正義の結末。 後編
夏の陽気もかなり本格化してきた。
校門や校庭にはまだ生徒達はいない。校舎に活気が出てくるのはもう30分程先のことだろう。
まったく、
「どうして、学校休んだのに待ち合わせ場所がここなの!?」
そう、ここは学校の校舎裏。
昨日、直也から言い渡された待ち合わせ場所だ。
教師たちもズル休みした生徒たちがこんなところにたむろしているだなんて夢にも思わないだろう。
「そら、学校を中心に捜査して行くからだな。」
「でも僕らその人達の顔も名前も知らないし、まして家なんて知ってるはずないよね?」
志保の弟、高林航平のクラスは1年2組だと志保は言っていた。千世達は2年生であり、そもそも話す機会なんてそうあるものでもない。
「ああ、しかもクラスの中でローテーションで休むらしいからな、とても見つけられねぇ。」
直也はやれやれと言ったように肩をすくめている。
「なら、どうするの?」
「それはまあ、フィールドワークだな。」
聞き込み。
古来より伝わる伝統的な捜査方法。
刑事ドラマの殆どでこの方法が登場している。
「そんな古風な。」
「経験則だが、手がかりが無いうちは結局これが一番有効的だからな。分からないこと、知らないことは自分でうじうじ考えてたってしょうがねぇからな。その分、足で稼ぐんだ。」
「なるほど、納得だよ。」
桜ヶ丘生徒会に入ったことで直也が身に付けた事件解決への直感と技術は信頼すべきものだと言える。こればかりは、経験がものを言う。
「おまたせー!」
香織が手を振って小走りでやってきた。後ろには、美咲が歩いてきているのが見える。
千世は美咲が昨日の夜も隠れて外出していたのを知っていたのでギリギリまで寝かせてやる事にしたのだ。
「よし。コレで全員だな。」
直也は、3人の顔を見回して言った。
「じゃあ、ここから二つのチームに別れて聞き込みして行くわよ。ついでに明らかに学校に向かっていない高校生らしき人間がいたら捕まえること。」
「それじゃ、解散!」
やはり、美咲は根っからのリーダー気質というものだろうか、美咲の一括は周りの人間の気を引き締める力がある。
「「「 おう! 」」」
美咲と香織は学校から住宅街へ向かい、直也と千世は別方向のビル群の立ち並ぶ都心部方面へ向かった。
千世と直也が都心部に向かったのは、学校に向かう時間帯にわざわざ街に出歩いている生徒が居ないかどうかを調べるという側面が強い。
「うーん、いないね?」
「まあ、そう急くな。今日はたまたま居ない可能性もあるからしっかり聞き込みもしないとな。」
「それに、ここら辺は路地やテナントも多い。高校生が犯罪に巻き込まれるとしたらこの辺だからな。」
雑居ビルの中には、とても怪しげな看板を立てていたり、なんの事務所か分からなかったりするものも有る。
「此処、危険な場所だったんだ。だから夜になるとこの辺静かなのかな?」
千世はこの場所に来ると、美咲と出会う前の事を思い出してしまう。あの頃は半分ホームレス状態で、目覚めてから5日は何も口にしていなかった。
しかし、同時に美咲に初めて出会った場所。
千世にとって此処は既に特別な場所になっていた。
「危険とまでは言わないが、あまり夜に近づく場所ではないな。」
千世は少し気になって、路地の中に入って行ってしまった。
______。
路地の中には誰もいない。
美咲と千世が出会った時、そのままだ。
冷たい地面、暗く自分の影をビルの影が呑み込んでいる。
あの時、美咲は千世を慌てた様子で手を掴んで走っていった。
まるで浪漫は無かったが、あの時を思い返すと路地が段々とポカポカと暖かくなっていくようだ。
「どうした?千世、何かあったか?」
直也が突然路地に入って行ってしまった千世を制止する。
「いや、ごめん。何も無かったよ。」
そう言って振り返った千世の顔にはとても暖かな微笑みが浮かんでいた。
