家。
暗く、冷たい路地の終点。美咲の足は動きを止めた。
「なんで。」
切り捨てた可能性が形となり美咲の前に現れる。
運が悪かった。ただそれだけ。なら、見捨ててしまえば良い。自分とは関係の無いダレカが死ぬだけだ。美咲には関係がない。それよりも怪物が完全に修復を終え、追ってくる前に逃げなければならない。美咲は未だあの怪物を迎え撃つ用意が整っていない。
まだ、間に合う。
しかし、足は動かない。
なぜ……?
少女は眠っている。美咲には気付かない、また自分が死地にいることにも気が付いていなかった。
ただ安らかに、気持ちよさそうに寝息を立てている。
電灯に誘引される虫のようにフラフラと美咲はその少女に近寄っていく。
駄目だ。
生物としての本能が逃げろと警鐘を鳴らす。
それでも、美咲は少女を起こすために少女の体を揺する。少女は「んうぅ…。」と声を漏らすのみだった。
揺する。__起きない。
揺する。__起きない。
コツコツ…。とブーツを鳴らしながら自身の欠損箇所の修復を終えた鬼が迫る。
揺する。__起きない。
だんだんと、起こそうと揺らす手つきは乱暴になっていく。
「起きなさいよっ!」思わず声が出る。体中の毛が総毛立っている。
この空気の読めない少女の顔面に一発渾身のを入れてやりたい。美咲は内心で叫ぶが行動には起こさない。
揺する。__起きない。
揺す__
パチリ。少女の目が見開かれる。
美咲の眼を深く蒼い眼が射抜く。
輝く蒼い眼は美咲を前に”朝日のような優しい笑顔”を形作った。
瞬間、美咲は即決する。
命を懸けた勝負なんてものよりも美咲にとって大切なものを見つけた。逃げている間に立てた策も魔術式も、全てを空にする。代わりに、ひとつの魔術式を炉心に固定し魔力を込めた。
『“この少女を助けたい”』
美咲の黄金に輝くような燃える意志が体を白熱させた。
美咲は炉心に装填された術式を素早く弾く。
「ごめんなさいね。」
それはただ、光と音を拡散させるだけの魔術。初歩の初歩、魔術師なら誰もが等しく行える魔力からエネルギーを変換しただけの奇跡。謝罪は怪物に対するものだ。彼の騎士道を踏みにじることを恥じて、美咲は謝罪する。
「GAaaarAAAaaa!」
鬼が咆哮する。二度目の視界の消失に鬼は追撃に備え防御姿勢をとる。
しかし、鬼のその行動は無意味に終わった。
ひるんだ怪物に美咲は追撃をすることなく、ただひたすらに怪物のいる方向と反対に向かって足を動かした。美咲の細い足は度重なる疾走に耐えかね悲鳴をあげている。それでも、美咲は少女の手を引いて走った。
ただ、少女を助けるために。
怪物のみをその場に残し、二つの影が深夜の街へと消えていく。
_____________。
グラディウスに五感が戻る。
そして彼は周囲を確認し理解する。美咲は逃げたのだ。先程までの準備をするための一時撤退とは異なる完全なる命を懸けた闘争からの逃亡。唐突な敵の裏切り。
騎士としての高潔さが彼を怒髪天をつく怒りに震え上がらせる。
「羽月美咲!お前は、必ず俺が殺す…!尊厳を踏みにじり、凄惨な死をくれてやる……!」
狂乱。
「ヴゥア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!」
そして失望と決意。
彼の絶叫は大気を揺るがし、夜の街へと熔けこんでいく。
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午前1時
美咲は、帰宅するととりあえずの安全を確保する。
「ハァッハァ…ハァ。」
まだ呼吸が怪しい。心臓は未だ破裂しそうな程早く鼓動する。
やはり、理不尽な出来事には人間だれしも怒りというものがわいてくるわけで。
「あんな怪物がこんな時代に取り残されたような地方都市に何の用があるのよ!」
しかしすぐに怒りはフェードアウトしていく。美咲の体は極限状態だ。足は度重なる全力疾走によって石と化し、激しい戦闘の跡がそこかしこに残っている。また、肉体的疲労だけでなくいつ死んでもおかしくないという緊張状態から解放されたことによって気力的にも限界がきている。
