取り残された鳥は運命と出会う
...ピピピピッ...ピピピピッ...ピピピピッ。
7時30分
意識はすでに覚醒している。
鳥は朝の到来を謳う。心地の良い風が吹き抜け、取り付けられたレースカーテンは柔らかに揺蕩う。このまま“私”を朝に溶かしまどろみの中に消えてしまいたいと思った。
____ピピピピッ…ピピピピッ…ピピピピッ…ピピピピッ…ピピピピッ…ピピピピッ…ピピピピッ…。
そう物思いにふけったとしても現実は待ってはくれない。そんなことは知っていた。
だが心地の良い朝の眠りを妨げたコイツには罰が必要だと思うのだ。私は目覚まし時計を殴るように叩き付け黙らせてやる。思い知ったか。
__________。
こんな茶番をいつまで続けていても意味がない。ベッドの上をのそのそとうごめきながら体を起こし階下へと降りていく。
階下に降りると台所の上に置かれた菓子パンを適当に口に詰め込み、ハンガーにかけられた制服を手に取る。姿見の前に立つと寝間着を脱ぎ捨て、校章の刺繡の入ったブレザーに袖を通しネクタイを胸の前で結び襟を正す。そして寝起きのはねた髪をとかし、結う。こうして毎日のルーティンを淡々と終えていく。
家から学校までは徒歩で30分程度、時計は現在7時50分を指しておりホームルームには十分に間に合う時間だ。昨日用意しておいた弁当を鞄に入れるとよし!と気合を入れ薄暗い廊下を抜けて玄関へと歩み寄る。
玄関扉に手をかけると、誰もいない廊下を振り返り、
「行ってきます。」
_________。
答える何者かを少しだけ求めてしまう。私はハァ…と息を深く吐き出すと愚か物の自分を嘲笑い、扉をそっと閉じる。
こうして今日も”羽月美咲”は自分で閉ざしてしまった灰色の世界を歩みだした。
_____________________________________
美咲が教室に着くと多くの生徒は机につかず友人との談笑に花を咲かせていた。ホームルームが始まるまではあと十数分といったところで、美咲は友人たちに挨拶をすまし席に着く。
美咲は学校ではかなりの有名人であり話しかけてくる生徒も多い。日本系の整った顔立ちに167cmという女子高生の平均を優に超えた高身長、凛とした佇まい、人情深い性格 といった要因が正真正銘の高嶺の花としての地位を確立させて行った。
男子生徒たちは何度もアタックをかけてどうにかお近づきになろうとしているが、取り付く島もない言ったように華麗なスルーをくらい多くの生徒が燃え尽きて逝っている。女子生徒たちからは尊敬のまなざしを向けられ、特に後輩女子からはもはや神格化されていそうなレベルだ。
タンタン、と廊下からスリッパの跳ねる音を聞いて生徒たちが談笑を中断し席に着く。
時間は8時40分に差しかかりホームルームの開始がチャイムによって告げられた。
2年3組の担任兼二年担当古典教師である川代円華が教卓に着くととりあえず生徒たちは静かになり彼を見上げる。
円華は名前は女性のようだがれっきとした男性で、優しそうな物腰とその顔に貼り付けられたような慈愛に満ちた笑顔が特徴的だ。
美咲は正直円華に苦手意識がある。円華のまるで絵に描いたような善人のようないでたちに胡散臭さを感じてしまうのだ。それを知ってか知らずか円華が少しでも距離を縮めようと度々声をかけてくるが美咲はまともに相手をしないようにしている。
「みなさんおはようございます。」
円華の声に生徒たちはおはよーざーすというように適当で気の抜けた返事を返す。
「出席を取りますねぇ。安藤くん……。」
円華はテキパキとホームルームを進めていく。しかしどこかフワフワとした声色なのは彼の朝の弱さが原因となっている。まるで童話に出てくる熊だ。彼の背丈も相まってもはやそうとしか見えない。
ホームルームの説明事項を最後まで言い切ると円華は最後にと少し気を引き締めた面持ちをつくった。正直美咲は円華のその真剣な顔に物珍しさを感じてしまう。
「最近はこの町も物騒ですからね。登下校は必ず二人以上で、また夜の外出は極力控えてくださいね。」
と少し不穏な言葉を言い残して教室から去っていく。教室に円華の影がなくなったところで生徒たちの活気が戻り雑多な会話が教室を埋め尽くした。