結局、直也と千世は街の至る所をまわってみたが高校生の姿らしきものは無かった。
だが、
「最近なぁ……。あ、たしかに高校生がここらでよく分からねえ買物してるのを見たな。」
都心部にある小さなスーパー、正直廃れた此処は商品をなかなか攻めた値で販売しており、一部の小遣いの少ない高校生から重宝されている。
「買物。詳しく聞かせてくれ。」
「なんか、木の実を大量に購入して行ってな?ペットの餌にするとか言うんだが、それにしても量が多かったんだ。」
「成程……。ペットの餌ね。」
「直也?」
「ありがとな。おっちゃん、今度買物に使わせて貰うぜ。」
「おう、また来いよ。若き探偵さん達よ。」
気前の良い店主が手を振って見送ってくれた。
千世は店主に手を振りながら、直也に問いかける。
「この町はいい所だね。人も優しくて親切だし、心が綺麗な人が多いよね。」
「そうか?」
「そうだよ。この町の人達の心は澄んだ美しい色を持ってる。」
「色?」
直也の視線は自然と千世の瞳に向けられた。
惹き込まれるような深い蒼色の瞳。
その瞳には、一体何が見えているのだろうか。
初めて会った時に感じた視線は、直也の心を映していたのでは無いか。
「なあ、千世?」「直也?」
直也が千世に言葉を投げかけようとした時、千世の言葉とかち合った。
「あ、直也からでいいよ。」
「いや、大した事でもねえ。ほら、言ってみろ。」
少し考えた後、千世は話し出した。
「直也、さっき何か分かったみたいな反応してたよね?教えてよ。」
「ああ、そうだな。まずは此処には、今日休んだ奴らは来てないことが分かった。」
「そうだね。でも、買物には誰か来てたみたいだね。」
「そう、だが、団体で来たわけじゃない。休んだ奴らの誰かが買い出し目的で来たんだろ。」
「つまり、彼らは都心部では無い何処かにいるってことだね?」
直也は千世の問いに頷いた。
そしてスーパーでの偏った物品の購入。
それは、次の手がかりを示していた。
「スーパーのおっちゃんが言うには、ペットの餌だと言ってかなりの量の木の実を買ったらしいからな。」
「?」
直也の言っている意図が理解出来ず千世は首を傾げる。
「まあ、熊でも育ててるんじゃないか?雑食だし。」
直也が自分の推理を未だに疑っている様で、本人も納得いっていないようだった。
「学校をサボって?」
「そうだ。」
なんとも言えない推理結果に千世は愕然としてしまった。
まさか、学校を休んで熊を育てている?有り得るのか?
「え?何処から熊出てきたの?」
「この前の新聞見てないのか?目に傷を負った熊が人里に降りてきて下水道を巣にしてたって言ってたろ。」
千世は思い出す、美咲が月曜日の朝に新聞を片手に確かにそのようなことを言っていた。
なんでも、桜ヶ丘を開発する為に丘を切り開いたことによって、隣接する森や山に住んでいた生物がいなくなって熊が餌を求めて降りてきたのだとか。
「ああ!」
「思い出したか。で、その熊はこの前殺処分になったそうだ。その熊はメスだ。」
直也は、千世を解答に導くようにヒントを出していく。
雌熊は、6月から7月の繁殖期になると子熊を守る為にかなり気性が荒くなってしまう。さらに、手負いの熊はさらに攻撃的だ。
ならば、被害を抑えるためにも殺処分という方法が取られる事もある。
「つまり、その雌の熊の子供?」
「恐らくな。そう考えたら毎日5、6人という人数も熊を育てるにあたって多くは無いかもな。」
そこに、美咲と香織が肩を上下させながらやってきた。
「どうしたお前ら。」
「学校に向かってない生徒が居たのよ。」
美咲は自分の息を整えながら言う。
「それで、どこに行った?」
「途中までは尾行したのだけど。気づかれて巻かれたわ。」
「ごめんねぇ?私が疲れちゃって。」
香織は申し訳なさそうに眉をひそめている。
「大丈夫よ。でも、貴方部活を転々としてる癖に意外と体力ないのよね。」
