第三十七話:忘れられた記憶と忘却の炎
ケアンが懺悔のトンネルに入った時、ドスンと音も、落下の感覚もなかった。
むしろ、極めて濃く冷たい物質の中へ静かに突き落とされるような感じだった。
渦巻く灰が彼を飲み込んだ瞬間、光も風もなく、方向感覚さえも失われた。
残ったのは広大な灰色の虚空だけだった。その冷気が彼の肺と魂に押し寄せてきた。
ケアンは計り知れない重圧がのしかかるのを感じた。それは肉体的な重圧ではなく、心理的、実存的な重圧だった。
それはディストラ一族の集団的な後悔、何千年にも及ぶ否認と傲慢さの罪悪感だった。
灰は彼の意識に押し寄せ、沈黙の絶望の塊へと押し潰そうとしていた。
囁きは彼の耳元ではなく、彼の意志の中心から始まった。 それらは計り知れない苦痛の積み重ねだった。
得体の知れない怒り、古の叫び、そして決して認められることのなかった焼けつくような喪失感。
「忘れさせてはならない。」
「ここはお前の居場所ではない。」
「お前も彼らの一人であり、お前が犯人だ。」
ケアンは、これがアリオンが言っていた灰だと悟った。彼が戦っていたのは敵ではなく、彼を精神的に飲み込もうとする環境だった。
ケアンは深呼吸をし、アリオンの修行中に自らの中に作り出した静止点に集中した。
忘却の冷たく白い炎が、彼の存在の中心から湧き上がった。虚空を照らすためではなく、均衡を保つためだった。
この炎は灰を燃やすのではなく、彼らを地に足をつけ、拘束し、絶望の淵に沈むのを防いだ。
灰はまだそこにあったが、ケアンの炎は彼に揺るぎない支えを与えた。
ケアンは、ヴァニラの黒石がこの霊的虚空の最深部、いかなるデストラも到達を敢えてしなかった闘争の頂点に横たわっていることを知っていた。
彼は一歩一歩、静まり返った灰色の虚空へと歩み始めた。
ケアンは奥へ進むにつれて、囁きはより集中していった。
突然、灰色の塊が彼の前に姿を現した。
それは衛兵でも怪物でもなく、息を呑むような見慣れた光景として現れた。
彼は第六地区にいた。古びた境界が温かな光で輝き、その真ん中に二人が立っていた。
アリシアとネロ。
二人はあまりにもリアルで、アリシアの焦げたパンの匂いさえも彼の感覚に触れた。
アリシアは負傷し、足には包帯を巻かれ、目には冷たい涙が溢れていた。
ネロの顔は青ざめ、恐怖で声が震えそうだった。
「ケアン!」 ネロは心臓の鼓動のようにリアルな声で叫んだ。「やっと見つかったか! 俺たちはここにいるんだ、この…灰の中に閉じ込められて! 死んでない! お前が来て助けてくれるのを待っていたんだ!」
アリシアは手を伸ばし、希望に満ちた目を大きく見開いて彼に駆け寄った。
「あなたは私たちを信じてくれるの?私たちが生きているって分かっているでしょう?このトンネルは全部嘘よ、私たちが忘れるためのものよ!ここから出してくれ、ケアン、私たちがどれほどあなたを必要としていたか、思い出して!」
ケアンは凍りついた。
これはアリオンが警告していた究極の試練だったが、これほどまでに厳しいとは予想していなかった。
これは彼の確信を襲う幻覚ではなく、彼が必要性を受け入れていることを襲う幻覚だった。
彼らは生きていると彼は知っていたが、ここヴァニラの世界では、その確信こそが彼を囚え続けるための灰の鉤だった。
ケアンは一瞬、安っぽい怒りの炎が燃え上がるのを感じた。彼らを抱きしめ、「そうだ、私はあなたを信じている!」と叫びたかった。
しかし、アリオンの言葉が冷たく心に響いた。
「真実ではなく、必然を受け入れろ。」
もし彼らにしがみつけば、時は止まり、彼自身も永遠の灰と化してしまう。
この幻想の中で彼らを救うことを諦め、現実で彼らを救うために。
ケアンは指が折れそうになるまで拳を握りしめた。
彼らに突進する代わりに、彼は岩が割れるようなかすかな音を立てた。
「私は…あなたたちを救うためにここにいるのではない。」
場が凍りついた。アリシアとネロは衝撃で目を見開いた。
「何を言っているんだ!?」ネロは苦痛に叫んだ。「全てが終わった後だったのか?灰の嘘を信じたのか?彼らは私たちのことを忘れたのか?」
「私はあなたたちを忘れていない。」ケアンは枯れながらも力強い声で言い、そして手を掲げ、忘却の白い炎を燃え上がらせた。