もう何もする気がわいてこない。
風呂も着替えも忘れ、ベッドに身を投げる。
「今日は学校休もう…。」
確固たる決意を抱いてベットの染みとなっていく。
____なにか。
______忘れている気がする。
____。
_________。
意識が浮上する。
鈍痛が美咲の全身を覆い尽くす。起きてしまったことを後悔するほどの不快感が美咲を襲う。
しかし、学校に連絡をしなければ円華に事故を疑われてしまう。美咲は観念したとばかりに起き上がって時間を確認する。時計は既に12時を回っていた。
「やっちゃったかあ。」
なんて言葉を残し。美咲は固定電話のある階下へと降りていく。美咲は携帯電話を使わない。理由は思い出せないし、それに美咲は必要性も感じていない。
リビングルーム。薄暗く、簡素な部屋を見渡す。いつもと変わらない自身の家を見て安心する。
しかしそこで。
「?」
美咲をじっと見据える蒼瞳と目が合った。
「は。」
美咲の頭がフリーズする。侵入者?いや、そんなわけは無い。必死に美咲は昨日の記憶を呼び覚ます。
怪物に追われている最中、路地裏で眠る少女に出会ったことを思い出す。激情のままに自分は少女の手を取り走ったのだ。
「そっか。連れてきてしまったのね。……。…………。いや……。いやいやいや!ま、ま!」
「まっずいでしょ!」
過去の考えなしの自分の頭を殴り飛ばしてやりたい。
助けるためとはいえ、少女の手を掴み家に連れ込んだのだ。正直、誘拐としか言えない。
__プルルルルル。プルルルルル。
電話…。電話だ。
美咲は咄嗟に警察か!と最悪の事態を予測し体が緊張する。
しかし、そんなわけもないので、グルグルと回る思考をようやっと止めてやる。電話盤には学校の電話番号が映し出されている。おそらくいつまで経っても登校も連絡もない美咲を心配して円華が電話をかけたのだろう。
「ちょっと静かにしててねーー。」
美咲の額には汗が伝っている。
「ん?分かった。任せてよ。」
そんな、心強い返答を少女は返す。高くはないが、儚げな美しい声だ。
美咲は電話を取る。
「もしもし?こんにちは。桜ヶ丘高校2年3組の担任の川代円華です。羽月美咲さんはいらっしゃいますか?」
電話口から胡散臭い声が聞こえてくる。正直今すぐ切りたい。
「はい、美咲です。おはようございます、先生。」
ついさっき起きたばかりなので、おはようございますと反射で口から漏れてしまった。
「成程。珍しいですね、あなたが寝坊するだなんて。」
少し、笑いを含んだ声が電話越しに聞こえた。
「すいません。今日はお休みします。理由は風邪です。アー、ノドガイタイナー。それでは、先生さようなら。」
美咲はさらに不機嫌になって、早口でぶっきらぼうに答えるとついでにゴホゴホと咳をする。そのまま、受話器を置いてしまう。「ちょ、まっ__」素っ頓狂な声が響く。そこで会話は終了する。
美咲には電話よりも先に傍で佇む厄介事をどうにかしなければならない。
プルルル。プルル__。プツン。
再度電話が鳴るが、美咲は電話機に繋がっている電話線を引っこ抜き黙らせてしまった。まあ、円華相手ならこれでいいだろう。美咲はさっさと円華のことを頭の最奥へ押し込む。そんな雑な扱いを愛する生徒から受ける円華先生には涙を禁じ得ない。
「終わったの?」
美咲が話し掛けるより先に少女が語りかける。
「ええ。ところで貴女家が何処にあるのかわかる?」
少女は言い表すなら純白。社会のことを全く知らないと言ったように無垢に見える。あどけない少女。それが美咲の持つ所感だ。
「家?ないよ。あったらとっくに一人で帰ってるよ。君が泊めてくれて助かったよ。ここのことは何も知らないし自分のことも思い出せない。あのままだったら死んでた。」
少女は当然の事と言うように言ってのけた。