香織は「うぅ。」と変な鳴き声を出して萎縮してしまった。
「それで?どっちの方に行ったかくらいは分かったんだろ?」
「えぇ。どうやら学校の方に用があるみたい。」
「そうか、おそらく裏山だな。」
桜ヶ丘高校は場所の関係上桜ヶ丘の端に位置しているために学校の裏には山と言うほどではないが丘のような雑木林がある。
熊のような生き物を育てるにはちょうどいいフィールドだろう。
「直也、アンタなんか掴んでるでしょう。早く言いなさい。」
直也の口ぶりから何か感じ取ったようで美咲が問いただす。
「良いが、__とりあえず移動しようぜ。」
4人は真相を確かめる為に学校の裏山に向かって歩き出した。
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「なるほど、熊ね。それは、流石に問題あるわね。」
「そうだな。小熊とはいえだもんな。」
美咲は直也の話を聞いて、対応をどうすべきか気を揉んでいた。
「それで、なんでこの時間なの?」
千世はまだ残っていた疑問を投げかける。
「裏山はそこまで広い訳じゃねえが、木がいかんせん多いから迷いやすい。」
「だから、明るいうちにお世話する為に学校を休んだって事?」
千世は直也の言葉に鋭敏に反応する。
「そう。後は、熊の活動時間帯的な事もあるだろ。」
「直也と千世ちゃん、息ピッタリだね!」
香織が直也と千世の様子を見てそんなことを言った。直也と千世はそれほどまでにバディとして完成されているように見えた。
「相棒だからな。」
「フフッ。」
千世は直也の反応に少し笑いが漏れてしまった。
「そうだね?相棒。」
「貴方達、仲が良いのは結構だけど、多分見えてきたわよ。」
美咲が2人の空気を割って入るように話しかけた。
「そうだな。残りの謎はアイツらを〆て聞くとするか。」
美咲の指の指す方には、5人の生徒と1つ、黒茶色の毛玉が佇んでいた。
人影はこちらを振り向くと手を振って来た。
おそらくは仲間の誰かと間違えてしまったのだろう。
しかし、
「生徒会だああああ!」
1人がいち早く気がついたようで、大声をあげた。
「やべぇ!急げ!」
途端に周りの人影は血相を変え、毛玉を拾い上げ逃げていく。
「チッ、待ちなさい!」
美咲はそれを見て真っ先に走り出した。
「千世!捕まえるのは一人だけでいい!子熊を持ってる奴だけ取り抑えろ!」
「了解!」
いつの間にか美咲を追い越して逃げた生徒達に肉薄している千世に直也が叫ぶ。
子熊とはいえ、7キロはあるだろう。また、子熊は急に抱き上げられて身を捩っている。
よって、毛玉を持つ男子生徒は明らかに他の生徒よりも走るスピードが遅かった。
「話だけでも!ねっ!」
「え、ちょ!」
千世は男子生徒の腕から子熊をひったくると男子生徒の足を払ってしまう。
「うぐぇっ!が、ぼぼぉ!」
先程まで地を蹴っていた脚が突如宙に浮いた事で男子生徒の体は上半身から地面を滑った。
千世はいつか生徒会室でしたように、倒れた男子生徒の肩甲骨の間あたりに足を置いて押さえつける。
最小限かつ迅速に、怪我のない程度に容赦なく。
「よ、容赦ないわね。」
「千世ちゃん!末恐ろしい子!」
美咲と香織は、千世の悪魔的所業を確認し驚嘆している。
「ナイス千世。だが、足の下に敷くのはやめてやってくれ。なんて言うか…可哀想だ。」
直哉は千世を制止し、地面に横たわる生徒に目をやる。
男子生徒は突然地面にダイブさせられたかと思ったら、美少女の下敷きにされてしまった。
すでにプライドズタズタにされた男子生徒の目の淵には水滴が浮かんでしまっている。これ以上この男子生徒の心を痛ぶっていたとしてもしょうがないので早めに解放してやるべきだろう。
「リョーかいっ」
千世は男子生徒の上から足を退けて立たせてやる為に肩を貸してやる。