「だが、後悔という幻想に、この確信を支配させはしない。」
彼は炎を彼らに向けるのではなく、彼らを取り囲む虚空へと向けた。
冷たく白い炎は、破壊の力ではなく、解放の力として湧き上がった。
炎は彼らの体を貫き、まるで情景から感情の束縛を一掃するかのように。
灰色の炎が情景に触れた瞬間、幻影は耳をつんざくような悲鳴とともに崩れ去った。
それはアリシアとネロの悲鳴ではなく、古の魂の苦悶の叫びだった。
彼らの体は揺らめく灰と化し、そして情景全体が消え去り、ケアンは再び一人きりになった。
ケアンは息を切らして膝から崩れ落ちた。
彼は最も神聖な感情を克服したのだ。
彼は「必要な感情の灰を飲み込んだ」のだ。
幻影から解放されたケアンは、もはや歩く必要はなかった。
彼は強大な磁力でトンネルの中心へと突進した。
周囲の灰は溶け、彼の記憶は鮮明な写真のような記憶へと凝縮し始めた。
彼は目で見ているのではなく、心で見ていたのだ。
その光景は衝撃的だった。
彼はエニル(ディストラの祖先)の種族、最初のニブリムが全盛期を迎えているのを見た。
彼らは燃え盛るように燃え、傲慢で、強大な火の力を持っていた。
対照的に、ニブリムは灰を見た。
彼らは火ではなく、強大な意識と賢明な絆を持っていた。
ヴァニラは邪悪ではなく、操ろうとする者ではなかった。
彼らは守護者であり、絶対的な力に制限を設けていた。
しかし、すべての束縛からの解放を願う最初のデストラは、この意識を消し去ろうと決意した。
ケアンは、彼らが禁断の紫色の炎を使ってヴァニラの集合意識を根絶し、彼らの存在を歴史から消し去るのを見守った。
最後の瞬間、最後のヴァニラが灰と化す直前、彼から叫び声が響いた。
「罪を告白しない限り、力を取り戻すことはできない!」
「灰を飲み込まない限り、世界は開かれない!」
ケインは、殺された意識、集団的な後悔のすべてが、一つの象徴へと集約され、注入されるのを見た。
これこそ究極の罪だ。
デストラが争いを始めたのだ。
幻影が終わると、ケインは灰との完全な繋がりを感じた。
彼はもはや封印された灰ではなく、自らの存在の一部となった。
忘却の白い炎が再び噴き出したが、それは守るものではなく、形作るものだった。
全ての灰が彼の右手に凝縮した。
次の瞬間、ケインは真っ黒な石を握りしめていた。
それは輝きではなく、濃密な静寂の塊だった。
彼はヴァニラ・ストーン、罪の記憶を封じ込めた封印を見つけたのだ。
石が彼の手に触れた途端、トンネルから凄まじい勢いが噴き出し、彼を吹き飛ばした。
ケルンは渦巻く黒い砂の中から投げ出され、炎の円の端に着地した。
彼の目には、人間には見ることのできないものを見た者の視線が宿っていた。
しかし、外では戦いが最高潮に達していた。
灰獣の力は今や10倍にも達していた。
レンジとウリエルは激しく戦うが、その力は衰えつつある。
アリオンは真ん中に立ち、怒りに燃える目で彼らを撃退しようとするが、獣たちは分裂し、より強くなって戻ってくる。
「トンネルは閉鎖された!」レンジは叫ぶ。「3時間が経過しました!撤退します、マスター!」
その時、ケアンが姿を現した。
しかし、アリオンはケアンを見ず、手にした黒石を見つめた。
彼はやった。灰を飲み込んだのだ。
ケアンは黒石を空へと掲げた。
そして彼がそうする瞬間、灰の獣たちは動きを止めた。
彼らは死んだのではなく、ただ凍りついただけだった。
ケアンは灰の王だった。
彼はアリオンを見た。
「鍵は持っている」ケアンは、かすれた声で、しかし断固として言った。「黒の鍵は手に入れた。」
アリオンは危険な笑みを浮かべた。
「よし、火の末裔よ…では、地獄を開けよう。」
幻想の束縛から解放されたケアンは、もはや歩く必要はなかった。彼は強大な磁力でトンネルの中心へと突き進んだ。周囲の灰は溶け、彼は鮮明な写真のような記憶へと凝縮し始めた。彼は目で見たのではなく、心で見ていた。
その光景は衝撃的だった。
彼はエニル(ディストラの祖先)の種族、第一ニブリムが全盛期を迎えていたのを見た。 彼らは燃え盛る炎と傲慢さを湛え、強大な炎の力を持っていました。一方、ニブリムは灰を見ていました。ヴァニラは炎ではなく、強大な意識と賢明な絆を宿していました。
