第十八話:今この瞬間
霧が街の通りを忍び寄り、ケイレンの足を包み込んだ。まるで彼を止めようとするかのように、あるいは「どこへ?」と問いかけているかのようだった。
彼は縁石に腰を下ろした。手に持った石はまだ温かく、救った子供を思い出させた。それはただの石ではなかった。それはこの世界に彼が存在すること、そして始まったばかりの存在の象徴、証だった。
崩れかけた舗道を軽やかに歩く足音が彼の注意を引いた。頭を上げると、通りの突き当たりに見慣れた影が残っていた。レイナーだ。レイナーとの対決からそれほど遠くまでは行かず、瞬きもせずに彼を見つめていた。
「あのね…」レイナーは遠くから聞こえてくるかのように静かな声で話し始めた。「街はまだ君のことを知らない。でも今日…君は自分の立場を貫いた。」
ケイレンは何と言えばいいのか分からなかった。 彼が感じたのは、胸の痛み、肩の温かさ、そして手に握る石の重みだけだった。
「なぜここにいるんだ?」彼はついに尋ねた。かすれた声は、半分疑問で半分挑戦だった。
レイナーは微笑んだ。その微笑みは、彼の意図のほんの一部しか表していなかった。「なぜなら…今が大切なんだと、君に知ってほしいからだ。小さな一歩は、時に君が考えているすべてよりも大きな力を持つ。」
カイレンは目を細め、謎めいた言葉の意味を理解しようとした。そして、少しの沈黙の後、彼は口を開いた。「でも…もしもっと何かをしたいなら…どうすれば?どうすれば前に進めますか?」
レイナーは一歩前に出たが、近づきすぎず、傍観者のような距離を保っていた。「まず…自分の立場を知らなければならない、カイレン。自分が何者で、自分の限界がどこなのかを知るために。ある場所がある…アクセリア・アカデミーだ。」
カイレンはゆっくりと瞬きをし、言葉は震えた。「アクセリア?それって何?どうしてそこへ行かなければならないの?」 レイナーは真実の一部と謎の一部を抱きながら、落ち着いた目で彼を見つめた。「さあ、君は理解するだろう…さあ、君は自分自身を受け入れ始めるだろう。だが…まだすべてを見せるつもりはない。君自身が学ばなければならない教訓もある。」
ケイレンは怒りと好奇心が入り混じった。まだ全てを理解していないことへの怒りと、初めて自分だけの道があると感じた好奇心。
「つまり…この道は容易ではないということか?」彼は低い声で言った。
「決して」レイナーは内心微笑んで答えた。「だが、一人で歩むことはない…少なくとも、ずっとではない。」
ケイレンは石をしっかりと握りしめ、まるで心臓と同調しているかのような鼓動を感じた。初めて、彼は未知のものへの恐怖を完全には感じなかった。小さな一歩だったが、それは…始まりだった。
霧が晴れ始め、変わることなく続いてきた街は、彼を一歩一歩、より大きな何かへと導いているようだった。彼がそこにいるだけでいい何かへと。
ケイレンは石を地面から持ち上げたが、放さなかった。 奇妙な感覚があった。まるで石が自分の体になり、一歩一歩が自分のアイデンティティの一部を決定づけるような感覚だった。それから彼はレイナーの方を向いた。好奇心と警戒心が入り混じった声で。
「教えてくれ…アクセリアとは一体何だ? なぜそれが俺自身のことを教えてくれると言うんだ?」
レイナーは、霧のかかった空気の中で言葉を吟味するかのように、ゆっくりと息を吸った。「アクセリアは単なるアカデミーじゃない、ケイレン。それは…人間が知ることができる力、自制心、そして真実…ネプリムについてのあらゆることへの近道なんだ。」
ケイレンはゆっくりと瞬きをした。言葉が頭に浮かんだが、まだ腑に落ちなかった。「ネプリム? あれのことか… 前に言っていたような… 生き物のことか?」
レイナーは直接対決から目を背けずに頷いた。「その通りだ。ネプリムはどこにでもいるが、アカデミーでは彼らとの付き合い方、見分け方…そして自分が選ばれし者なのか、それとも彼らの半分なのかを理解する方法を学ぶ。」
カイレンは心臓が高鳴る中、石に手を強く握りしめた。「半分…なのか?」
「ああ…」レイナーは低い声で言った。「生徒は大きく分けて三つのレベルに分かれている。ナラ、ハジマ、オーウェンだ。それぞれ異なる権利と義務を持ち、怪物と対決するレベルはアカデミーによって決められる。ナラは…1年生と2年生だ。怪物と直接対決することはできないが、基礎と力の制御方法を学ぶ。ハジマは…3年生と4年生だ。より強いチームに加わったり、教官の訓練を受けて実際の対決に臨んだりできる。そしてオーウェンは…5年生と卒業生だ。彼らは最強で、単独でも集団でも怪物と対決できる。」
ケイレンは胸が締め付けられるような痛みを感じた。「つまり…学びたければ、最初から始めなければならないのか?」
レイナーは、的を射抜いた矢のように、短く鋭い笑みを浮かべた。「ああ…だが、始まりはただ戦い方を学ぶことではない。始まりとは、自分が何者か、自分の限界を知ること、そして危険が目の前に現れた時に、いかに立ち向かうかを知ることだ。アクセリアは君を試し、自分自身、自分の恐怖、そしてまだ見ぬ世界の一部と向き合わせる。」
ケイレンは手の中の石をひっくり返した。恐怖と好奇心が入り混じった奇妙な感覚がこみ上げてきた。「それで、自分が準備ができているかどうか、どうすればわかるんだ?」