「貴方、1年2組の生徒よね。こんな所で熊なんて飼ってるなんて、それ相応の理由があるのでしょうね?」
美咲は男子生徒に問いかける。
千世は男子生徒が立ったのを確認して美咲の隣に移動する。
「うぅ…。なんで僕がこんな目に…。」
男子生徒は悪態をつきながら立ち上がると泥を払い、千世を軽く睨んできた。
メガネをかけた目元の鋭い真面目そうな生徒だ。
「僕たち、別に誰かに迷惑かけたわけじゃないですよね?生徒会が出張ってくる案件ではないでしょう。それに飼っているわけではありません、保護しているだけです。」
いつの間にか逃げていった生徒達は男子生徒の背後の木陰に立っていた。
男子生徒2人に女子生徒が1人。
「高林くん大丈夫?」
女子生徒の1人が木陰から出てきて泥だらけの男子生徒を気遣う。
それを見てか、木陰から男子生徒達がゾロゾロと出てきて2人の前に立った。
「小次郎を返してください!」
仲間が集まって来たことで、高林と呼ばれた生徒が水を得た魚のように美咲達を責め立ててくる。
「千世。返してもいいわ。」
「…いいの?」
美咲が小さく頷いたのを見て千世は子熊を生徒達に手渡してやる。
すると、今まで美咲達に睨みをきかせていた生徒達が子熊の元に集まってきて声をかけていく。
千世は心の暖まるその光景に感激していた。
子熊を中心に固まった生徒たちの心はとても眩く輝く桃色を持っている。優しい色、千世の大好きな色。何者とも変え難い宝石のような感情。
「高林。」
美咲に変わって直也が口を開いた。
美咲は弁が立つが、彼女のそれは相手を言葉で殴るタイプのものだ。
よって、相手から何か聞き出したい時、直也が率先して前に出て行く必要がある。
でないと、何も聞き出せないままに美咲が相手を潰して一人勝ちしてしまう。
それでは、根本的な部分をどうにもできない。
「お前、このグループのリーダーか?」
「そうですけど。何か?」
「あんまり前のめりになるなよ。ただ…そうだな、お前の姉貴が心配してたぞ?」
姉、高林志保。
確かに言われてみると頭に血が昇った時、人にその感情をぶつけるような所がそっくりだ。
「お姉ちゃんが…。」
高林は少し申し訳なさそうに顔を俯いた。
それを見て直也は少し落ち着いた高林に語り掛ける。
「取り敢えず、話をしないか?その…小次郎について、な?」
「はい…。」
「それにしても、渋い名前だよね、小次郎って。」
香織は偶に話の腰を折ってしまう所がある。
それでも、今回は生徒会メンバー全員が気になっていただろう事を聞いてくれて内心「グッジョブ!」と親指を立てた事だろう。
「はい、小次郎です。昔飼ってた犬の名前です。もう死にましたが。」
どうやら、こちらはこちらでかなり重い話のようだった。
「それで!コイツは何処から拾って来たんだ?」
直也は陰の波動を感じ取り、話を正しいレールに戻す。
「小次郎は最初からここにいました。…でも僕が初めて出会った時、小次郎は飢餓状態でいつ死んでもおかしくありませんでした。」
「それで、拾って餌をやったんだな。」
「はい。目の前で苦しむ小次郎を見て助けなきゃって思ったんです。」
それから、直也は一つずつ質問をしていった。
直也の推理のほとんどが事実であった。
また、クラスの全員で小次郎を育て始めたのは自分の出席日数の問題とクラスの中心人物の1人に裏山に大量の木の実をは混んでいるのを見られ、なし崩し的に決まったことなのだそうだ。
聞きたいことも全て聞いた。
「それじゃ、役場に連絡して引き取ってもらいましょうか。」
美咲はいかにも興味がないといったように言い放つ。
「え?美咲?」
千世は思わず聞き返してしまう。
これほどまでに暖かくて美しい人の善意を無駄にしてしまうのかと美咲の心に訴えるようにその瞳を向ける。
美咲は千世の青い瞳から逃げるように少しだけ視線を逸らしてしまう。
「あなたは!こんなにも儚く尊い命を見て、何も思わないというのですか!」