聞きたくなかった。これがただの誘拐事件であったならすぐに解決したというのに。美咲はガックリと肩を落とす。
美咲には分かる。
これは…。とびきりの厄ネタだ。
記憶喪失のホームレス少女。なんてパワーワードなのだろうか。
酷薄な現実を美咲は受け止め、はァ。とため息をつき。少女の手を引っ張っていく。行き先は風呂場。とりあえずこの捨てられた子犬の匂いを纏う少女を綺麗にしてやらないと。
少女は小首を傾げ指を指し「これは何?」と言いたげな目を向けてくる。本当に何も知らないのだと美咲に追い打ちとばかりに絶望的な事実がたたきつけられる。
「これを捻ればお湯が出るわ。」
これがシャンプー。これがコンディショナー。これがボディソープ。と美咲はひとつひとつどれで何処を洗うのか説明をしてやる。
「服はここに用意して置くから」
そう言って美咲はカゴを指さし、脱衣場を後にする。
美咲は自分の今使っている服が入っているタンスとは別のタンスの取っ手を引く。少女には自分の服では少し大きすぎる。あの子の服ならば、今よりも一回りほど小さい。彼女にピッタリだろう。
少しこれらの服を貸すのは美咲にとって抵抗があった。そこには美咲の世界の全部が詰まっていた。少しほつれているがまだ使える。適当にいくつかの洋服を見繕い脱衣場へ持っていく。
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改めて。
美咲は彼女の事を知らなすぎると思い立ち。髪を乾かしたばかりの少女の事をジーッと観察する。
少女は自身の存在を確認するようにぺたぺたと自分のあちこちを触っている。
美咲の値踏みするような視線に気づいたのか、少女は少し目をそらすと頬に薄く朱が差す。
可愛い。
少女は美咲の完全なる趣味によって選ばれたフリフリの真っ白なワンピースに身を包み。肩下まで伸びた濡羽色の髪をハーフアップにまとめている。身長は150cm後半、スタイルは美咲とは比べ物にならないが不思議と女児らしさを感じさせないなんとも可憐な少女だ。美咲とはまた別種の女性としての魅力を持っている。
だが、美咲が特に心を惹かれたのは彼女の瞳だ。
少女の瞳は自然光においては黒色の中に薄く蒼く輝き、逆に暗闇においては夕暮れ時を思わせる青紫として輝く。まるでタンザナイトだ。
『希望。』
それがその宝石が持つ意味。
「まったく、誰が考えたのかは知らないけどぴったりな皮肉だこと。”希望”なんてものは蜜のように甘く美しいけれど、同時に簡単に崩れ去ってしまう。」
タンザナイトは、1980年代にアメリカを中心に人気を博した宝石だ。多色性を持ち見る角度によっては青や紫だけでなく、赤色にだって輝くこともある。しかし、この宝石はモース硬度が低く、また劈開性を持ち衝撃にとても弱く脆い。
「?」
少女は美咲の独白に疑問符を浮かべている。
「なんでもないわ。忘れて。」
美咲は、湿っぽくなってしまった雰囲気を振り払うように言うと、椅子を持ってきて深く腰を下ろす。
「あなたに聞きたいことがいくつもあるわ。」
まずは。
「貴方、名前は?」
「覚えてない。元々あったかもしれないし、なかったかもしれないけれど。」
なんでもない事のように少女は言ってのけた。
「そう。冷静ね、気にならないの?」
「いいや?気になるし自分で自分のことが分からないのはとても恐ろしいと思う……。」
蒼い瞳は空虚だ。
「あ。」
何かを思い至ったように声が漏れた。
「なにか思い出した?」美咲は少女の変化を見逃すことなく問いかける。
「ううん。大したことじゃないんだけれど。いや、違うよね。」
スゥ。
深く空気を吸う音が部屋に木霊する。
「お願い。…僕に名前を付けて欲しい。」
真剣な表情。美咲は自身を映すその瞳が七色に煌めいた気がした。
「いや、それは……。」
美咲は多分自分が今とても苦々しい表情をしているだろうと思った。自然、美咲はその瞳から逃れるように目線を逸らす。美咲は迷っている訳では無い。名前はもう決まっている。この少女の名前なんて、これしかないと確信している。