がやがやと騒がしい生徒たちの中で「早めに、処理しないと。」そんな独白がポツリとかき消されるように沈んでいく。
キーンコーンカーンコーン____
授業が終わり、今の今までまどろんでいた生徒たちは先ほどの眠気が嘘のように元気になっていた。それどころか「カラオケいこーぜ!」と陽気な声が聞こえてくるとそれを聞きつけて教室の中心に生徒たちが集まっていく。
此処、桜ヶ丘は小さな地方都市だ。丘を切り開き駅を配置しその周りを古びたビル群が囲みさらにその周りには住宅街が点在している。美咲の通う桜ヶ丘高校は住宅街地帯の端に位置しており、少し移動すれば高校生が遊ぶには困らない娯楽施設がそろっている。なのでよく桜ヶ丘高校の生徒たちは仲の良い友人グループで遊び場を求め街に繰り出していく。
美咲は教室の浮ついた雰囲気に叛逆するようにそそくさと下校準備を整えていく。
「あれ?美咲さんは行かないの?カラオケ」
輪の中の一人の男子生徒から声がかかる。
「うん、今日は用事があるから。また今度ね。」
美咲は当たり障りのない回答を返すと明らかに教室の中の雰囲気が消沈してしまった。なぜか、美咲は自分が悪いことをしてしまったかのような罪悪感を感じながら鞄を待って教室を出る。
廊下にはまだ生徒が少ない、美咲は早歩きでその中を進んでいく。
「今から帰り?」
そこに馴染みのある声がかけられた。
「そうだけど、香織は部活?」
声の主は"水瀬香織"。彼女は美咲の小学校のころからの友人で親友とも呼べるような仲だ。実際美咲は周りから避けられている訳ではないが敬遠されてしまい友人は少ない。そんな、華のない青春を支えてくれた恩人とも呼べる人間だ。
「うん!今日こそ先輩から一本取るんだぁ!」
「あなた今度は剣道なの?呆れた。この前はテニスで県大会に出たいって言ってなかったっけ?」
「うぐ…テニスは飽きちゃったのぉ!でも今回は本気なんだからねー!」
「はいはい、わかったわかった香織はそういう子だよね。」
「もー!わかってないー!」
香織は頬を膨らませながらプリプリと怒る。
香織は少々飽き性なところがあるが悪い人間ではない。友人も多く、それは一重に香織の人徳と愛嬌故だ。特に女生徒たちは母性本能を揺さぶる魔力からか、猫可愛がりのような状況になってしまっていた。そんな状況を美咲は香織の精神的な成長の妨げになるのではないかと心配している。
「あ!美咲、今度一緒にメルキューのコラボカフェ行こうよ!」
なんて香りが思いついたように満面の笑みで言ってきた。
「メルキューってあの羊?牛?が溶けたみたいなグロイゆるキャラのこと?アイツそんな人気なの?キモくない?」
美咲は心底よく分からないといったように顔をしかめる。メルキューとは最近桜が丘で人気になってきた正体不明の謎キャラクターのことだ。かなりパンチの聞いたデザインをしていて、美咲は初めて見たときこれがキモカワというものだろうかと最近の高校生の完成を本気で疑ったものだ。
「キモくないよー!可愛いよっ!あのクリクリのお目目なんて最高にチャーミングッドじゃん。」
まあ実際は溶けて目が飛び出しているだけなのだが。
そうこうしている間に昇降口に着いた。香織は美咲と別れて武道場へ行くために踵を返した。
「あのね、やくそくだからね!じゃあ」
そう言ってバイバイと手を振って離れていく。
「ん、分かった」
それをみて美咲は手を振り返し自分の帰路につく。
準備は出来るだけ早く始めたい。
_____________________________________
深夜に誰も気づかないほど小さな音が沈んでいく。
ぴちゃぴちゃ。
それは、まるで獣だ。
ぴちゃぴちゃ。
いや元より獣だ。それは人の形をしているだけで
ぴちゃぴちゃ。
「GuAaaaa」
唸る。啜っても啜っても
ミタサレナイ、タリナイ、タリナイ。
モット、モット。
噛みちぎる。さっきまで動いていたもの。でももうきっと動かない。だってもうそれに熱はないから。
モット狩らないと、熱が。
「GaaaAaaaauuu」
動き出す、熱を求めて。ゆらめく。
「やっぱり、吸血鬼だったか。」
獣が振り返る。
「AaaaaaAaa!」
