第1章:桜降る学舎
私の名前はアメノメ。
右目は普通の黄色だけど、左目は青いの。
珍しい三毛猫だってよく言われる。
でも、それがどうしたっていうのさ?
私は街で暮らす、ただの野良猫。
誰にも縛られず、誰の所有物でもない、自由な存在なのさ。
今日から私は、京都大学で暮らすことにした。吉田山の麓に広がるこの広大なキャンパスには、人間たちの匂いが満ちている。知識を求める若者たち。研究に没頭する学者たち。そして、この場所を支える様々な人々。
え? どうやって京都まで来たかって?
それは秘密なんだにゃ~。
あんまりそういうことは気にしない方がいいにゃ~。
好奇心は猫も殺すけど、ときには人も殺すのにゃ~。
(京都の春は、桜の匂いが強いにゃ~)
私は時計台の近くの木の上で、キャンパスを行き交う人々を観察している。新学期が始まったばかりで、まだ少し緊張した面持ちの新入生たち。慣れた足取りで研究室に向かう上級生たち。
「間に合う! 間に合うはず!」
息を切らして走る女性の姿が目に入る。長い黒髪を後ろで束ね、古めかしい文献らしき本を抱えている。葉月澪、27歳。日本古典文学の博士課程で学ぶ大学院生よ。
(人間って、急いでるときが一番本音が出るにゃ~)
澪は文学部の建物に駆け込んでいく。私も興味を惹かれて、その後を追うことにした。
「申し訳ありません! 資料の確認に手間取って……」
研究室に飛び込んだ澪を待っていたのは、若手の准教授・星加律。30代前半という若さで准教授になった新進気鋭の研究者だ。
「葉月さん、焦る必要はありませんよ。むしろ、丁寧な資料確認は重要です」
星加の声は穏やかだけど、その目には鋭い光が宿っている。
「ところで、例の新しい研究手法は試してみましたか?」
澪は少し戸惑った表情を見せる。
「はい、でも……椿先生が」
その言葉に、星加の表情が曇る。椿芳春。古典文学研究の重鎮で、伝統的な研究手法を重視する教授だ。
「また、デジタル解析は邪道だとおっしゃるんですね」
星加の声には、わずかな苛立ちが混じっている。
(人間って、新しいものと古いもので必ず揉めるにゃ~)
私は窓辺で、その様子を見守っている。すると、新しい人影が。
「星加くん、研究室を借りるよ」
入ってきたのは椿教授。70代後半の老教授は、古い革のカバンを抱えている。
「椿先生、ちょうど良いところに。葉月さんの研究について、ご相談が」
「ああ、葉月君か。相変わらず熱心だね」
椿は澪に優しく微笑みかける。でも、星加の方には素っ気ない態度。
「ところで、君の例の『新しい』研究法だが……」
椿の声には皮肉が込められている。
「はい。AIによるテキスト解析は、古典研究に新たな視座を」
「そんな機械仕掛けに、和歌の真髄が分かるものか」
二人の言い合いを、澪は困惑した表情で見守っている。
(人間って、正しいと思うことはお互い譲れないにゃ~)
その時、ノックの音。
「失礼します。図書館から来ました藤堂です」
現れたのは、40代半ばの女性司書。藤堂千景。長年この大学図書館で働き、多くの研究者や学生たちを支えてきた人物だ。
「ああ、古写本の件ですね」
椿が声をかける。星加も千景の登場で、先ほどの険しい表情を和らげる。
「はい。葉月さんがご希望だった資料も、やっと目処が」
千景は澪に向かって微笑む。彼女は研究者と資料の橋渡し役として、誰からも信頼されている存在なのよ。
「藤堂さん、ありがとうございます!」
澪の目が輝く。古典研究者にとって、貴重な資料との出会いは何よりの喜び。それは研究手法の違いを超えた、普遍的な感動なのかもしれない。
(図書館の人が一番みんなの心を知ってるにゃ~)
私は窓から外を見る。桜の花びらが、春風に舞っている。新しい季節の始まりを告げるように。
そこに、また新しい人影が。
「すみません、葉月さんいらっしゃいますか?」
声をかけたのは、修士課程の学生・鷹宮空。研究に行き詰まり、澪に相談しに来たらしい。
「あ、鷹宮くん。どうぞ入って」
澪が声をかける。空の表情には、若者特有の不安と希望が混ざっている。
「論文のことで……行き詰まってしまって」
その言葉に、部屋の空気が少し変わる。研究者たちは皆、この「行き詰まり」という言葉に敏感なのね。
「研究って、そういうものよ」
千景が優しく声をかける。
「私も昔、似たような経験が……」
星加が言いかける。
「まあ、座りなさい」
椿も、珍しく優しい声を出す。
(人間って、若者の悩みには優しくなれるのにゃ~)
私は、そんな研究室の風景を見守っている。春の日差しが、部屋の中を優しく照らしている。
この場所では、いつも何かが始まろうとしている。新しい発見、新しい出会い、そして新しい物語。
私は、これからもこの物語を見守っていくことにした。




