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紙魚忌録

作者: さば缶

 夏休みのある日、私たち家族は祖父の遺品を整理するため、隣町の祖父宅へ行った。

母は祖父とほとんど音信不通だったそうで、家の中は長年の埃が積もっていた。

パパはマスクをして、居間の棚や押入れに手を伸ばしながら、古い書類や書籍を丁寧に袋に入れていく。

私は玄関先から漂う湿気のにおいに少し戸惑いつつ、リビングの隅にある箪笥の引き出しを開けた。


 そこには薄茶色になったノートが数冊重ねられている。

一番上に置かれていたノートの表紙には、墨で力強く「紙魚忌録しみきろく」と書かれていた。

名前の通り、開くとところどころ紙魚に食われたような歯型の穴があいていて、文字が読めない部分が多い。

けれど見える範囲だけでも、不吉な言葉が綴られているのがわかった。

「死者ヲ封印セヨ…」「食イ尽クサレル…」読み進めるほどに、胸がざわついてくる。


 パパは私の隣に来て、そのノートを覗き込み、苦い顔をした。

「祖父さんは変わった人だったからな…妙な記録を残していても不思議じゃない」

パパはそう呟くと、黙ってノートを閉じ、段ボールの奥にしまい込んだ。

ただ、そのときパパの横顔が少しだけ強張ったように見えたのが気にかかった。

私が声をかけようとした時、母から「少し手伝って」と呼ばれ、私は急いでキッチンへ向かった。


 祖父宅の片付けを終えて数日後、パパはあのノートを自宅に持ち帰り、一人で読み耽るようになった。

いつもなら仕事から戻るとテレビや新聞をチェックするパパが、夕飯が終わるとノートのページを眺めている。

不気味な内容を嫌がるどころか、まるで何かに取り憑かれているかのようだった。

「パパ、もうこんな時間だよ」夜遅くまでリビングの照明をつけたままノートを見ている姿に、私は不安を覚えはじめる。


 そしてある夜、リビングを覗くと、パパがノートにペンを走らせていた。

「今、何書いてるの…?」

問いかけると、パパはゆっくり顔を上げたが、瞳の焦点が合っていないように見えた。

「紙魚はな、ただ紙を食うだけじゃないらしい。文字の意味を溶かし、そこから“何か”を取り出すんだ」

低く掠れた声でそう言った後、パパは急に笑い声のような息を吐き、ノートを閉じて立ち上がった。


 翌朝、玄関を出ようとすると、パパの靴の隣に小さな虫の死骸が落ちていた。

それは紙魚というよりも、白魚に似た形状だったが、なぜか複数の目のような黒い点が背中に並んでいる。

気味が悪くてビニール袋に入れて捨てようとしたが、触れた瞬間に粉のように崩れ、跡形もなく消えてしまった。

思わず手を引っ込めると、パパが廊下に現れて袋を覗き込み、「あいつらか…」と呟きながら奥歯を噛んだ。


 それからというもの、パパは深夜になると寝室を出て、ノートを広げたり、机に向かって何かを書きつけたりするようになった。

母は「仕事が忙しいんじゃないか」と気に留めない様子だが、私は玄関先で見た虫の姿がどうしても頭から離れない。

夜中、うっすらと目を覚ますと、廊下の向こうでパサパサと紙を引き裂くような音が聞こえてくる。

重たい足取りでそっとリビングを覗くと、パパがノートを撫でながら、何かを探すように視線を泳がせていた。


 「パパ…寝ないの?」声をかけると、パパはノートを抱きしめたまま振り向く。

その目に微かな赤い光が揺れたように感じて、私は息を呑む。

「大事な作業なんだ。もう少しで“あれ”の正体がわかるんだよ」

耳慣れない言葉に、私は背筋が冷たくなった。

まるでパパの中で、何かが“共生”しているような気がしたからだ。


 そしてついに、あのノートの最後のページまで読み終わったときだろうか。

パパはリビングの照明を全て消し、蝋燭の明かりだけを灯して座り込むようになった。

まるで自分以外の何かを呼び寄せる儀式をしているかのようにさえ見える。

私が隣の部屋で耳を澄ましていると、パパの低い呟きが聞こえてくる。

それは、おそらくノートに記されていた怪しい文言をなぞるような響きだった。


 日に日にパパが憔悴していくのが目に見えてわかった。

母は半信半疑のまま、病院に行かせようと試みたが、パパはそれを頑なに拒む。

「医者なんか何もわからない。文字を喰うあいつを封じる方法はここにしかないんだ」

そう言ってノートを握りしめるパパを、私たちはどうすることもできなかった。

まるで、祖父が残したそのノートに呑み込まれているみたいだった。


 そんなある晩、家じゅうに紙が擦れるような音がこだまする。

私は眠れず、居間へと向かうと、そこには異形の虫が群がっていた。

長い触角を持ち、細長い体をくねらせながら、まるで文字を探しているかのように壁を這い回る。

その中心にパパが立ち、ノートを高く掲げていた。

目を疑う光景に声も出せず、ただ身を固くしてしまう。


 虫の群れはパパの周囲を取り囲み、さざ波のように動きながら蠢いている。

パパは口元を歪め、「もうすぐだ…」と微かに呟く。

次の瞬間、蟲たちは一斉にノートへ飛びつくと、そこに書かれた文字を噛み砕きはじめた。

その音は紙が焦げるようにも聞こえて、私は悲鳴を押し殺しながらパパを引き離そうとする。

けれど、パパの体はまるで何かに縛られているように動かない。


 やがてノートは虫たちに食い尽くされ、文字があったはずの場所には黒く焦げた痕だけが残った。

視線を戻すと、いつの間にか蟲たちの姿は消え、パパが立ち尽くしている。

パパはぽつりと、「…足りない」と言ったきり、よろめくようにソファに腰を下ろした。

顔には生気がなく、さっきまでの異常な熱気が嘘みたいに薄らいでいた。

私は恐る恐るパパの肩に触れるが、パパは虚ろな目をしたまま何も言わなかった。


 翌朝、パパはまるで何事もなかったかのように顔を洗い、朝食をとった。

ノートは虫食いでボロボロになっており、ほとんど文字が読めない。

ただ、パパの雰囲気だけが少し変わったのか、今まで以上に静かで、笑顔がぎこちない気がする。

けれど母は「疲れているのよ」と言い、私を学校へ送り出した。

私は後ろ髪を引かれる思いで家を出た。


 それから数日、何も起こらないまま、パパは穏やかに過ごすようになった。

しかし、私はどこか不安が拭えない。

時々、パパが読んでいる新聞の文字が妙に薄く見えるのだ。

まるで、その文字だけがじわじわと溶けていくかのように。

そして、ある日の夕食時、私は絶望的な違和感を覚える。


 パパが茶碗を持った瞬間、茶碗の側面にうっすらとした虫の影が浮かんだ。

その虫はあの紙魚の化け物によく似ていて、瞬きをすると影は消えてしまった。

だが、私の胸には、言いようのない恐れが芽生えてしまう。

まさかまだ、あの蟲たちがパパの中に潜んでいるんじゃないか――そう思っただけで寒気がした。


 どんでん返しを告げる鐘の音のように、リビングの時計が時を刻む。

パパは箸を取って、「ごはんまだ?」といつも通りに言う。

私は黙ってそれを見つめながら、心に重い闇を抱えたまま、立ち尽くしていた。

この家には、いつからか侵入している“何か”がいる。

それは今も、パパという姿の影を纏いながら、私たちの隣で呼吸をしているのだ。

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