アレは新しい獲物だと歓喜する。
_____________________________________
午後11時
目を皿のようにして探す。
美咲は一度家に帰り必要な道具をもって夜のビル群の立ち並ぶ通りを歩いている。既に都心部のビル群からは光が失われ、出歩いている人間などほぼ居ない。
その中で見つけた、何かを引きずったあと。
これは痕跡だ。それの続く先に美咲は走る、被害をこれ以上に増やさないために。
人気の無い路地裏。
それは_の前に立っていた。_は既に熱を失っている。
美咲は思考を素早く切り替える。
「やっぱり、吸血鬼だったか。」
そう言って美咲は手を前に突き出しその動く死体に照準を合わせる。獣がニタリと顔を歪ませる。美咲を獲物として認識したのだ。
“敵”の撃破に美咲は全身の神経を向ける。
__どこかで風が吹いた気がした。
閃光が迸る。体内をかける熱が手に収束していく。魔力が充填され、魔術式が起動する。
何も無い場所から奇跡が具現化された。美咲が起動した奇跡はただ魔力塊を打ち出すだけのもの。しかし、それだけで必殺足り得る熱量と速度を持っている。
美咲が引き金を引くと同時に獣が駆ける。獣は速く、打ち出された奇跡を軽く身を翻してかわし距離を詰めてくる。美咲を数歩の距離にとらえると自分の凶悪な爪をはやした腕を引き絞るように構えた。
勝負は決まった。美咲は予知していたかのように冷静にシリンダーを回転しディレイを最小限に抑え既に装填された術式を起動する。敵に照準を再度合わせる。今度は二発の連射、獣は身をよじるが奇跡はそれより速く足を砕く。
実に三連射。獣は目を見開き弾けるスパークに目を焼かれる。敗北を理解する前に頭部を魔力塊によって弾き飛ばされる。
肉塊となったそれが動く気配はもうない。
それでも美咲は止まらない。
それが簡単に活動をやめてしまえる生物では無いことを知っているからだ。
美咲はシリンダーを更に回転し引き金を引き続け、ソレの身体を弾いていく。美咲はもう何も持っていないソレに近づく。
そして、美咲は何かを取り出しソレの心臓のある部分に突き立て新たな奇跡を起動する。その何かというのは、アサメイと呼ばれる儀式用の短剣だ。短剣を触媒として術式を魔力が満たしていく。
「私、本当はこういうのと相性悪いのだけれど。雑だとか、恨み言は勘弁してよね。」
相性が悪いからと言って使えない訳では無い、並の魔術師では使うことも叶わないのだから美咲は十分に特例だと言える。
一度大きく息をつき、詠唱を唱える。
「主よ、この魂に祝福を__。休息を此処に、罪のゆるし、洗礼をかの者に。」
美咲の持つ短剣が閃くと光が獣の肉体を瓦解させていく。獣の体は灰として風に吹かれ消えていく。
「ちゃんと恨みなさい。」
美咲は冷酷に言葉を吐き捨て更に深く短剣を抉るとぐち。と小さな音がなった。
美咲は立ち上がり、既に何も無くなった地面を見つめた。
「これで終わりね。」
誰に言う訳でもなくポツリと呟く。体が重い、疲れとは別種の気分の悪さがある。今なら、どこでだって瞼を閉じれば意識を放棄することができそうだ。そんなことを考えて美咲はさっさと路地を抜けていく。
カタン。
まるで酸素が薄くなったかのように美咲の息が荒くなっていく。空間がきしみ次の瞬間には自分が死んでいる事実があるのではないか、そんな気さえする。
ソレはビルの側面を重力を忘れたように立っていた。
「魔術師が魔術以外の奇跡を用いるとは興味深いな。」
声がかかり、額に汗を滲ませ息を荒げながら美咲は振り返る。「誰!」なんてありきたりな言葉を飲み込む。
なぜなら、そこにいたのは吸血鬼だったからだ。
まるで先程の動く死体とは違う、人知の外にある究極の生命体、真なる血を啜る鬼。
その姿に美咲の呼吸が止まり、肢体は震え己の意志を無視する。まるで、自分が物言わぬ人形になったようだ。
その吸血鬼の姿は高潔にして高慢、しかしそのどこにも偽りや傲りはない。スラリとした細身の佇まいではあるが、目にした生物を眼光だけで殺してしまうほど威圧的。銀の髪は乱雑に切りそろえられ、軍衣を思わせる衣服の上からは、金糸の刺繍の入った黒い外套に身を包んでいる。
