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カイキの滴り

作者: 杉戸 雪人

私がIさんと知り合ったのは、関西にある大学のとあるボランティアサークルでした。私とIさんは同い年だったこともあり、ボランティア活動の合間によく雑談をする間柄になったのです。


まあそもそも、ボランティアをするような人というのは大抵の場合は親しみやすい人が多くて、割とすぐに仲良くなれるんですよね。Iさんも、そんなボランティア仲間の一人でした。


勉強が苦手な中学生への学習支援を行っていた私とIさんは、日頃から中学生の間で流行っている何かしらを共有していたのですが、ある日Iさんが「最近は怪談話が流行ってるよー」と教えてくれたので、私は「どんな怖い話があるの?」と尋ねました。


私も中学生の頃はインターネットの掲示板などで怖い話を漁っては一人で怖がっていましたので、どんな怖い話があるのだろうと興味があったのです。


それでIさんは少し考えるそぶりをして、「これは流行ってる話というか、個人的な体験談なんやけど……聞く?」と言って、高校時代に起きた出来事について語ってくれました。


……今にして思えば、Iさんは誰かにこの話を聞いてもらいたかったのかもしれません。


以降は、Iさんが私に語ってくれたお話を私が整理してお伝えいたします。どうぞ、お聞きください。





【カイキの(したた)り】





Iさんは高校時代、私立の女子高――それも宗教系の学校に通っていたそうです。Iさんによると綺麗な子が多かったということですが、Iさんを見て私も「なるほど」と納得したのをよく覚えています。


ふと私は『綺麗な子が多いからどうした』と思ったのですが、Iさんいわく「このお話はクラスで一番綺麗だったMちゃんの話なんよ」と、つまり綺麗な子が多い中でも特別綺麗な少女の話だと強調したかったようです。


そんなお嬢様学校である日、Iさんがいたクラスでショッキングな授業が実施されました。性教育の授業です。


私はその内容を聞いて、自分の出身校(男女共学の一般的な高校)でも同じような内容の授業を受けたな、と思い出しました。よくよく振り返ってみても、なんのことはないありふれた高校生活の1ページでした。


ただ、Iさんたちがいたクラスではそうはいきませんでした。その授業を受けてから体調を崩す生徒が続出し、特にMちゃんは翌日から一週間も体調不良――主に吐き気の症状が原因で欠席したんだそうです。


人によっては平気な方もいらっしゃるでしょうが、中にはこういった生々しい話は苦手だという方もいらっしゃるかもしれません。


Iさんたちは、人工中絶の映像を見たということでした。


一般的にはもちろんそうですが、堕胎は人にとって色々な意味で重大なことです。私も初めてその種の映像を見た時は少なからず心にくるものがありましたし、そのような状況になってしまうこと事態、可能ならば避けられるべきだとも思います。


私が男女共学校で中絶に関する授業を受けた時は、先生も女性の気持ちに寄り添う形で授業をしてくれていました。


しかし、Iさんたちの先生は違ったようです。その先生は女性でしたが、おそらくかなり偏った考え方をしていたのでしょう。女性に寄り添うのではなく、堕胎という行為そのものを絶対的に否定したのでした。Iさんたちの先生は演劇部の顧問をしていたこともあったせいか、その迫真の表情が生徒たちを怖がらせたのだそうです。


普段は綺麗で優しい女の先生にそんな態度をされて、生徒たちはさぞ怖かったことでしょう。


Iさんに「どう思う?」と聞かれた私は、問題が難しすぎてちゃんとは答えられませんでした。ただ、「その先生の教え方は、違うと思う」ということを言ったのは覚えています。Iさんも「……せやんなー」と言いながら遠い目をしていました。





Mちゃんが再び登校を始めると、Mちゃんを心配するクラスメイトがすぐに彼女を取り囲みました。


Mちゃんは最前列の一番左端の席で、Iさんは最前列の真ん中――教卓の正面の席でした。


Iさんは遠巻きにその様子を眺めていたらしいのですが、なにか違和感を覚えたそうです。


ぴと、ぴと、ぴと――


お風呂の蛇口が閉まり切っていなかった時のような音が、Iさんの耳に聞こえてきました。辺りを見渡そうと首を回してみますが、どうもその音はMちゃんたちがいる方から聞こえてくるようなのです。


