第四十八話:犠牲の誓約と深紅の撤退
奈落の広間に、再び静寂が戻った。
しかし、それは安らぎの静寂ではなく、嵐の後の静けさであり、やがて大地震へと変わる予兆であった。
溶岩の変貌
下方では、流動する溶岩の海を覆っていた燃え盛る雲が消え去り、その全貌が露わになった。
溶岩の色はもはや怒りに満ちたオレンジ色ではなく、穏やかな 「深紅」 へと変貌し、一定の周期で脈動していた。
まるで火の心臓が狂気ではなく、規律ある鼓動を取り戻したかのように。
ゼインの決意
疲弊し、衰弱しきったゼイン・ヴァリュはその結果を見届けた。
微かな微笑が浮かんだが、それは長くは続かなかった。
「やってくれたな、カイルン……」
ゼインの声は、疲れ果てた喉から辛うじて絞り出された。
「だが、怒りを忘却したとしても、アーカムが我らの存在を忘れることはない。」
天井に響く幾何学的な震動が激しさを増すのを、ゼインは感じ取っていた。
火の心臓の浄化は戦いの終わりではなく、アーカムが待ち構えていた合図に過ぎないことを、彼は知っていた。
「今、ここを離れるわけにはいかない。」
ゼインは膝をつき、深紅の傷跡を押さえながら言った。
「心臓に植え付けたこの均衡を固定しなければ、数分もしないうちにアーカムが再び火の意志を支配してしまう。」
均衡による守護
ゼインは顔を上げた。
これから行うことが、残された力のすべてを奪い、自分をチームの荷物にすることを理解していた。
しかし、それは彼が長年自らに課してきた誓い―― 「均衡による守護」 であった。
力を振り絞り、ゼインは立ち上がった。
深紅の瞳に父性的な決意を宿し、奈落へと手をかざした。
「レンジ!ウリエル!下がれ!」
ゼインは断固とした声で命じた。
「カイルン、準備しろ。これが俺の最後の大仕事だ。」
均衡の誓約
ゼインは残された深紅の魔力を集中させた。
炎は掌からではなく、胸の傷跡から直接溢れ出した。
肩から胸へと続く裂傷から、血の代わりに深紅の液体状の炎が流れ落ちる。
それは彼の人間としての部分を削り取る、純粋なる均衡の力だった。
「均衡の誓約!」
ゼインが叫ぶ。
その一言一言が火花となり、彼の生命を削っていく。
深紅の閃光が下の溶岩海へと突き刺さった。
「この炎よ、闘争の衝動を忘れ……守護の意志を刻め。幻影を拒む封印となれ!」
均衡の封印
深紅の光が溶岩に触れた瞬間、激しい蒸発音が響いた。
それは爆発ではなく、存在そのものが融合する音だった。
新たに安定した溶岩の表面に、鏡のような薄い光の層が形成された。
これが 「均衡の封印」 である。
これにより、アーカムの幻影といえども、火の心臓を即座に操作することはできなくなった。
ゼインはチームのために、極めて貴重な時間を買い取ったのだ。
代償
しかし、その代償は大きかった。
封印が完成すると同時に、ゼインの傷跡から光が消え、傷口からは生々しい出血が始まった。
ゼインの体は完全に崩れ落ちた。
彼は冷たい地面に叩きつけられ、目を閉じた。
ピクリとも動かない。
完全な魔力枯渇状態に陥り、自己防衛のための強制的な昏睡状態に入ったのだ。
仲間の叫び
レンジとウリエルが即座に駆け寄る。
「ゼイン!」
レンジがその肩を掴む。
ゼインの体は驚くほど冷たくなっており、深紅の傷からの出血がゆっくりと止まっていく。
「大丈夫……でも、すべての力を使い果たしているわ。」
ウリエルは傷口に手を当て、冷たい湿気で止血を施しながら囁いた。
「早くここを脱出しないと!」
だが、通常の手段での脱出は、もはや手遅れだった。
迫る青光
背後、自分たちが通ってきた通路から、薄暗い青色の光が漏れ出してきた。
それは決して友好的な光ではなかった。
『奴らが来たぞ!』
カイルンの脳内でザールが叫んだ。その声には初めて焦燥が混じっていた。
『ヴァニラの兵士だ! アーカムが主要な通路を完全に制圧した!』
カイルンの冷徹
カイルンは顔を上げた。
その紅い瞳には、絶対的な冷徹さが宿っていた。
火の心臓の浄化による疲弊は残っていたが、生存への本能が彼を戦術的な冷徹さへと引き戻した。
「ゼイン……脱出ゲートを開く方法は?」
当然、ゼインからの返答はない。
代わりにザールが絶望的な事実を告げた。
『ゼインには無理だ、カイルン。彼の魔力は空だ。公式のゲートを開く能力は「均衡」に基づいている。均衡を犠牲にして心臓を固定した今、彼の転移能力は一時的に消失している。』
ザールはさらに続けた。
『アーカムはお前たちが火の心臓を浄化したことを知っている。つまり、お前たちは彼にとって存在の脅威だ。奴は単に殺すだけでなく、「灰の石」を狙っている。完全封鎖システムが発動した。ヴァル・オーリンの既知のゲートはすべて罠だ。潜り抜けた瞬間に粉砕されるだろう。我々はディストラの中に完全に閉じ込められたのだ。』
ヴァニラ兵の襲来
その時、最初のヴァニラ兵が姿を現した。
暗闇から現れたのは、紫色の瞳を妖しく光らせる細身のニブリム兵だった。
薄く黒い鎧を纏い、同じ紫色の光を放つ短剣を手にしている。