美咲には少しその名前が重い。口にすることさえはばかられる。
「……。」
「……。」
___。
沈黙が部屋の空気を泥のように重く変えていく。
少女は諦めない。その瞳は変わらず美咲を貫いている。
____ 。
______。
「……ち。」美咲の口が薄く開かれる。
「ち?」形のいい眉が寄せられる。
「 “千世” 」
千の世界を映す瞳。
美咲の灰色の世界を壊す敵。そして壊したくなるほどに羨ましい。
少女は答えない。
美咲は耐えられないと言うように視界を目の前の少女へと戻す。もはや恥ずかしくなってきてしまった。しかし、美咲の予想を遥かに上回る現実に絶句する。
少女は、目尻に雫を貯めてはにかむように笑っていた。美咲に「ありがとう。」ただ一言、そう言って。
美咲は彼女が分からなかった。なぜ自分で自分のことを忘れてしまうほどに追い詰められても冷静でいられるのか。でも、根本から違ったんだ。最初から、彼女は別に悲しく無いわけ無かったんだ。彼女は記憶を失い、痕跡を失い、あらゆる自分が無かった。だから感じることが出来なかった。
自分の世界に自分が忘れさられ、自分だけが世界に存在していなかっただけなんだ。
でも、美咲から千世をもらった。彼女の世界に千世が産まれた。初めて、感情を感じた。
美咲は咄嗟に立ち上がり、千世に手を伸ばした。小さく震えしゃくり上げる体を抱く。赤子をあやすように優しく肩を叩いてやる。
____。
この静寂が今は心地いい。
気付けば千世は美咲に頭を肩に置いて眠っていた。
スーー。スーー。
スーー。スー。
規則正しい寝息が部屋を反響する。
ふと。
「あれ。なんか引っかかる。」
美咲は違和感を感じた。なにか千世がおかしな事を言っていた気がする。頭を絞るようにして思い出す。
そうだ、「僕に名前を付けて欲しい。」確かにそう言った。ぼく?一人称が僕。
嫌な予感が美咲の足から頭までを突き抜けた。
「ま、まあそう言う娘もいるわよね?」
そういえば、千世は声や顔、髪を除いて肉体的な面で言えば中性的だと言える。
思考が悪い方向へ向く。
「い、一応ね?確認だけしときましょう。ごめんなさい!」眠った少女?にわけも分からず謝罪する。
______。________。
なんてことだろう。
美咲が少女だと思っていた相手は、少年だった。
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近くに人の息遣いを感じる。肩から暖かな熱を感じる。意識はまだ白い。そろそろ起きないと。
「目、覚めた?」
誰かの声がした。
「あ。」
千世は跳ね起きた。その拍子に頭をぶつけてしまった。確認するとどうやら頭を打ったのは椅子だった。
時刻は午後6時、外はもう暗い。
「ご、ごめん。寝ちゃってた。」
自分が美咲に大きな迷惑をかけたことを理解し、謝罪する。顔からはゆでだこのように真っ赤になって湯気が出ている。
「ん。」
美咲は素直に謝罪を受け取る。
「それと、起きたならそろそろお腹すいてない?」
千世がどれほど街を彷徨っていたのか美咲は知らないが、昨日から今まで何も食べていないのは確実だ。お腹のすき具合も限界に達しているだろう。
「おなかすいた…。」
「まったく、遠慮がちになっちゃって。」
美咲は少女の変わり身にすこし感心してしまう。朝は無感情に美咲の言ったことに機械的に従っていただけだったというのに、今ではすっかりしおらしくなってしまっている。
「千世、こっちきて。」
千世をテーブルの前に座らせる。ご機嫌に美咲は千世の目の前に発泡ポリスチレンでできた器を置いた。
「こ、これは?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする千世。
まさか。
恐る恐るといったように千世は美咲の顔を覗いて聞く。
「え?カップラーメンよ。私の一番の得意料理。半分ふたを開けて薬味をとったらお湯を注いで数分待ったら出来上がり。ちなみに私のお勧めは1分よ。」