__正に彼は“騎士”だった。
コツコツ。
ゆっくりと歩を進めるその災害のような男。ゆらりと薄く伸びた影は路地を侵食してゆくようだ。彼は眼前の魔術師に問う。
「女、お前は何者だ。」
言葉が重い。大気が震えるような声だ。
まだ、美咲の体は萎縮していた。心臓を握られているような恐怖を前にし、その怪物が何を言っているのか理解出来ない。美咲は口をパクパクと動かすが空気の抜けた音が鳴るのみだ。
「いい、答えるな、死合いの中で見定める。」
気づけばその手には剣が握られていた。
かつては、多くの戦場を彼と共に駆けた名剣。だが今では見る影もなく、装飾の一切を失い刃は血痕に赤黒く変色している。しかし、彼の主武装であり、彼が一番信頼する得物だ。
処刑人が近づいてくる。
動かなければ死ぬだけ、ただの処刑に過ぎない。せめて、最後まで抗わなくてはならない。
美咲は思い出す。
自己の呼吸、肢体の動かし方、そして生物としての生存本能を。
「私は!羽月美咲 …。」
一度言葉を切り、再度息を大きく吸う。
「 魔術師だ! 」
吠えたと形容するのが正しいと思えるほど叫ぶ。
この吸血鬼に、自分を敵として認めさせてやるのだ。美咲はわざと騎士道に習い挑戦状を叩きつけてやる。
吸血鬼は目を見開き、口の端を釣り上げ獰猛な笑みを浮かべる。
「いいぞ…!美咲、お前を敵と認めよう!」
してやったりと美咲から笑みがこぼれる。
「我が主人より賜った銘は、グラディウス。主人の敵を討つ“剣”だ。」
「騎士として死合うのは、久方ぶりだ……。懐かしい感覚だ。構えろ、苛烈に…行くぞ…!」
鬼が吠える。
美咲は落ち着いていた。魔術師として戦闘をする時に大切なことは、冷静でいること。適切な間合いの管理、使用する魔術の選択、戦術の構築。そのどれもが、冷静な判断を要とする。
美咲は魔力をうむ炉心を6つ持っている。そこにあらかじめ魔術式をひとつづつセットし、シリンダーを回転するように出力機関との接続を切り替えることにより、魔術を連射するという芸当が可能となっている。これは美咲が魔術師の接近戦における魔術行使のディレイという弱点を克服するために考案した戦法だ。
先程使用した魔力によって発生する熱量を飛ばすだけの術式。それを6発分装填をする。この術式の良さはその装填の速さと、取り回しにある。
「何をしている、遅いぞ。既に死合いは始まっている。」
「え?」
だが鬼は美咲が装填をしている僅かな隙を逃すことなく。美咲の十分に離れていると判断した距離を神速といえる速さで数歩分の距離に縮めてしまう。
刃が眼前に迫ってくる。
美咲は慌てて身をよじり、手を吸血鬼にどうにか向け速射する。
照準を合わすことなく発射された閃光は運良くグラディウスの美咲の腹を狙った剣に衝突する。美咲の体は光弾の爆風に飛ばされ、地面を転がる。
美咲は、偶然によって刹那の死を回避することに成功する。
「ウっぐぁ……。」
地面を勢いよく転がった美咲から苦しい息が漏れる。だがすぐに起き上がると今度は照準をしっかりと合わせ魔術を行使する。
「俺も奇跡を使うか。」
グラディウスの周りで、バチバチと音を立て鉄をも貫かんとする凶悪な鋼鉄の豪槍が組み上がる。
古い吸血鬼達は魔力との親和性が高く、術式や触媒を使用することなく直接奇跡を起こすことが出来る。
だが美咲は素早く光弾をリリースし、奇跡が完全に形を成す前に撃ち落とす。その様子を見てグラディウスの口元が笑みに歪む。
「俺が直接魔力を奇跡に変えるより早く、魔術を行使するか。魔術師としての腕は卓越していると言う域を超えているな。」
グラディウスは心底面白そうに語る。
「魔術行使の早さだけは、誰にも負けないと自負してるもの。舐めてもらっては困るわ!」
シリンダーの中身を全て吐き出すと計4発の光弾がグラディウスを襲う。
「しかし、無駄だ。自分よりも遅いモノに殺されるはずがないだろう?」
グラディウスは軽く剣を振り上げると、二つを露を払うように消し去ってしまうと、残りの二つを後ろに跳び避けてしまう。
彼の剣は卓越した殺しの業だ。剣筋は鋭く華麗で、その一線は大気を切り裂き大地を震わせる。
このままでは、と美咲は距離を取り路地をかける。
