第3章:宵闇の誘い
夕暮れ時。
街が、少しずつ表情を変えていく。
(人間って、夜になると本音が出るにゃ~)
私は路地の影から、その変化を見守っている。看板のネオンが、一つ、また一つと灯りを点し始める。
「じゃ、今夜もよろしく」
巧が『ラストノート』の準備を始めている。古いジャズのレコードを大切そうに拭きながら、今夜の選曲を考えているのね。
「マスター、今夜はデューク・エリントンですか?」
声をかけたのは、常連客の一人。音楽評論家の藤堂雅人。
「ああ、『イン・ア・センチメンタル・ムード』なんてどう?」
「いいねぇ。しみじみとした曲は、この街に似合う」
二人の会話に、ジャズへの深い愛情が感じられる。
通りの向かいでは、みのりが『月光』の準備に追われている。
「ママ、今日も綺麗だね」
地元の常連客が声をかける。みのりは、優しく微笑む。
「いつもありがとう。でも、朝の私を見たら、そんなこと言えないわよ」
冗談めかして返すみのりだけど、その言葉には少し寂しさが混じっている。
(人間って、寂しさを笑顔で隠すことがあるにゃ~)
そんな中、千紗が『ラストノート』に入っていくのが見えた。巧の誘いを受けたのね。
「いらっしゃい。どうぞ」
バーの中には、既に数人の客が。ジャズが静かに流れ、落ち着いた空間が広がっている。
「千紗ちゃん、いい感じの場所あるわよ」
声をかけたのは玲奈。どうやら常連らしい。昼間の凛としたスーツ姿から一転、シックなワンピース姿の彼女は、まるで別人のよう。
「白鳥さん……」
千紗は少し戸惑いながらも、カウンターに座る。
「ここでなら、少しは心が落ち着くでしょう?」
巧がグラスを差し出しながら、静かに話しかける。その時、デューク・エリントンの曲が流れ始めた。
「この曲、いいですね」
千紗の表情が、少しずつ和らいでいく。
私は窓の外から、その様子を見守っている。すると、また新しい人影が。
「お疲れ様です」
陽斗が『月光』に入っていく。昼間の便利屋の仕事を終え、今夜は『月光』でアルバイト。この街で生きるために、彼なりの工夫なのね。
「陽斗くん、調子はどう?」
みのりが優しく声をかける。
「はい。オーディション、また落ちちゃいましたけど……でも、諦めずに頑張ります」
その言葉に、みのりは静かに頷く。
「そうね。私たちみんな、何かを抱えながら生きてるものね」
夜が深まるにつれ、街はより一層の活気を帯びていく。
『キャッツアイ文庫』では、志乃ばあちゃんが今夜も灯りを点している。夜な夜な、本を求めて訪れる人がいるから。
「よいしょ……」
階段を上る足取りが、少し危なっかしい。でも彼女は、この時間が好きなのね。
「いらっしゃい」
入ってきたのは、若い女性。
「すみません、夏目漱石の『私の個人主義』を探しているんですが」
その声に、私は耳を立てる。昼間、千紗と話していた本ね。
「ああ、千紗ちゃんが言ってた方ね」
志乃ばあちゃんは、にっこりと微笑む。
「彼女、最近元気がないのよ。でも、きっとまた立ち直ってくれるわ」
編集者らしい女性は、静かに頷く。
夜風が、路地を抜けていく。その風に乗って、様々な音が聞こえてくる。『ラストノート』のジャズ。『月光』からの笑い声。本を探す人々の足音。
(この街は、夜になると本当の姿を見せるにゃ~)
私は路地の片隅で、その音に耳を傾けている。すると、また新しい人影が。
「ごめんなさい、遅くなって」
玲奈が、小さな路地に消えていく。彼女の行き先は、誰も知らない。でも、その姿には強い意志が感じられる。
夜は、まだ始まったばかり。人々の物語は、これからも続いていく。