ぴと、ぴと、ぴと――


ああ、聞かんとこ。Iさんはなんとなくそう思ってイヤホンをつけ、おそらく当時のお気に入りのロックバンドの曲を聞くことにしました。


そんなことがあった日の夜、Iさんに珍しい連絡があります。Mちゃんからです。Mちゃんが、Iさんと二人で話がしたいというメッセージを送ってきたのです。


この時、Iさんはずいぶんと返信をためらいました。あの水滴のような音が聞こえてきたときもそうでしたが、なんとなく関わると良くないことが起こりそうな気がしたのです。


かといって無視するわけにもいかず、Iさんはそれとなく複数人で話す方向に持って行くようメッセージを交わしました。


ですが、Mちゃんはどうしても二人きりがいいようで、Iさんも根負けしてしまいます。終末の土曜日、Mちゃんが指定した喫茶店で会うことになりました。





休日のMちゃんを初めて見た時、『うわ、モデルや』と思ったそうで、高校生離れした私服の着こなしにそれこそびびったそうです。


Iさんは思わず「気合い入れすぎ!」とか言ってツッコんだのですが、Mちゃんはそれを聞いてきょとんとした顔をします。それから微笑み、「そんなん初めて言われた」と可愛らしく笑った姿を見て、Iさんは同性ながら思わずときめいてしまったそうです。


普段IさんはMちゃんを遠目で眺める程度の関係性で、会話する機会があっても必要最低限しか話さなかったそうです。ですが、目の前で花のように笑うMちゃんを見たIさんは、一瞬で彼女のことが好きになってしまったとのことでした。


学校からそう遠くない喫茶店に入った二人は、当たり障りのない話から始めていきます。どうして急に連絡してきたの? ――なんてことを、Iさんは自分から言うつもりはありませんでした。そんなことを言ってしまえば、この楽しい時間がすぐに終わってしまうと、Iさんはなんとなく思っていたからです。


ところで、IさんはMちゃんと話す際にあることを気をつけていたそうです。それは、Mちゃんに『かわいい』とか『きれい』とか、容姿を褒める言葉を使わないことでした。そういう言葉は既に日常的に浴びせられていることを知っていたからです。


学校でもMちゃんの容姿を褒める言葉を聞かない日など存在しませんでした。そんな言葉を聞くたびに、Iさんは『また言ってるわぁ』と心の内では辟易していたのです。


Iさんは「褒めるのは別にいいんやけど、本人がいない場所で卑屈になるのはどうにかならんかな」と言います。いわく、他のクラスメイトたちはMちゃんの容姿を褒める一方で、Mちゃんから容姿のことを褒められると素直に受け取らないそうでした。


例えばMちゃんから『〇〇さんもかわいいよ』などと言われても、〇〇さん本人は『Mちゃん、本当にそう思って言ってくれてるんかな……』と卑屈になる――そんな流れがあったのだとIさんは言います。


ただ、Iさんは「まあ無理もなかったかな」とも言って、他のクラスメイトのことも少しだけ擁護します。「次元が違ったから」


Iさんからすれば、卑屈なことを言うクラスメイトたちも十分かわいい部類に入るそうですが、Mちゃんは別格――将来は芸能界入りするに違いないと、誰もが確信していたそうです。


IさんはそんなMちゃん相手でも普通に接するように心がけました。可愛い、綺麗だと言わないように……言わせないように。そうしている内に、Mちゃんに対する見え方がだんだん変わってくる自分がいたと、Iさんは言います。


学校で目にするMちゃんはいつも微笑んでいておしとやかなのですが、目の前にいるMちゃんはどこか見た目より子どもっぽく――というか、等身大の女子高生が見え隠れしていたのです。


Iさんはお笑いが好きなのですが、Iさんがお笑い芸人の真似をするとMちゃんは声を上げて笑ってくれたそうです。Iさんもそれが嬉しくて、さらに笑わせようとネタを畳みかけました。


Mちゃんが「お腹痛い……っ! もう、やめて……!」とひぃひぃ笑っているのを見てIさんはとても気を良くしたそうで、『Mちゃんも自分と同じで、俗っぽいことで笑えるんだ』なんてことを思ったと、Iさんは言います。


そんな箸が転んでもおかしい年頃な二人が笑い合っていると、店内の扉が開く音がしました。カランカラン、という小気味よいベルの音です。グラスに入った氷を思わせる涼しい音色。