それは幻影の力の具現――偽りの軽やかさと、人を欺く速度。
「灰を奪い、幻影を再構築せん!」
ヴァニラ兵が凄まじい速度で突進してくる。
レンジとウリエルには、ゼインを動かす時間すら残されていない。
「レンジ!」
カイルンが機械的な冷徹さで命じた。
「殺すな。時間の中に隔離しろ!」
レンジは即座に理解した。
残りの魔力を振り絞り、超収束された雷撃を放つ。
それは兵士を直撃するのではなく、その足元の地面を撃ち抜いた。
雷撃が一時的な電磁場を生み出し、ヴァニラ兵の速度を僅かに鈍らせ、その欺瞞的な動きを封じた。
誓約の鍵と決断
その刹那、カイルンはポケットから半分に割れた 「誓約の鍵」 を取り出し、顔を上げた。
「ここで戦うのは自殺行為だ。選択肢は一つしかない。」
カイルンは、かつての非情な指導者の声を響かせた。
「『忘れ去られたアーカイブ』へ向かう。」
彼はレンジとウリエルを見据えた。
「レンジ、ゼインを担げ。ウリエル、濃密な湿気の膜を作り、視覚と幻影の信号を攪乱しろ。」
「でも、すぐに見つかっちまう!」
レンジが焦燥して反論する。
「アーカイブに逃げ込んだら、袋のネズミだ!」
「『アルカールの門』を見つければ話は別だ。」
カイルンが冷たく返す。
「あの門はアーカムの支配下にはない。ゼインが言っていた、誓約の鍵があれを開くと。それがディストラを完全に脱出し、ハナを探すために別の世界へ渡る唯一の道だ。」
反論の余地はなかった。
カイルンの冷徹さは伝染し、恐怖を規律へと変えた。
撤退の機動
チームは驚異的な速さで動き出した。
それは戦闘ではなく、撤退のための機動だった。
レンジは意識のないゼインを背負い、懸命に足を動かす。
ゼインの体は重く、一歩ごとにレンジの体力を削っていく。
ウリエルは「見えない盾」となった。
彼女が周囲に展開した薄い水の膜は、ヴァニラの目には彼らの動きを霞ませ、精神を侵食しようとする幻影の信号を遮断した。
忘却の力
撤退の最中、狭い通路で他のヴァニラ兵と遭遇する。
「妨害を忘れろ!」
カイルンが囁き、灰の石の意志を兵士の記憶へと向けた。
兵士は死ぬことはなかったが、一瞬立ち尽くし、自分がなぜ戦っているのかを忘却した。
これが 「忘却」 の力。
敵の戦意そのものを無効化する。
その隙に、ゼインを背負ったレンジが鋭い電光を放ち、殺すのではなく神経ショックで敵を無力化していく。
怒りの通路を遡る旅
かつての「怒りの通路」を遡る旅は、以前よりも長く、過酷だった。
昨日まで空だった通路は、今や血と灰、そして撤退が間に合わなかったディストラのニブリムたちの残骸で埋め尽くされていた。
崩壊するディストラと、迫り来るヴァニラの魔手の間を、彼らは駆け抜ける。
忘れ去られたアーカイブ
ついにチームは、カイルンが以前に浄化した「音の幻影」の先、「忘れ去られたアーカイブ」のエリアへと到達した。
通路の突き当たりに、あの鍵を見つけた岩があった。
その傍らに、重厚な濃褐色の石の扉が鎮座していた。
幻影の扉ではない、より古く、より強固な扉。
アルカールの門
これこそが、通常のニブリムには突破不可能な 「アルカールの門」 である。
扉には「大地」「不変」「貪欲」を象徴する巨大な紋様が刻まれていた。
暗い通路の僅かな光が、扉の中央にある、特定の破片を受け入れるための小さな窪みを照らし出していた。
「ここだ……」
カイルンは激しく喘ぎながら、壁に背を預け、胸を押さえた。
「これだけが俺たちの唯一の出口だ。『灰』がこれを開く。だが、それを押し込むには純粋なニブリムのエネルギーが必要だ。灰の力だけでは足りない。」
カイルンは、ゼインを抱えたまま膝をつくレンジ、そして通路の入り口を警戒するウリエルを見た。
ザールの答え
「ザール!」カイルンが囁く。
「門は何を必要としている?」
『起動には純粋な雷、固定には純粋な水、そして越境にはアルカールの記憶だ。』
ザールが答える。
『古のシステムだ、カイルン。三つの力を調和させ、制御された状態で流し込む必要がある。特に、精密に制御された純粋な雷の力が不可欠だ。』
カイルンはその言葉の意味を理解した。
重責は再びレンジにかかる。
雷の決意
その決定的な瞬間、レンジは地面に座り込み、ゼインの胸を強く押さえた。
「やってやるよ。」
レンジは疲弊しながらも、決然と言った。
「俺の雷で道を開く。だが、時間が欲しい。この門をチャージするには莫大なエネルギーがいる。もし失敗すれば……すべてが吹き飛ぶぞ。」
運命の分かれ道。
レンジがすべてを賭けて雷を練り上げ、カイルンが越境のための記憶を見つけ出さねばならない。
忍び寄る影
アルカールの門に辿り着いた彼らに、さらなる影が忍び寄る。
ゼインの記憶
一方、冷たい床に横たわるゼイン・ヴァリュの意識は、決して休んではいなかった。
彼の精神は、あの「深紅の誓約」を背負うことになった、ある記憶へと遡っていた。
それは、彼がチームを結成するよりもずっと前、ニブリムは絶滅させるべきだと信じていた頃の……
「エニル」 に出会う前の鮮烈な記憶であった。