レイナーは一歩近づいた。それ以上ではなく、声は真剣な声になった。「君は…実際に始めるまではわからない。そして、その瞬間から、君が下すあらゆる選択、あらゆる一歩が…君が何者であり、何者になるのかを決めるのだ。」
風がかすかに吹き始めた。まるで彼の言葉に同調するかのように、髪を乱し、街の霧を巻き上げた。カイレンは初めて、岐路に立たされていると感じた。困難な道だが、それは彼の道であり、自分が何者なのか――半分ネプリム、半分人間…そして今この瞬間に存在している者を知るために、進むべき道だった。
カイレンは眉を上げた。その目は疑念に輝いていた。「わかった…でも、どうしてアクセリアのことを全部知っているんだ?それに…どうしてネプリムのことをすべて知っているんだ?」
レイナーは短く、半ば皮肉っぽく、半ば謎めいた笑みを浮かべた。「カイレン…とにかく、私はこの世界の一部を直接体験したことがある。あの生き物たちを見て、いくつかの対決を乗り越え、そして…アカデミーの振る舞い方や、その壁の向こうで何が起こっているのかを学んだんだ。」
カイレンは素早く瞬きをした。「それで…そこで学んだの?それとも…?」
レイナーはゆっくりと頷いた。「ああ、ハジマ、僕はアカデミーの3年生だ。学ぶために、自分を試し、そして何が起こるかを見守るためにここに来たんだ。ルールも、生徒のレベルも、ネプリムと対峙した時にそれぞれがどう試されるかを知っている。」
カイレンは、まるで心臓に投げつけられた小さな石のように、その言葉の重みを感じたが、一歩も引かなかった。それどころか、彼は手にした石をぎゅっと握りしめた。まるで真実そのものを掴み、耳に届いた言葉の重大さを理解しようとするかのように。
「つまり…ネプリムとその血統について君が知っていること全ては…アカデミーで得たものなのか?」
レイナーは頷き、声はより深く、より毅然としたものになった。「ああ、全てだ。アクセリアはただ戦い方を学ぶ場所ではない。制御を学び、理解し、試される場所なのだ…君が内に秘める力の全てを。そして、君の周りの全てを変えるかもしれない、まだ見ぬ怪物たちと対峙する場所なのだ。」
ケイレンは手に震えを感じ、石が彼に強く押し付けられるように感じた。まるで、彼がここにいることがもはや偶然ではなく、召命であるかのようだった。
「つまり…ゼロから始めるということか?」彼は半分挑戦的で、半分好奇心に満ちた声で尋ねた。
レイナーは微笑んだ。経験の重みと皮肉の軽やかさが混じった微笑みだった。「そうだ…ゼロから始まるんだ、ケイレン。戦い方を学ぶだけでなく、自分自身を学ぶためのものだ。目の前に危険が迫った時、自分が何者なのかを知ること、そしてまだ見ぬ世界に直面した時に、いかに立ち向かうべきかを知ること。そしてそこから…半分ネプリム、半分人間であることの意味、そして今この瞬間に生きることの意味を理解し始めるだろう。」
ケイレンは少しずつ薄れ始めた霧を見つめ、初めて目の前の道が単なる霧と謎ではなく、最初の一歩への招待状だと感じた。小さな一歩かもしれないが、全てを秘めていた。
レイナーは最後に、静かながらも鋭い声で付け加えた。「最初の一歩が君の未来の全てを決めるわけではないが、それは始まりだ。そしてその瞬間から、君が下すあらゆる選択、あらゆる前進が…君が何者であり、何者になるのかを教えてくれるようになるでしょう。」
ケイレンは石をしっかりと握りしめ、一言一言、一瞬一瞬ごとに心臓が高鳴るのを感じた。今、道は困難だと分かっていたが、それは自分の道…半ネプリムの道、今という瞬間の道だった。
風が強くなり、通りを吹き抜け、二人の周囲を渦巻いた。まるで、ケイレンが初めて鼓動を感じ始めた、新たな決断、今という一歩を、承認するかのように。
レイナーは何も見逃さない目でケイレンを見つめ、まるで風が彼の言葉を遠くへ運んでくれたかのように、軽やかな声で言った。「ケイレン…アクセリアへ行く前に、一つだけ知っておくべきことがある…これから出会う生き物は、ただの敵ではない。中には…君の中に、ただの敵以上の何かを見出す者もいる。人間を自分の力の一部に選ぶ者もいる。」
ケイレンは全身に震えが走り、手にした石が妙に重くなった。「つまり…つまり…私を…選ぼうとする者がいるということか?」
レイナーは頷き、そして付け加えた。「ああ。そして中には…正直ではない者もいる。君自身で真実を知ることを学ばなければならない。そして、守るべきものを守ることを…たとえまだ完全に理解していなくても。」
一瞬の沈黙が訪れ、霧は薄れ、通りからほとんど消え去った。カイレンはこの瞬間が単なる一歩ではなく、真の出発点であることを悟った。「わかった…やる。始める…だが…何も諦めない。そして、誰にも私が誰なのかを決めさせない。」
レイナーは最後にもう一度微笑んだ。その微笑みには、約束と挑戦が同時に込められていた。「カイレン、君に聞いてほしいのはそれだけだ。さあ…自分の道を選び、旅を始めろ。アクセリアが待っている。そして世界が…君の中の半ネプリムを待っている。」
それからレイナーは、まるで風と霧の糸の中に消えていくかのように振り返り、ケイレンを石と街だけ、そして一歩一歩が単なる動きではなく、人生そのものの試練となっているような奇妙な感覚だけを残して去っていった。




