第45話:音響の幻影と忘れ去られた記憶
唯一の脱出路を塞ぐ巨大な岩の扉を前に、チームは息を呑んだ。
高さ10メートルに及ぶその扉は、山そのものを削り出したかのような、不気味で圧倒的な威圧感を放つ濃褐色の岩石でできていた。
これこそが、アルカムの仕掛けた新たな罠だった。
ゼン・ヴァリオは膝をついたまま、荒い息を吐いていた。
彼の深紅の炎は、均衡の傷跡から流れる血の上で、かろうじて瞬いているに過ぎない。
もはや防御フィールドを張ることも、危険を分析する余裕も彼にはなかった。
「アルカルの岩だと!?」
レンジが絶望に満ちた声を上げ、試射の電撃を放った。
しかし、稲妻は岩に触れた瞬間、跡形もなく吸い込まれてしまった。
「嘘……そんなはずないわ!」
オーリエルが青い瞳を恐怖に揺らした。
「アルカルの力は『暴食』……すべてを飲み込む力よ。私たちには破壊できない……」
しかし、カイルンは動かなかった。
彼は岩の冷たい表面に手を当て、深い振動を感じ取っていた。
それは物理的な揺れではなく、内耳に直接響く巨大な地響きのような共鳴だった。
「私は飢えだ。私は終焉だ。大地は嘘を飲み込む」
その囁きが聞こえる。
カイルンは一歩下がり、その紅い目を見開いた。
この岩は物質的な強固さではない、精神的な強固さなのだ。
「これは音響の幻影だ」
カイルンは凍てつくような声で断言し、パニックを切り裂いた。
「視覚ではなく、聴覚を介した罠だ。アルカムは岩の存在を信じ込ませたいのではない。
これが『不滅のアルカルの岩』であるという『声』を脳に植え付けているのだ」
「どういう意味だ?」
レンジが、イネルの兵士たちの追撃を警戒しながら問い返した。
「アルカムは我々を監視し、今まさに『幻影の罪』を使って認識を操作している」
カイルンは音源へと視線を集中させた。
「その音が我々の心に『暴食への恐怖』を植え付け、その恐怖が幻影を岩として実体化させている。
恐れを捨てれば……これは消える」
「ザール!」
カイルンが呼びかけると、紅い瞳が銀灰色の光を帯びた。
「実体のない音とどう戦えばいい?」
『音は恐怖の記憶だ、カイルン!』
カイルンの脳内でザールが叫ぶように答えた。
『攻撃で壊すのではない、存在理由を消すのだ。
なぜその音を恐れるのか、その理由を彼らに忘れさせろ!』
カイルンは成すべきことを悟った。
これは個人の力ではなく、仲間の精神を導く力の戦いだ。
「オーリエル、レンジ」
カイルンが言った。
「幻影に『活性の灰』を放つ。だが、お前たちの『記憶の誘導』が必要だ」
「どうすればいいの?」
オーリエルは涙を堪え、忍び寄る恐怖と戦いながら聞いた。
「アルカムは我々の根源的な恐怖を餌にしている」
カイルンは説明した。
「オーリエル、水の末裔であるお前は感情に最も近い。
自分の中、そして我々の中にある恐怖を鎮めることに全神経を集中しろ。
湿気を使って、我々の間の感情の橋を架けるんだ」
オーリエルは目を閉じた。
攻撃のためではなく、拒絶のために水の力を呼び起こす。
彼女から立ち上る湿気は淡い靄となり、空気中の絶望を洗い流すかのように感情を穏やかに包み込んだ。
カイルンは雷の末裔に向き直った。
「音響の幻影は、裏切りや拒絶の記憶に依存している。
お前が初めて『アイデンティティを失う恐怖』を感じた瞬間……
ニブリムからも人間からも拒絶されたあの瞬間を、全力で呼び起こせ」
レンジは拳を握りしめた。
自分の弱さをさらけ出すことは、ジリックの末裔と戦うよりも過酷なことだった。
オーリエルの水霧に包まれながら、レンジは目を閉じた。
かつてゼンが部分的に解放した記憶が鮮明に蘇る。
(レンジのフラッシュバック)
誕生の夜、聞こえたのは赤子の泣き声ではなく、
工業地帯の窓を揺らす深いうなりのような雷鳴だった。
それは空の雷ではなく、父に死刑を宣告するジリックの雷鳴。
震える小さな両手、そして腕に現れた稲妻の裂け目。
理解を超えた孤独が彼を飲み込もうとしていた。
9歳の時、路地裏での悲鳴……そして殺意を帯びた一撃。
周囲は叫ぶ。
「雷の息子!」
「怪物め!」
その時、突如として現れた穏やかな炎のオーラが彼を包み込むまでは。
レンジがその剥き出しの恐怖を呼び起こした瞬間、
カイルンはそのエネルギーを感じ取った。
それは力ではなく、凝縮された苦痛に満ちた「弱さ」だった。
これこそが幻影を解く鍵だ。
カイルンは銀色に輝く灰の石を掲げた。
紅い瞳がより強く輝き、岩の扉に向かって純粋な銀の灰の雲を放った。
しかし、灰は岩を打つのではない。
空気中を震わせる「音響の振動」へと灰を向けた。
「忘却せよ(Bōkyaku seyo)」
カイルンは囁き、音から発せられる恐怖の意図に灰を集中させた。
銀の灰は殺傷能力を持たない代わりに、意志と記憶を浄化する。