ふとIさんが扉の方に目をやって、Mちゃんの方に目線を戻した――その時でした。


これまでずっとお腹を抱えて笑っていたMちゃんの表情が、体を震わせたまま固くなっていったのです。お腹を抱えたまま、血の気の引いた顔で飲みかけの抹茶ラテを見つめて言いました。


「寒い」


店内は冷房が効いていましたが、寒くはなかったとIさんは言います。ですがMちゃんは寒い、寒いと繰り返し、しまいには泣きそうな顔になってしまうのでした。


それまで向かい合って座っていたIさんはMちゃんの隣に座ると、彼女を抱きしめたそうです。


すると聞こえてきました。


ぴと、ぴと、ぴと――


水滴が落ちるような、Mちゃんが体調不良から復帰した初日に聞いたあの音です。


はっとしたIさんはその瞬間、とても強い視線を感じました。


「Iちゃんも聞こえるん……?」


視線の正体はMちゃんでした。Mちゃんは、そのつぶらな瞳をIさんに向けて言うのです。


「私も、あの日からずっと聞こえんねん……」


あの日――というのは、例の人工中絶の映像を見た日のことでした。


Mちゃんは復帰初日の教室でIさんが音に反応していたことに気がついていたのだそうで、そのことで二人きりで話がしたかったということなのです。


ぴと、ぴと、ぴと――


店内にはセルフサービスの給水機もありましたが、そこから水滴が落ちている様子もありません。


Iさんは少し怖くなって「Mちゃんよう見とるなぁ」などと、から笑いしました。


するとMちゃんは答えます。


「Iちゃんも、私のことよく見てたやん」


……Iさんは当時のことを振り返り、私に言いました。自分だけが見ているつもりやったけど、Mちゃんもよう見とったわ、と。


結局、IさんもMちゃんも自分たちだけに聞こえる水滴の音が何なのかも分からないまま、その日は別れたということでした。ただなんとなくIさんはMちゃんに「無視した方がいいと思う」とだけ伝えて、Mちゃんもうなずいたということでした。





喫茶店での出来事以来、Mちゃんは夏なのに寒がるそぶりを見せるようになりました。教室では長袖を着るようになり、そのことをクラスメイトから指摘され、Mちゃんは取り繕った笑顔で誤魔化していたそうです。


ただ、休日に遠出する時などは寒くなることはほとんどなく、例の水滴の音も聞こえないということでした。


相変わらず学校では会話のない二人でしたが、休み時間や教室移動時など、時折目くばせし合っては微笑を交わすという不思議な関係になっていました。


そんな風にMちゃんとの日々を過ごす中で、Iさんはあることに気がついたと言います。


「Mちゃんと一緒にいる時しか、その水滴の音せーへんねん」


もちろん、そんなことMちゃん本人には隠していたとIさんは言います。「だって。どうにもできんのに『あんたになんか憑りついてんで』って、言えへんやん」と言われ、私もその通りだと納得しました。


とはいうものの、二人はこの不気味な水滴の音について、ある対応策を実施していたそうです。それは、音が聞こえた時に二人でひそひそと『聞こえた?』と囁き合う――というものでした。


どうもIさんとMちゃんは、二人だけの秘密の共有を楽しむことで恐怖を乗り越えようとしたらしいのです。


ぴと、ぴと、ぴと――


『Iちゃん、聞こえた?』

『聞こえた』


ぴと、ぴと、ぴと――


『Mちゃん、聞こえた?』

『聞こえた』


そんなことをしているうちに二人の恐怖は薄れていき、高校に入って初めての夏休みを迎えます。部活動をしていなかったIさんとMちゃんは、二人で色々な場所に遊びに出向き、友情を深めていきました。


夏休みの間は特に何事もなく時が過ぎ、水滴の音も滅多に聞こえなかったそうです。


夏休みが明ける頃には、IさんはMちゃんについて『親友ってこんな感じなんかな』と思うようになったと言います。Mちゃんの方も教室で堂々とIさんに話しかけるようになり、以前とはまるで見違えるようになったということでした。