我慢ならないといったように高林が美咲を糾弾してくる。もはや、先程の怒りを軽く超える激情に彼の体は小刻みに震えている。
「そうね。」
だが、美咲の答えは変わらず非情なものだった。直也と香織はその様子をただ見ているだけだ。
「美咲…。」
千世は見てられないと言うように美咲から目を逸らしてしまった。
美咲は何故あんなにも子熊に同情して心を打ち震わせているというのに、どうしてああも酷薄な態度を繕っているのだろう。
「そんな…そんな…!」
高林の額からは汗がつたい、目は充血するほどに見開かれている。
「あなたには、人の心が無いのですか…!」
「じゃあ、聞くけど。あなた達はこのまま子熊を育て続けて、その先にこの子熊の未来があると思っているの?」
「もちろんです!」
高林弟はさも当たり前だというように大きく頷いた。
だが、子熊を取り囲んでいる生徒達の中には思い当たる節があるものもいるようで、少し俯きがちになって熟考している。
「いつか大人になって人里に降りてきてしまうかもしれない。そんな時その熊は捕獲されることなく殺処分されてしまうかもしれない。人に慣れた熊は怖いわよ?人の生活圏に侵入するのに躊躇なんてないの。」
「それはもしもの話でしょう、僕たちはその為にここにいます!僕たちがいれば先輩のいうようなことは起きないはずです!」
高林は自分たちには小次郎を止められると自信たっぷりだ。これまで子熊を育て続けたという功績が彼を奮い立たせた。
第三者から見て明らかに正しいのは美咲だろうか。しかし、当事者達からすれば全く許容できない話だろう。高林のこれまで小次郎と過ごした日々は、彼の正義となって彼の背中を前に突き出す。
「それには、俺も同意したいな。そいつがお前達に危害を加えないとも限らない。」
直也が少し、美咲に加勢する。
もし、2人がかりでの説得が無理だとするなら、今日は引くしかないだろう。
「…少し前、大原さんが小次郎に引っ掻かれたって。」
考え込んでいた女子生徒が小さく口を開いた。
それを聞いてあり得ないといった表情で高林が女生徒を凝視する。
「それは大原の不注意だっただろう!適当なことを言わないでくれ!」
「あ…ぇ。でも…でも……。」
女生徒はいきなり自分に非難の矛先が向いたことでしどろもどろになってしまっている。
それを見た他の男子生徒達は今度は高林に非難の眼差しをむけ、女生徒を庇っている。
このままでは内部分裂を起こして高林は孤立してしまう。
それでも、一度頭に血が上った高林は止まらない。
「爪なんて切ってしまえばいいんだ!そしたら誰も傷付かない!」
______。
それを聞いて美咲は無言で振り返り、来た道を引き返していく。
「羽月。もう帰るのか?」
直也の問いに美咲は答えない。
ただ真っ直ぐに迷いなくツカツカと足を進めていく。
「まあ、なんだ…。またくるからよ、アイツにもいっておくがお前も頭を冷やせよ?」
直也は高林を諭すように語りかける。
それを聞く高林の目は暗に二度とくるなと言っていた。
「美咲ー。待ってよぉ。」
香織は美咲の後を追っていく。
「千世行くぞ。」
直也は未だ立ち尽くして動こうとしない千世に語りかける。
「うん。」
振り返った千世は何かある種の喪失感を感じた顔をしていた。
_____________________________________
______どうして美咲はあの時。
そんな事が千世の頭の中で反芻されていた。
時刻はすでに午後六時を回っていた。周りは夕陽に燃え、目を覆いたくなるほどに眩く世界は輝いている。
いつもなら、千世はこの景色を見て美しいと感じたのだろうか。
千世にとって、色とは大切なものだ。千世が一番多く知覚するもの。
それを今は美しいとも大切だとも思えない。
まるで、心を殺されていくような気分だ。
「千世、少し良いか?」
直也が話しかけてくる。
