棄とやらを、やらかすつもりなのか。そこまで馬鹿だと思いたくないが。
卒業式の前日、クロエは父親に呼ばれた。
いよいよか。外で恥を晒すことにならなくて良かった。
クロエが執務室に行くと、両親とフルール、アルベールの4人が揃っていた。4人の中ではすでに話がついていることが分かった。
「アルベール君の婚約者をフルールに変更する。アルベール君のご両親の了解もとれている。これは決定事項だ」
前置きもなく父親が言い放った。
「さようでございますか」
クロエの無表情に、父親は一瞬ひるんだ。
「ついては、クロエには二人を支えてほしい」
「お断りします」
「なぜだ!」
「なぜ?なぜと聞きたいのは私の方です。私とアルベール様の婚約が解消されたこと、なぜ私には知らされていないのですか。私の逃げ場をなくすためですよね。フルールに伯爵家を切り盛りするだけの能力があるとお思いですか。ないですよね。ならば私が伯爵家を継ぐのが筋ではないですか。私を押しのけてフルールが継ぐなら、自分で仕事をするべきです。私の結婚の機会を奪っておきながら、次の婚約を探すでもなく、なし崩しに家に縛ろうとしていますよね。私は、あの子の尻拭いで一生を終えるなんて嫌です」
「尻拭いなどと、そんな言い方をするやつがあるか」
「では、なんと?面倒な仕事は全て私に押し付けて、美味しいとこどりで社交に精を出そうとしているお花畑夫婦の影武者ですか。領地経営をアルベール様は今から学ぶのですか。社交も外へ出て行くときは良いでしょう。でも、我が家で茶会を開く場合、計画手配は私が請け負って、フルールは当日お茶を飲みながら微笑んでいればよいのでしょう。簡単でよろしいわね。それならフルールでもできそうね」
「お姉さま、ひどい」
「ひどいのはどちら?アルベール様とのお茶会、いつも時間変更を私に知らせず、フルールとアルベール様で楽しんでいたわね」
「クロエ、君は好きな男ができたと聞いたぞ」
「フルールのそんな戯れ言に乗せられているようでは、伯爵家も危なそうね」
「クロエ、ではお前は卒業後どうするつもりだ。条件のよい結婚など、今さら見つからないぞ。我が家にいる限りは、相応に働いてもらう」
「出ていきます。働きに見合わない待遇になるのは見えていますから」
そう言ってクロエは執務室を辞した。クロエが出ていくと言ったのが想定外だったのか、誰もクロエを呼び止めなかった。本気だと思われなかったのかもしれない。そういえば、王宮に勤めることを言いそびれた。
言いたいことは山ほどあったが、言葉を尽くしても虚しいだけだ。クロエは、妹を甘やかしたツケが回ってきたのだと思った。どこかで線引きをすべきだったのだ。ここまでは譲ってあげても良いが、ここからは毅然と断るというように。
クロエが4歳か5歳の頃、ピクニックにいった先で、花冠を作ったことがあった。フルールが羨ましがったので同じものを作ってあげると、もっと可愛いのがいいと泣かれた。少し工夫を凝らして華やかに仕上げると、フルールは涙のいっぱい溜まった目でクロエを見上げ、
「おねえちゃん、ありがとう」
と、笑ったのだ。その顔がとんでもなく可愛く見えて、クロエはそれからフルールを甘やかすようになった。いつでもフルールの方が可愛いと思われるように、フルールが可愛く笑えるように、全力で頑張ってしまった。フルールも、それが当然と受け止めたのだろう。
思い返すと、『おねえちゃん』と甘えてきた頃のフルールは、天使さながらに可愛かった。それが、『お姉さま』と大人びた呼び方に変わった頃から、クロエは、ほんの少しだけ『イヤだな』と感じることがあって、それに気づかないふりをしていたと思う。
今回のことで、クロエは、もっと派手な決別の仕方になるかもと覚悟はしていた。
公の場での断罪とか、暴力に訴えた強制だとか、罵詈雑言を浴びせられて追い出されるとか。
けれど、そんな小説のような派手なことにはならなかった。クロエが婚約者の変更を受け入れ、家を出ることを告げ、妹の補佐を断った。いくつかの言葉の応酬があり、クロエは自分の主張を通した。それだけだった。
翌日、クロエは家を出た。
執事と数人のメイドが見送ってくれた。両親とフルールは、まだ寝ているのか、姿を現さなかった。
「私は王宮で女官として働きます。フルールたちをよろしくね」
クロエは別に、フルールやアルベールが不幸になればいいとは思わない。伯爵家が傾けば、困るのは領民だ。まだ両親がしっかりしているうちに、二人で仕事を覚えてほしい。
クロエは王宮の門をくぐる頃には、両親のこともフルールたちのことも頭の隅に追いやって、初仕事に向けて期待に胸を膨らませた。
読んでいただき、ありがとうございました。