ただ、やはり相変わらず例の音が聞こえてくるのです。


ぴと、ぴと、ぴと――


本当にこの音はいったい何なのでしょうか。どうも学校で聞こえやすいのは間違いないようですが、その正体までは分かりません。


IさんとMちゃんは疑問を抱きつつ、二人だけの学校の怪談として恐怖半分、興味半分の気持ちで乗り切っていました。





夏も過ぎ、日暮れが早まる頃のある日、学校から家に帰ってすぐ、Iさんがリビングのソファーでくつろいでいた時のことです。


Iさんのお母さんがぽつりと言いました。


「あんまり遅くならんようにしいや? 最近遅いから、お母さん心配やわ」


そんなことを言われたIさんは『過保護やなあ』と内心思ったそうで、というのも、午後6時までにはいつも帰っていたからでした。


……私はIさんの話を聞いて、『過保護やし、お嬢様や……』とある種の感動を覚えました。私の場合、部活動もあって午後8時に帰るのが普通でしたので。


ただ、この後の出来事のことを考えたら、過保護すぎるということはなかったのかもしれません。


テレビを見ていたIさんは、携帯電話(当時はまだスマートフォンではありませんでした)の着信音に気がつきました。Mちゃんからです。


別に珍しくもないことなので気楽な気持ちで携帯電話を手に取ったIさんでしたが、電話越しに聞こえてくるMちゃんの声は震えていました。


「Iちゃん……?」

「Mちゃん? どうしたん……?」

「変な人がな、後ろからついてくんねん……」

「……え?」


Mちゃんとはつい先ほど別れたばかり。Iさんはいてもたってもいられなくなって家を飛び出します。


秋の黄昏は進みが早く、Mちゃんと歩いていた時より空はずっと暗くなっていました。


ぴと、ぴと、ぴと――


Mちゃんに近づくにつれ、例の水滴の音が聞こえてきます。


Iさんは大きな声でMちゃんを励まし続けました。励ましながら自分を鼓舞していたのだと、Iさんは言います。


ようやく合流するというタイミングで、IさんはMちゃんの後ろ姿を見つけました。ですが、Iさんが言っていた変な人の姿は見当たりません。


ただ、妙に暗い――黄昏時だったからというだけでは説明できないぐらい、Mちゃんの背中側が暗かったのだそうです。


「Mちゃんッ!!!」


Iさんが大声で叫ぶと、Mちゃんが振り返りました。一瞬、安堵の表情を浮かべていたMちゃんですが、次の瞬間――その美しい顔を歪めました。


Mちゃんは尻もちをつき、スカートがめくれて中が見えてしまっているのも気にせず、後ずさりながら泣き叫びます。その異様な光景に、Iさんもそれまで感じたことのない恐怖を感じました。Iさん自身も逃げ込むようにMちゃんに駆け寄り、縮こまるMちゃんを抱きしめたのだそうです。


いつの間にか、水滴の音はぴたりと止んでいました。それでも怖くて動けなかった二人は、心配したIさんのお母さんが駆けつけるまでずっとそうしていたのです。


その後、Iさんはお母さんと一緒にMちゃんを家まで送り、無事にMちゃんのお母さんに預けることができました。Mちゃんのお母さんもやはり美人で、直前に起きた怖い出来事もほんの一瞬忘れてしまったほどでした。


母親同士の挨拶の後、何があったのかという説明をIさんたちは求められました。ただ、Iさんはどう説明すればいいのか分かりませんでした。


変な人に付きまとわれてると思ったけど、気のせいでした。心配をかけて本当にごめんなさい――Mちゃんがそのように言うので、お母さん二人もそれ以上は何も言うことはなかったそうです。


それからIさんはお母さんと一緒に自宅に戻りました。お母さんは帰り道を歩きながら「ほんまにストーカーとかおらんかったん……?」と事件性があるのではないかと心配していましたが、Iさんの中ではそんな次元ではないという確信がありました。