美咲と香織は志保の元へ報告に学校へ戻った。
「直也。」
千世は無意識に直也へと答えを求めた。
直也を射抜くような目には何故?と千世の強い疑念が映っていた。
だが、その蒼い瞳には夕焼けの橙色が反射し、えもいわれぬほどの美しさと儚さを秘めていた。
直也はこの瞳に応えるべきだと確信した。
「千世、人には人の正義があるんだ。」
「正義?」
「そう正義だ。ただそれは一人一人が持っていて、それでいて全て違うものだ。」
直也は千世に訴えかけるように語る。
「だがな、それは人を時に盲目にする。高林弟は自分の正義のために子熊を蔑ろにして利用しようとしたんだ。自己の正しさを保つために臭いものに蓋をして自己の正義を揺るぎないものとしようとした。それは羽月にとって許せない事だった。」
直也は高林が子熊の爪を切ろうと言い出したことを言っているのだろう。
「まあ、正義は結局、その人間だけのものなんだ。だから誰かと衝突するし、いつか打ち砕かれる事さえある。」
「じゃあ、その人の正義は正しくないものなの?」
千世の声は縋るような声だった。
それでは、打ち砕かれた正義があまりにも可哀想だと思ってしまった。
「いいや。打ち砕かれた正義はそれでも正義なんだ。正義とは元々俺ら人間が自分を正当化する為に作り上げる虚構だ。そこに正しいも何も無い。」
「最初から正義なんてのは存在していない。だから、俺たちの心は移ろい、正義はそれに沿ってコロコロと姿を変えていく。」
直也は1度呼吸を置いて千世に話を噛み砕く時間を与える。
____数秒間の静寂。
千世の顔色が悪い。
「だが、…。」「あの!」
直也が続く言葉を紡ぐ前に嵐は訪れた。
先程、裏山で別れた女生徒が肩を上下させて尋常ではない表情で訴えてきた。
「どうしたのその怪我!」
千世は陰鬱とした気分を心の隅に追いやり、目の前の女生徒を気にかける。
遅れて、直也が気づく。
女生徒の腕には出来たばかりであろうジクジクと血を流す生傷がある。
「取り敢えずこれ使え!」
直也は自分のポケットからハンカチを取りだし女生徒の傷に強く押し当て止血する。
「私より、高林君を助けてくれませんか!」
「高林弟か?何があった!」
「急に、熊が出たんです…!」
「小次郎以外にか?!なんでそんな事が、…。」
偶然。
____否。
直也には、思い当たる節があった。
「そうか、母熊の目の傷…。」
ニュース報道にあった殺処分された熊は隻眼だった。
「千世!裏山に急ぐぞ!」
その時点で気付くべきだった。
熊は頂点捕食者だ、自然界において天敵と呼べる存在は無い。
ならば、何故雌熊は傷を負っていたのか。
そして、繁殖期に入った雌熊が攻撃的になる理由。
それは、オスの熊が子熊を殺す事を防ぐため。
オスの熊は繁殖期の親子連れの熊の子を殺し、子を亡くした熊との間に新たに子を成す事がある。
熊の嗅覚は犬よりずっと良い。ならば、子熊の匂いを辿って来ることもあるかも知れない。
「クソッ!なんで羽月は携帯持ってねえんだよ!」
直也が此処には居ない羽月に愚痴をこぼす。
「美咲を待ってる時間はないよ!直也、急ごう!」
千世は直也よりも素早く思考を切り替え、急かす。
「ああ!」
2人は走り出した。
夕陽はもう、頭を少し建物の上から出してるだけだ。薄暗くなっていく街を2人は駆けていく。
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千世達が裏山に着く頃には、日は落ち太陽に代わり月が台頭してきていた。
木々の隙間を抜け、昼間1度来た場所を目指す。
急げ。急げ。急…。
千世と直也は目的の場所に着いた。
だが、そこにあるのは、
一面の赤。赤。赤。赤。赤。赤赤アカアカアカあかあか…。
悲鳴をあげる生徒。
二足で立ち、人を威嚇する巨獣。
牙を砕かれ、腹を千切られ無惨に血の池に横たわる子熊だった物。