ヴァニラは悪ではなく、操ろうとする者でした。彼らは絶対的な力に限界を設ける守護者でした。彼らの使命は、炎が世界を焼き尽くすのではなく、世界に役立つようにすることでした。しかし、絶対的な力とあらゆる束縛からの自由を貪欲に求めた最初のニブリムは、この意識を消し去ろうと決意しました。
ケアンはデストラがヴァニラの一団を包囲するのを目撃した。それは戦闘による包囲ではなく、残忍な儀式だった。デストラは禁断の紫色の炎を用いてヴァニラの集合意識を根絶し、彼らの存在を歴史から消し去った。彼らは彼らを殺したのではなく、滅ぼしたのだ。
儀式の最後の瞬間、最後のヴァニラが灰と化す直前、彼らから最後の叫びが発せられた。それは最後の呪い/条件を象徴していた。
「罪を告白しない限り、力を取り戻すことはできない!」
「灰を飲み込まない限り、世界を開くことはできない!」
ケアンは、殺された意識、集団的な後悔、そして野心的な否定のすべてが集められ、世界から隠された一つのシンボルへと注入されるのを見守った。
これはニブリムが決して思い出そうとしない究極の罪だった。彼らこそが争いの火種であり、均衡を破壊した者たちなのだ。
幻影が終わると、ケインはもはや灰の重さを感じなくなり、灰との完全な繋がりを感じた。彼はもはや罪に定められた灰ではなく、自らの存在の一部となった。彼は血統のために罪を受け入れた。
忘却の白い炎が再び噴き出したが、それは守るものではなく、形を整えるものだった。精神的な虚空を満たしていた灰はすべて、彼の右手の周りに凝縮した。それらは集まり、圧縮され、一つへと固まった。
次の瞬間、ケインは純粋な黒石を掴んでいた。それは光を全く反射しない、純粋だった。それは輝きも貴重さもなく、濃密な静寂の塊だった。彼はヴァニラ・ストーン、罪の記憶を封じる封印を見つけたのだ。
石が彼の手に触れた途端、トンネルの中央から凄まじい勢いが噴き出し、ケアンを吹き飛ばした。灰は震え、トンネルはついに雷鳴のような轟音を立てて悲鳴を上げた。
死闘と冷気の帰還
ケアンは激しく渦巻く黒砂の渦から飛び出し、炎の輪の端に着地した。彼の目には、人間には見ることのできないものを見た者の眼差しが宿っていた。
しかし、休息や熟考の暇はなかった。外では、戦いは最高潮に達していた。灰獣たちは今や彼らの10倍の大きさとなり、巨大な体躯を呈し、黄金の炎の輪に迫っていた。
レンジとウリエルは必死の激しさで戦っていた。レンジは雷が灰を強化することを知り、その力を使って静電気による防御を作り出し、灰獣の通過を阻んでいた。一方、ウリエルはイクラの力の全てを駆使して獣たちを圧倒し、その場に凍らせていた。アリオンの炎の輪はゆっくりと崩れ落ちていた。
アリオンは中央に立ち、怒りに燃える目で赤みがかった金色の炎を獣たちの足元に向け、押し返そうとした。 しかし、彼が攻撃するたびに獣たちは分裂し、攻撃するたびに力強くなっていった。
「トンネルは閉ざされた!」レンジは叫んだ。顔には汗が滴り、酷使された稲妻が体を引き裂きそうだった。「3時間経過しました!撤退します、マスター!」
その時、アリオンはケアンが姿を現すのを見た。しかし、アリオンは現れたケアンを見なかった。ケアンの右拳に宿る、冷徹に輝く純黒の石を見つめた。彼はやり遂げた。灰を飲み込んだのだ。
ケアンは頭を上げた。内なる確信と、目の前に広がる皆の後悔が入り混じったが、叫ぶことも泣くこともなかった。冷たかった。足が地面に着いた途端、忘却の炎の力が増幅していくのを感じた。それはもはや彼を守る炎ではなく、彼を支配する炎だった。
ケアンが黒石を天に掲げた瞬間、灰の獣たちは動きを止めた。 獣たちは死ななかった。ただその場に凍りついただけだった。幻影は凍りつき、闘争も凍りついた。彼は灰の王となった。
ケアンはアリオンを見つめた。その瞳は罪を受け入れる冷たさで輝いていた。
「鍵は我にあり」ケアンは声を潜めながらも断固として言った。「黒の鍵は我にあり」
アリオンは弟子を見つめた。今や完成され、恐るべき力を持つ道具となった。
「よし、炎の末裔よ」「ならば地獄を解き放とう」アリオンはそう言い、危険な笑みを浮かべた。
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