灰が幻影の音に触れた瞬間、爆発は起きなかった。
代わりに、巨大な岩石は静寂の中でかき消えるように薄れていった。
蒸発したのではない。
そこにいた全員の脳が、それを見たことを「忘れた」かのように、
存在そのものが消滅したのだ。
数秒後、目の前には暗く広い、ごく普通の金属の壁の通路が現れた。
「成功した……灰が効いたのね」
オーリエルが、かつてない信頼の眼差しでカイルンを見つめた。
ゼンは苦しげに一歩踏み出し、カイルンを誇らしげに見つめた。
「これこそが真の『能動的忘却』だ、カイルン」
ゼンは弱々しい声で言った。
「力ではなく、『明晰さ』でアルカムに打ち勝った。
幻影の罪を止められるのは、お前だけだ」
一行は音響の幻影の先に隠されていた通路へと足を踏み入れた。
そこは岩ではなく、泥に覆われた古い金属で造られた場所だった。
ザールが静寂の中で緊張した声を上げた。
「最初の深紅のニブリムたちの隠れ家だった場所だ」
ゼンが壁に近づき、泥を剥ぎ取ると、そこには芸術的な彫刻が現れた。
それは怒れる炎のディストラではなく、「均衡」を描いたものだった。
「見てくれ」ゼンが言った。
「ここは『忘れ去られたアーカイブ』だ。私の先祖たちが均衡の真実を隠した場所だ」
壁画にはゼンに似た姿の、深紅の炎を宿したニブリムたちが、
雷、水、大地の末裔たちの間に立ち、人間と平和に寄り添う姿が描かれていた。
しかし、その隅には黒い瞳を持つ影のような存在……
幻影を司る者が、ディストラたちの周囲に壁を築こうとする不気味な姿も描かれていた。
「アルカムの計画の証拠がここにある」
ゼンは、幻影の人物が他の世界へ通じる3つの巨大な扉を閉じようとしている彫刻を指し示した。
「扉の封印か!」ザールが突然叫んだ。
「ディストラを孤立させようとしているんだ!
アルカムは、ディストラをイコーラやアーカルから切り離そうとしている!」
「もし成功すれば、我々はこの地で『七つの大罪』すべてと直接対峙することになる」
ゼンは紅い瞳に力を宿して説明した。
「アルカムの目的はディストラの破壊だと思っていたが、そうではない。
ディストラを内部抗争の中に閉じ込め、凍結させ、
その隙に他の世界を自由に支配しようとしているのだ」
通路の突き当たり、古い金属の扉の前で、
カイルンは薄灰色をした半円形の彫刻石を見つけた。
もう半分は失われている。
「これは『盟約の鍵』だ」ゼンがその石を見つめて言った。
「カイルン、お前の灰の石の一部だったものだ……。
先祖が残した古い貯蔵庫を開くための鍵だ」
「忘れ去られたアーカイブ」への到達は、大きな転換点となった。
ゼンの潔白と、アルカムの真の恐ろしさを示す動かぬ証拠を見つけたのだ。
レンジが一歩下がり、壁に寄りかかりながらも真実を語り続けるゼンを見つめた。
「アリオン……いや、ゼン」
レンジの声は穏やかで、ついに疑念が消えていた。
「幻影のアリオンは父の命を弄んだ。
だが、お前は……ゼン、お前は真実を伝えるために自らの命を懸けた。
俺の中の疑いは、もう終わったよ」
「おかえり、レンジ」ゼンはかすかに微笑んだ。
ゼンは、壊れた盟約の鍵を握り、
もう片方の手で灰の石を掴んでいるカイルンを見た。
「カイルン、お前は『傲慢』を浄化しただけでなく、『幻影』をも打ち破った」ゼンが言った。
「これでお前は、私を含むすべてのニブリムの第一標的となるだろう。
だが、お前の力こそが我々の希望だ」
ゼンは痛みを堪え、再び指導者としての威厳を取り戻して立ち上がった。
「私はお前の中に、単なる炎の末裔や戦術リーダー以上のものを見ている」ゼンは明かした。
「お前を見た時、私は数年前に自分自身に立てた誓いを思い出したのだ」
「誓いだと?」カイルンが冷淡に尋ねた。
「アリシアとネロだ」ゼンははっきりと答えた。
「その誓いは灰の石と、その記憶の力に関わっている。
お前こそが彼らの記憶を守る守護者だと確信した。
お前だけが『真の忘却』を成せる。
そしてそれこそが、彼らがこの世界で安らかに生きるための唯一の希望なのだ」
「ならば、目的は明確だ」
カイルンに戦術家としての冷徹さが戻った。
「アルカムによるディストラの封鎖を阻止する。次の一手は?」
「火の心臓だ」ゼンは次の暗い通路を指し示した。
「この先は地下の『ディストラの脈動』、そしてイネルが支配する領域へと繋がっている。
怒りの源泉に辿り着き、そこに灰を放つのだ。
『憤怒の罪』はお前の力に最も近い。浄化はそこから始まる」
チームは再び暗い通路へと踏み出した。
しかし、今度は何かが違っていた。
彼らはもはや単なる学生ではない。
銀の灰を信じるリーダーに導かれ、燃え盛る怒りの核心へと向かう「浄化の軍勢」となっていた。
感情の葛藤は終わり、真の「能動的忘却」の任務が今、始まったのである。