その肉塊を涙を流しながら抱き上げる男子生徒。
千世の目に映る光景は赤一色のみだった。
「うっ。おぇっぅ…。」
千世はその光景に胃の中の物を吐き出しそうになる。
絶望。憎悪。恐怖。怒り。怒り。怒り。
千世の頭を“アカ”が支配していく。
「千世!コイツらを逃がすぞ!」
直也の声に千世は正気を幾分か取り戻し赤色から目を逸らす。
「ゴアァァァッ!」
巨獣が咆哮する。
この巨獣は人などという矮小なものに恐れなど持たない。
熊は子熊の亡骸を抱える男子生徒を捉え突進していく。
「マズイッッ!高林!」
直也は悲鳴を上げている3人の男子生徒に手一杯になっている。
熊の身体能力は人間を軽く凌駕する。
直也の位置からではもうどうにも出来ない。
「ガアアアァァァ!」
再度巨獣が吼えた。
巨体は男子生徒までもう2メートルもない。
男子生徒はもはや恐怖で動くことは叶わない。
直也も生徒たちも男子生徒はもう助からないと確信してしまう。
「あ。ああ。あ…。」
涙で顔をくちゃくちゃにした生徒が直也達を見た。助けを求める視線。
3人の生徒はその視線から逃げるように目を逸らす。
熊の牙が男子生徒の首を噛みちぎる。
男子生徒の体躯は弾け飛ぶように宙を舞う。
「グキュウァア!」
___それは、現実にはならなかった。
千世は熊の頭部に向かって石を投擲した。
ただ、それだけ。
しかし、それによって熊は血相を変えて林の更に奥へと駆けていった。
敗者の逃走、その体躯はあまりにも小さく見えた。
「終わりか。」
直也はそれを見てどっと疲れが押し寄せたように体が重くなる。
今回の事件は、乱入者の存在によって根底から絶やされた。これ以上の調査も説得も何もかもが必要ない。
件の子熊はもういないのだから。
直也は事後処理に奔走することになった。
まずは美咲の家に電話を掛け、呼びつける。そこから一人一人、1の2の生徒たちの家に電話を掛けて親を呼びつけ引き渡して行く。
「今回は、世話になったな弟が…。」
その中には志保も来ていた。親を押し切り、自分が来たのだそうだ。
「ほら、お前も。」
「ありがとう…ございました…。」
やっと安心感を得たのか、高林弟は涙で顔が見えないほど泣きじゃくっていた。
これ以降、彼は今回のような事はしないだろう。
引渡しが終わると千世と美咲と直也の3人で子熊の死体をその場に埋めることにした。
本当はいけない事ではあるが今回ばかりは目を瞑って欲しい。誰かに言う訳でもなく心の中でそう千世は謝罪する。
この子熊を育てていた彼らの気持ちを尊重したかった。
全ての後処理を終えた頃にはもうすっかり夜になってしまっていた。
「千世…。帰るわよ…。」
千世は暗闇と化していたその場所を見つめていた。その背中は、やはり喪失感を感じさせるものだった。
「あんなに、幸せで綺麗な色が。全部、赤くなっちゃった。」
子熊は母熊に先立たれ、その後人に飼われた事で野生動物とは言えない状態だった。
オス熊に襲われた時、抵抗も逃亡さえも叶わなかっただろう。
また、オス熊はかなり痩せ細って死に体とも言える状態だった。
最後に子を残そうとしたのだろうか。
しかし母熊も見当たら無いというのに子熊を襲って食った。
だがこれについてオス熊が非難される事では無い。自然とは、元々そういうものなのだから。
しかし、あの熊は人を襲った。
人を襲ってしまった熊がどうなるなんて誰にでも分かる。
自然が人を嘲笑う様な酷薄な結末。
これが人の善意の、正義の結末だと言うのだろうか。
こんな事があっていいのか。
千世は身体の中心から急速に冷えていく感覚にのまれていく。
「羽月、俺たちはちょっと散歩してから帰る。」
それを見かねて直也が千世を連れ出す。
「分かったわ。あまり、遅くならないようにしなさい。」
美咲は何かを感じ取ったように千世を置いてすぐに帰路に着いた。
それを横目に未だに千世はその場所を見つめていた。