そう言ってとくとくと手に持ったケトルからお湯を注ぐ美咲。
千世にはカップラーメンのことは全然わからない。しかし、美咲がこれを料理とのたまったことに戦慄する。
断じて...断じてこれは料理などではない。
美咲の食生活が心配だ。それでも千世は、美咲の子供が自分の好きなものを進めるような期待した目に口をつぐんでしまう。
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ズルズル。
____ズルズル。
とてつもない塩分の味。
千世がカップラーメンと格闘していると、
「あなた、これからどうするの?」
なんて言葉が飛んでくる。
「これから?」千世がきょとんとした顔をする。
「これからはこれからよ。あなた今自分がどんなじょうきょうにあるかわかってるの?」
ぎこちなく麺をすくう箸の動きが止まる。
世界がコマ送りになっていく。
「出来たら…。ここにいたい。」千世はごくりと生唾を飲む。
「そう。なら、部屋を一つ貸してあげるわ。わからないことは私に聞くこと、いい?」
千世の不安を一蹴してしまう。
「え?」
知世の反応は絶対に断られると思っていたといわんばかりだ。
「な、なによ。そんなにおかしいわけ?あなたには私が鬼か何かにでも見えるってわけ!?」
美咲は心外だとばかりにに訴える。
「い、いや君が優しいのは知ってたけれど、まさか住んでいいなんて...。え、えっとありがとう?」
「はいはい、どういたしまして!案内するわ。」
ちょっと怒ってる気がする。もしかしたら照れ隠しなのかもしれない。そう思ってすこし面白がりながら千世は美咲の後をついていく。
トントン。トントン。
たまにギシと床をきしませて二人は廊下を歩いていく。
二階へ続く階段を上ってさらにまた廊下を進んでいく。千世は会話のない空間にすこし気まずさを覚える。美咲の背中が少しもの悲しさをまとっている、気がする。
二階の角部屋。
それが千世にあてがわれた部屋だ。
扉を開ける。
そこにはフレームだけになったベッド以外何もなかった。
生活感のない簡素な部屋。ほこりもあちこちにたまっている。こんなところにいたら人は死んでしまうのではないか?まずは掃除だな。とすこし千世は肩を落とす。
「ここには誰も住んでなかったの?」
単純な興味から千世は美咲に聞いてみる。
ベッドがあるなら誰かが使うことを想定していたのだろう。
「いいえ。もともとは妹の部屋よ。小さいころから重い病気で入院していて、結局5年前死んでしまったわ。」
感情のない声が響く。部屋が薄暗く美咲の顔は良く見えなかった。
「いいの?そんなに大事な部屋を僕に貸して。」
「いいわよ。人間、過去には囚われすぎてはいけないもの。あなたも記憶を失う前のことなんてあまり考えるものじゃないわよ?」
__嘘つき。
自分が一番過去にしがみついて生きているくせに。
美咲は一人の少女を思い出した。
いつも、病室のベッドの上から彼女は私に朝日のような笑顔を向けてくれた。本当は自分が一番つらかったのに、痛かったのに、苦しかったのに、泣きたかったのに、最後の最後まで支えられていたのはずっと私の方だった。
彼女に生きていてほしかった。ずっと、生きていてほしい。
少しだけ千世は考えた後、
「じゃあ、丁寧に使わせてもらいます。」なんて少しかしこまって言う。
「ありがと。」
貸しているのは自分なのに、美咲は少しうれしくなって笑顔で感謝を伝える。
「そうだ、ずっと聞こう聞こうと思ってたんだけど、タイミング逃しちゃって。」
「なによ?」
「君の名前を教えてよ!」
眩しい。今まで見てきた笑顔の中で一番美しく咲き誇る笑顔だと思った。
自然と自分の口がにやけてしまう。
「私は、」
そう、
「私の名前は羽月美咲。これからよろしくね。」
二人は示し合わせたかのように手を取り合う。
共同生活が始まるのだ、と少しだけ期待感が高まる。