Iさんは家に戻った後すぐに自室の勉強机に向かい、Mちゃんに電話をかけます。


「Mちゃん……Mちゃん……」


Mちゃんはすぐに電話に出てくれました。「Iちゃん……」と消え入るような声が聞こえてきます。


「Mちゃん……無事……?」


先ほど家まで送り届けたばかりでしたが、それでも無事かどうかを確認せずにはいられませんでした。


「うん、大丈夫……」


Mちゃんも先ほどよりはずいぶん落ち着いていたようで、声に力はないものの言葉はしっかりしていました。


「あのね、Iちゃん。私、見ちゃった……」

「何を……?」


Mちゃんから何を見たのか聞き出そうとしたその時でした。


ぴと、ぴと、ぴと――


聞きなれた水滴の音が聞こえてきたのです。


「Mちゃん、聞こえる……?」


いつも二人でいる時に交わすやりとりを電話越しにするIさんでしたが、返事がなかなか返ってきません。


「Iちゃん……? 何が……?」


今までは二人のどちらかが『聞こえる?』と問いかけたら、もう一人が『聞こえるよ』と返してきたのに、今回は違ったのです。


ですが、よくよく考えれば当然のことでした。水滴の音はMちゃんと一緒にいる時にしか聞こえないからです。電話越しに聞こえたことは、それまで一度もありません。


水滴はずっと、Mちゃんに憑いていたはずでした。


ぴと、ぴと、ぴと――


Iさんの背中が、凍りつきました。


「おっ、おかっ……さん……」


一階にいるお母さんに助けを求めようと必死に叫ぼうとしましたが、蛇口を閉められたかのように声が出てきません。それは、夢の中で叫ぼうとしても声が出ない感覚と似ていました。


ぴと、ぴと、ぴと――


ずっと聞こえてくる水滴の音に、Iさんはただじっとしていることでしか抵抗できませんでした。


「Iちゃん……! Iちゃん……! どうしたん……!」


Mちゃんも必死に呼びかけてくれますが、返事をしようにも喉から声が出てくれません。


と、その時――


トントントン


――と、部屋のドアをノックする音がしました。


「I~! 何してんの~! 晩ご飯~! お父さん今日は遅いから先に食べよ~」


紛れもなく、疑いようもなく、お母さんの声でした。


そして、ドアのノックとお母さんの声にかき消されたかのように、先ほどまで聞こえていた水滴の音はぴたりと止んでいました。


「お母さ――」


ようやく声を出せた瞬間、反射的にIさんはドアの方へと振り向いたのです。


しまった。と、Iさんはそう思いました。振り向いたらあかんやつやと、振り向いてから気がついたのです。


ですが、Iさんのその考えは杞憂に終わりました。後ろには誰もおらず、水滴の音も聞こえてきません。


「Iちゃん……! Iちゃん……!」


相変わらず呼びかけ続けてくれていたMちゃんの声に、Iさんはようやく答えることができました。


「Mちゃんごめん……なんか怖くて……」


Iさんは部屋のドアの前に立ち、ドアノブに手をかけました。勢いよくドアを開き、正面の手すりに沿って廊下を歩き、どっどっどっと階段を下ります。


「気のせいだったみたい……!」


一階のダイニングに入ると、Iさんはさっと食事の並んだテーブルにつきました。


「ごめんごめん……それでMちゃん、何を見たって……?」


Iさんは、自分を見ているお母さんの呆れた顔を時折確認しながら、Mちゃんの返事を待ちました。


「人……人が立ってた……と思う……」


恐る恐るといった調子で話すMちゃんの声につられ、Iさんも声をひそめて「人って、どんな……?」と尋ねました。


「分からへん……でもなんか、その……なんて言ったらいいんかな……」


どうも歯切れの悪いMちゃんの言葉を、Iさんはじっと待ちました。だんだんと息遣いが荒くなっていくMちゃんでしたが、ようやく言葉を絞り出したのです。


「足の間から、なんか、()れてた」


Mちゃんはそう言った後、「ごめん、明日学校休む。今日は本当にありがとうね」と言って電話を切ったのでした。


しばらく呆然としていたIさんですが、お母さんに「電話、終わったん?」と言われ、我に返りました。


Iさんはお母さんの呆れ顔がすぐそこにあるのを確かめて、心底ほっとしたそうです。





翌朝、Iさんは久しぶりに一人で登校しました。教室に入るとクラスメイトたちから「Mちゃんは!? どうしたん!?」などと尋ねられるので、Iさんは「今日は休み。体調不良やって」と答えるのでした。


