まだ見ぬ推し
仕事帰り。
駅へ向かう途中で、俺はふと立ち止まった。
疲れた……
寒さに終わりの兆しが見えるのに浮かれる間もなく、異動してきた部下に早くも悪戦苦闘。
最近の若いモンは……
その瞬間、閉店した店舗のガラス映った人影が目に入る。それは、どう見ても若いモンという年齢をとうに過ぎた自分の姿だ。
俺もとうとう、このセリフを言いたくなる年齢か……
しかし同時に、自分が最近の若いモンはと言われていた頃の記憶が蘇り、眉間に力が入る。
あぁはなるまいと思っていたが、とうとう俺も……………い、いいや、まだ口には出してない!まだ間に合う!!
頭の中のモヤモヤを消し去るため、俺は頭を左右に振ろうとした。
いや……
オッサンと呼べるような年齢の自分が急に頭を震わせたら、道行く人に不審者扱いされるのでは……と頭を過ぎり、俺は顔に着いたゴミを払うフリをして小さく頭を振った。
しかしなぁ………
あれはジェネレーションギャップを差し引いても余りある気がするんだが……
考えれば考えるほど、気分は余計に沈んでいく。
しかし。
今日は週末、月曜からの長い平日を乗り切った金曜日だ。
今日くらいは、ちょっと贅沢してもいいか……
いつもは自炊と言っても、鍋に野菜と肉を入れて煮込むだけの簡単鍋だ。料理を趣味に、なんて思うこともあるが……本を開くと、やれスパイスだやれ調理器具だとこだわりの強い世界に、そこまでのめり込もうとする気にはなれない。
冷蔵庫に眠る葉野菜たちには悪いが、俺はスーパーに寄って帰ることにした。
割引の弁当と、あとはパックに入ったツマミなんかもいいな、焼き魚なんかもあったら……それと……
俺はそんなこと考えながら、目の前の道を曲がろう……とした足を、止めた。
ん、これは……
どこからか、ほんのりとオリーブオイルの香りが漂ってくる。それに気づくと、にんにくや焦がしたバター、キノコ、トマトソースの香りも鼻がキャッチする。
うまそう……
俺の腹がぐきゅるるるるると限界を訴えてくる。
よし、今日は洒落たカフェで洒落た飯にするか!
俺は回れ右をすると、香りを辿るように路地を進んだ。
店内はどこの国の言葉かわからないゆったりとしたBGMが流れ、至る所に名前のわからない緑の植物が揺れている。
俺は触り心地は良いけどやけに沈むアイボリーのソファに座りながら、洒落た飯……本日のディナープレートを待つ。
勢いで入ったはいいが、落ち着かないというか、なんというか……
席に案内されたときに、やけに派手な髪色をした店員が置いていった水が目に入る。味の想像ができなくて躊躇していた、レモンやらミントやらが入ったコップの水だ。
喉の渇きを覚え、俺は覚悟を決めて口をつけた。
あ……
きつすぎないミントとほんのり香るレモンに、案外美味いもんだと感心する。
もしかして、こういう水を出す店にこんなサラリーマンは少々場違い……か………?
しかし今更思ってももう遅い。既に洒落た飯の口になっている。
まぁでも最近は、男一人で洒落た店に行くのが増えてる……そんなことを部下か誰かが言っていたような。
でもそれよりもなによりも、俺はもう立ち上がる気になれなかった。疲れた身体は根っこが生えてしまっている。
年か……
抗う気も置きず、俺はテーブルの小さな緑を眺めながら沈むソファに身を任せることにした。
目の奥に疲れを感じ、俺はテーブルにスマホを置いた。
遠くの緑に視線を移そうとすると、何かがチラチラと視界をかすめる。
ん……?
失礼と思いつつも気になって、周囲に視線を巡らせると……
どうやら店内の客たちは皆、同じ色の大小様々なぬいぐるみを持っている。俺はそれを視界の端で捉えていたらしい。ただし、付けているリボンの色はそれぞれ違う。
……?
スマホにも、鞄にも、膝の上なんかにもいる。しかも一人で複数連れていたりもする。
なんなんだ……?
周囲のことが気になり出すと、いろいろな声が耳に入ってくる。
「最近オシグッズで部屋がいっぱいになっててさ、ベッドの上も……」
「オシってやっぱサイコーでサイコーだよね!人生の潤いっていうか……」
「これみてみて!オシ活バッグだって!カラー展開が豊富で……」
どうやら、『オシ』というヤツの話題で盛り上がっているらしい。
………あぁ!最近流行りの『推し』のことか!!
馴染みのない単語に何のことやらと思ったが、ここ最近で耳にするようになった単語のことだと理解する。
そういえば、その推しとやらのイメージした色のものを身に着けたり、推しそのものを模したぬいぐるみを持ち歩いたりするってテレビで言ってたな。
なるほどなるほどと納得しながら、俺は天井に視線を移した。
みんな、楽しそうだな……
右からも左からも、というか店内全部から推しというヤツに対する愛情をめいいっぱい語る熱が伝わってくる。暖房がいらないんじゃないかと思う程だ。
なんか、いいな……
日常を少し離れ、一つのことに対して皆それぞれで夢中になってイキイキとしている空間。俺は、それがとても心地良く感じられた。
それほど熱く情熱を傾けることができる存在があることに、羨ましさも持ちつつ。
俺もいつか、推しってヤツに出会ってみたいもんだよ……
俺はソファに沈み込みながら、まだ見ぬ未来の推しに想いを馳せた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。