「千世。ちょっと歩かないか。」
「直也?」
千世は直也の真意を尋ねるように聞き返す。
直也は来た道を引き返していく。
着いてこいということだろうか。
それに続いて千世は直也に並んで歩き出した。
連れてかれたのは、学校だった。どうやら、屋上に用があるらしい。
直也は塀を乗り越え、職員室に侵入し鍵を盗み出した。
「ちょっとバレたらヤバいって。」
「大丈夫。円華に連絡しといた。」
それっきり、また無言でつかつかと階段を登っていく。
だいたい4階分位の階段を登りきった後、重厚な扉が姿を現した。
WARNINGと書かれた立て札を退けて扉の鍵穴に手をかけ解錠する。
_____風が吹き抜ける。
今日もジットリとした気温ではあるが、比較的高所である屋上には涼しい風が吹いていた。
「綺麗だろ?」
直也の指さす方向にはビルと住宅の明かりによって彩られた夜景が映し出されていた。
「うん、そうだね。」
千世は本心からそう思った。
建物の明かりの全て一つ一つが人の生きている証なのだ。その明かりは千世にとってとても尊いものに見えた。
「嫌な事が会った時にはこうやってここに来ると良い。風が嫌なことも吹き飛ばしてくれるからな。」
直也は子供の様にニッコリと無邪気な笑顔を覗かせた。
「まったく。敵わないな直也には。」
数分が過ぎ風が止んできた。
それと同時に千世が口を開いた。
「直也、僕は正義が何のためにあるのか分からないよ。」
単純な疑問。
ああも残酷な結末を生み出す虚構になんの意味があるのだろうか。
「言ったろ。自分を正当化するためだ。」
「その結果があんな事でも?」
自分もあの結果に行き着くと言うのならそれは、とても不安だ。自分を正当化する事なんて出来ない。
「そうだ。」
直也の言葉に揺らぎは無い。
「正義は簡単に答えを導き出せるものじゃないんだ。」
「正義は虚構だが、人の生きる指針になるんだ。俺たちは正義を時にぶつけ合い誰かの手で打ち砕かれる。」
「ただ、大切なのはその後なんだ。」
先程千世に言いかけた言葉の先。
「俺たちは、打ち砕かれた時初めて自分の正義について考える、つまり回帰するんだ。その時俺たちは自分の正しさを振り返り、新たに強固な虚構を作りあげ人生の指針とする。」
「そうやって俺たちは更に強く踏み込んで人生を歩んでいくんだ。」
だから、と直也は続ける。
「お前も、自分が正しいと思った事には迷わず突っ走れ!」
「でも…。今回みたいな事があったら……。」
残酷な正義の結末。
「そういう、どうしようもなくなったら俺や美咲、香織を頼れ。俺たち生徒会はその為にいるんだ。それに、羽月はいつも正しい事をするからな!あいつに正義を学べ!」
直也は早速矛盾したことを言っている。
「俺はあいつの正義は他の正義を全て食っちまえると思っているからな!」
直也が何を言っているかよく分からない。
だが、
「そっか。」
直也の言葉に、千世の心に巣食っていた不安は安心に変わり、千世の心を奮い立たせた。
「僕もこれから一生懸命、正しさについて考えていくよ!」
明日には、自分の正義も打ち砕かれてしまうかもしれない。それでも、悩み続ける覚悟を千世は決めた。
直也から確かに答えは貰った。
「おう。アフターケアは任せろ!」
直也が千世に応えるように立ち上がった。
今2人の心は完全に通じあっている。
そのまま千世は直也とハイタッチをする。
______パンッ!
乾いた音が夜風に消えていく。
この時、千世の心に正義が初めて宿った。
重厚な扉を閉めて家への帰路につく。
先を行っている千世を見て。
「正義か……。」
直也は1人の少女を思い浮かべ独白する。
彼女はただ完璧な正義を持つが故に囚われた。
世界でたった一人の正義の奴隷。
一体何処からその正しさを得たのだろうか。
誤っている所が多かったのでかなり改訂してしまいました。