Iさんはクラスメイトからの質問攻めを避けるべく、教卓正面の席でふて寝したそうです。


ホームルームの時間となり、出席確認が始まると、Iさんがクラスメイトたちに言ったのと同じ言葉が繰り返されます。


体調不良で休み――そう先生がクラスに伝えますが、Mちゃんが休んだ本当の理由は体調不良ではないと、Iさんだけが知っていました。


Iさんは机に突っ伏しながらぼんやりと自分が呼ばれるのを待ちます。


〇〇さん、〇〇さん、〇〇さん――と単調で退屈な確認が進んでいき、もうすぐ自分の番だと、Iさんは少し顔を上げました。





ぴと、ぴと、ぴと――





え……? Iさんはその時、水滴の音を聞いたそうです。思わず左右に首を振りますが、どこにも怪しい人影は見当たりませんでした。


急に怖くなって、『Mちゃん、聞こえる?』と尋ねたくて、IさんはMちゃんを探しました。当然ですが、Mちゃんはいません。


Iさんは動悸が止まらない中、なんとか出席確認に返事をします。


「はい」


教卓を見上げ、先生の顔を見た時、Iさんは「あっ」と言葉にならない声を漏らしました。


そこに、先生と呼べる人はいなかったのです。そこにいたのは、一人の生徒を血走った目で睨みつける――鬼の形相をした女でした。


そして、Iさんは確かに聞いたのです。


教卓の奥に隠れた、女の両足の間から(したた)るあの音を。









――以上がIさんが語ってくれた怖い話でした。


ここから先の話は蛇足となります。はっきり言って、怖い話ではなくなるでしょう。それでもこのお話に何らかの答えを求めたい方のみ、最後までお付き合いください。ただし、本当に正しい答えが見つかる保障はありません。私自身、Iさんが話したことの中に答えがあるのか、わかりませんので……。









……よろしいでしょうか。


Iさんは語り終えた後で、私に「どう思う?」と尋ねました。


その質問に私は、「水滴の怪奇現象の正体が、実はクラスの担任の先生の生霊(いきりょう)から聞こえるものだった――って話?」と、自分なりの解釈をIさんに伝えたのです。


ここでの生霊とは、生きた人間の強い感情(恨みや嫉妬、愛情など)が分離したもので、感情の対象である誰かに憑りつく存在のことです。


Iさんは「ごめん、そういうことじゃなくて……いや多分合ってるんやけど」と笑います。


「先生な、私とMちゃんが入学する何年も前に産休を取ってたんやけどね、学校に復帰してからも妊娠とか出産とか、赤ちゃんの話とか全然しなかったんやって。それで、みんな察したんやね。ああ、流産やったんやって」


Iさんは遠い目でそう言いました。


私も「だから人工中絶に否定的だったんやね……」と納得しつつ、そのことが先生の生霊が現れる理由に繋がることはないとも思いました。


Iさんは言います。


「先生のこと、かわいそうやと思った?」


Iさんが恐ろしい目に遭ったこともあるので、私は「気の毒だとは思うな……」程度にとどめてうなずきました。


するとIさんは首を少し傾けて、低い声で言うのです。


「ほんまにそうかな」


どこか責めるような言い方に私は戸惑いつつも、Iさんの言葉を待ちました。


「先生の生霊は、なんでMちゃんに憑りつく必要があったんやろ。なんで、あたしにもあの音が聞こえたんやろって、そう思わん?」


Iさんの言うことはもっともで、私も黙ってうなずきました。


Iさんは普段ボランティア活動の中では見せないような怖い目つきで言いました。


「あの後すぐ、Mちゃんが妊娠した」





私は、Iさんの言ったことがあまりに突拍子がなくて、言葉を失いました。


「妊娠って言っても、ほんまの妊娠とちゃうけどね」


想像妊娠――と、Iさんは言いました。妊娠への期待や不安などをきっかけに現れる症状です。驚いたのは男性にも想像妊娠があるらしくて、クーヴァード症候群というそうです。Iさんが教えてくれました。


「Mちゃんまたずっと休んでな。『お腹の中に子どもがいる』とかって、電話で言ってくんねん。おかしいやろ? Mちゃんやっておかしいって分かってる。でもほんまにおかしいことが現実に起きてた――」


Iさんは深く長い息を吐いた後、疲れたように静かな声で言います。


「あの子なんて言ったと思う?」


私は黙って首を左右に振りましたが、Iさんは構わず続けました。


「『堕ろしたい』やって」


今度はIさんが首を振ります。おかしそうに笑いながら、言葉を続けました。


「おらんもんをどうやって堕ろすのって話やん? でも、Mちゃんの言うこと全然ばかになんかできんかった。だってMちゃん、あたしに言うんよ――」


――『堕ろしたいって思う度に、先生の顔が浮かんでくる』って。


Iさんは私に繰り返し問いかけました。


――どう思う?


Iさんは、私に問いながら、その問いの答えを既に知っているように見えました。まるで私がこの話の答えにたどり着くのを期待しているようで、妙に気分が悪くなったのをよく覚えています。





すみませんが、これで本当に終わりです。私も少し疲れてしまいました。後はあなたのご想像にお任せしたいと思います。


聞いてくださり、ありがとうございました。





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