「正面から崩すのは無理ね……。」
なら、と新たな術式を空になった炉心にセットする。
吸血鬼はゆっくりと歩いてくる。その歩みからは強者の余裕を感じさせる。先程から美咲の魔術を迎撃はするが、地面を転がった時、今この瞬間にも大きな隙を見逃している。
腹が立つ。美咲はグラディウスが自分の技能の全てを下した完全勝利を狙っているのだと理解し憤慨する。
「準備は終わっただろう?そろそろ逃げるのはなしだ。」
グラディウスは地面を深く蹴り距離を詰めてくる。
それを、待っていたかのように美咲は魔術を行使する。
「そうね、そろそろ終わりにしましょうか。____!」
美咲は炉心の二つを使い、足元からは2匹の揺らめく影が具現化される。
影は飛び跳ねながら吸血鬼の元へと向かってゆく。
グラディウスは剣を構えると向かってくる影たちを切り払う。しかし、意味はない。それは、影に過ぎないのだから。
影二つ、鬼の周りを跳ね踊る。
影は猫の形をとり、吸血鬼を己がねぐらに誘い込む。
「幻の類いか。」
再度、影を振り払う。しかし効果は無い。
_____
___________
気づけばそこはかつて彼の駆けた戦場だった。
焦燥と旧懐が心を覆い尽くす。幻影は、毒として心を侵す。
だが、グラディウスの精神力の前にそれは直ちに霧散する。
「つまらないな。」
グラディウスは一言つぶやくと、自分の腕を切り落とす。吸血鬼は腕など切り落としたとしてすぐ生えてくる。この程度の外傷は彼にとって蚊に刺された程度のことだった。
そうして彼は化け猫達のねぐらをさっさと出ていってしまった。
______
___________
「驚いた。そんなに早く帰ってくるだなんて。」
美咲はそう驚嘆を零すが、既に数十秒間無防備だった標的にトドメの一撃を発動した後だった。
「もう少し早かったら良かったのにね。」
シリンダーが回転する。
__魔力炉心は四基同時に起動した。
__魔力が術式を満たしてゆく。
発動した術式は簡単に言ってしまえば振動を弾として発射する大砲だ。周りへの被害と自分の痕跡を極力残さないために、目に見える形で残る破壊はさける。しかし、威力として申し分なく、また防御不可という今考えうる最適な魔術だといえる。
美咲は標的に指をかざす。指先から刻印を前方の空間に刻む。刻印からは美咲の炉心から吸い上げられた魔力がうねり荒ぶる。ギリギリと絞るように音を立て回転する。
美咲は照準を引き絞り周りの建造物へ被害が出ないようにする。距離は目測10メートル。美咲は借り物の翼をひらめかせ確率を固定する。美咲の肩甲骨の間の辺りがじんわりと熱を持った。その魔術はもはや美咲が当てようとしなくとも勝手にグラディウスを穿つ。
___引き金が引かれる。
___同時に美咲が叫ぶ。
「ファイエル!」
_______
訪れたのは静寂。ただただ音がない。
吸血鬼は音のない世界に困惑する。
美咲の魔術はグラディウスの防御を突破し、吸血鬼を撃ち抜いた。
数刻おいてやっと、理解が追いつく。鼓膜が破れたのだ。まあいい、それくらいならば直ぐに治る。
だが彼は気づく、己の得物がないことに。
いや無いのは腕から先だ。
他にも自分の体にはパーツが足りていない。
「UuuGouAaaaaaaaaaaa!」
叫ぶ。痛み。痛み。痛み。
ボロボロになった身体を治す。湧いてくる衝動は怒りただ一つ。
「化け物すぎる!」
その一部始終を目で捉えていた美咲は吐き捨てるように呟く。考えるまでもなく走り出した。次の策を立てる時間もない。怪物は自分の想像を超えた怪物だったのだ。あれほど早く再生されてしまえば、どんな暴力も意味を失う。
タッタッタッタッ____。
スニーカーの跳ねる音が夜の静けさの中に響く。
ビル群の中、入り組んだ道を駆け抜けていく。
遠くで叫び声が聞こえる。逃げなければ。逃げなければ。焦燥が美咲を駆りたてる。
タッタッタッタッ__。
タッタッタッタッ__。
タッタッタッ_タン。
しかし、足は止まった。
「なんで。」
美咲の頭が凍りつく。
既に時刻は12時を回った。
あるわけが無いと思考が鈍足化していく。
美咲は見つけてしまった。
路地裏。冷たい地面の上で。
幸せそうに眠る少女を。