第一章 6 後のことは頼みます
「今日は本当に、ありがとうございました」
「いえいえ」
大げさに頭を下げる空乃の父に、風太と行人は謙遜する。
時刻は九時を過ぎており、空港内のレストランから見える夜景に、風太は圧倒されていた。
「夜景、綺麗ですね」
さりげなくつぶやく空乃に、うんうん、と風太は大袈裟に頷く。
「さあ、頼みたいものをじゃんじゃんと頼んでください」
目的を達成した喜びを感じる一方、風太はテーブルに漂う微妙な空気感に薄々と気づいていた。
空乃の指先は震え、行人は疑り深い顔で腕を組み、空乃の父は何か言いたそうにしていた。テーブルを囲む食事って、こんなものでいいのか、と風太は思ってしまう。
「えっと、何にしようかな。どれも美味しそうだ」
四人の微妙な空気感を振り払おうと、風太は気まぐれな性格を装う。
「……確かに、どれも美味しそうですね」
心なしか、空乃は元気がなかった。疲れているのだろうか、と風太は思いながらも、別の理由はないか、と探りを入れてしまう。
「遠慮せずに、好きなものを頼んでくれ」
四人は散々悩んだ挙句、ファミリーディナーコースを頼むことにした。
「君は、空乃の学校のお友達かね?」
「はい、そうです。空乃さんには、お世話になっています」
今日、空乃と初めてまともな会話をしたというのに変な話だ、と風太は我ながら思ってしまう。
「とんでもないです」
そう口にする空乃を見て、風太は本当に出会えて良かった、と思えた。
空乃の父の視線は次に、行人へと移る。
「ああ、俺はこの空港の書店で働いていて、たまたま二人の相談に乗った結果、こうなりました」
「そうかい。本当に助かったよ」
いきさつを語る行人に、空乃の父は礼を言う。
「あのう、初対面でこんなことを言うのは失礼かと思うのですが」
「なんだね?」
どうしようかと悩みながら、風太は空乃の父に尋ねた。
「どうして空乃さんに、いくつもの頼みごとをしたんですか?」
「え?」
風太に思いもよらない質問をされたのか、空乃の父は拍子抜けしていた。
「いやなんというか、ちょっと変わった頼みごとだなあ、と思って。もちろん一生懸命な空乃さんを見れて良かったんですけど、でもなんか違うなあ、って思いまして」
テーブルを囲む四人の空気が一変する。まるで腫れ物に触れたようなものだった。
「何が言いたいのかね?」
「えっと、空乃さんにこういうことをさせるのに、何か意味があったのかな、って」
空乃の父に恐る恐る風太は言う。
「……あるよ」
テーブルの上に載るグラスの水が少し揺れる。テーブルにつけた空乃の指先が震えたせいだった。
「……わたしは、空乃を恐怖から取り除きたかったのだよ」
「恐怖?」
空乃の父が恐怖、と告げた瞬間、空乃はテーブル席を飛び出してしまった。
「空乃さんっ」
「大丈夫だ。何の心配もいらない」
空乃を追いかけようとする風太を、空乃の父は引き止める。
「空乃がこの場にいなくなったから、ここで本当のことを言おう」
風太は息を飲む。行人は口を閉ざしたままだった。
……お待たせしました。ご注文の海老チリでございます。
店員が注文したメニューをテーブルの上に置く。
久しぶりに見た海老チリに、風太は食指が動きそうになる。
「空乃は小さい頃、飛行機事故に遭ったことがあるんだ」
「飛行機事故? 空乃さんに何か怪我でもあったんですか?」
思わず風太はテーブルに前のめりになりそうになる。
落ち着けよ、と行人は風太をなだめる。
「大丈夫だ。幸いにも、怪我はなかった。ただ……」
「……ただ? ただ、なんですか?」
「飛行機事故のせいで、飛行機に乗るのが怖くなってしまったんだ」
不意に、風太は空港内で手元が震え、指先が震えていた空乃の姿を思い出す。それだけでなく、空乃には落ち着きがなかった。普段物静かに読書している空乃とはどこか様子が違う。
……もしかしたら、飛行機の音や空港内の何気ない物音が怖かったのだろうか。
そう考えれば考えるほど、空乃の魅力に虜になり、何も考えられなかった自分を風太は呪いたくなる。
「そうだったんですね」
何も言えずにいた行人が口を開く。
「それなのに、どうして空乃さんを空港へ連れてきたんですか? 空乃さんは、そんなこと望んでないはずです」
風太はつい感情的になってしまう。
「君の目にはきっと、わたしが愚か者のように見えてしまうのかもしれん。だが」
息継ぎをするように、グラスの水を飲み、空乃の父は言った。
「あの子のために、わたしはあの子に頼みごとをしたんだ。あの子に、飛行機恐怖症を克服してもらうために」
「そんなの身勝手すぎますよっ」
再び風太は感情的になってしまう。
だから風太落ち着けよ、と風太は行人に言われてしまう。
「このままじゃ、あの子は本当に一生、飛行機に乗れなくなってしまう」
「飛行機に乗れなくても……生きていけますよ」
「……風太」
風太は行人になだめられる。
「だって可哀想じゃないですか。空乃さん頑張ってたけど、怖かったはずです。空乃さんのお父さんに頼まれたから頑張ったけど、怖かったと思います」
三人がこんなやりとりをしている中、寂しそうな足音がテーブル席に近づいていく。
「……お父さん」
非力な空乃の声が三人の耳に伝わる。
「風太くんの言う通り、怖かった。本当に怖かった。今すぐに、空港を抜け出したかった。だけど……」
続けて空乃は言った。
「良かった、と思ってる。きっとここにいる風太くんや行人さんのおかげで少し勇気が湧いてきた。そんな機会をくれたお父さんにも感謝してる。ありがとう」
空乃の声は少しずつ力強くなっていく。
その姿を見て、風太は思わず泣きそうになるのをグッと堪える。自分が泣いてどうするのだ、と。
「何お前泣いてるんだよ」
「泣いてませんよ」
「泣いてるだろ」
「泣いてません、って」
行人の指摘を風太は必死に否定した。
空乃の父親の出発時刻が近づき、風太たちは店の前で空乃の父親と別れることになった。
「それじゃ、しばらく家に戻らないけど、元気でな」
空乃の父は空乃の頭を撫でる。
「じゃあ、風太くん。後のことは頼みます」
「はい。……って、え?」
思わぬ空乃の父の発言に、風太は腰を抜かしそうになる。
「じゃあ、俺もそろそろ帰らないといけないから。気をつけて帰れよ」
にやつく行人に向かって、風太はムッとする。だが、否定できないこの瞬間が、風太は嬉しかった。
空乃の父や行人と空港で別れ、風太は空乃と二人きりになった。
「今日は本当にありがとう」
「いやいや、こちらこそ。頼りなくて、ごめん」
「ううん。そんなことない。風太くんのおかげで、今日は良いと思える日になった」
「本当に?」
風太の問いかけに空乃は頷く。
「お父さんの頼み事をしていた時、さっきも言ったけど、懐かしかったし、ちょっと楽しかったんだ」
「懐かしかったし、楽しかった?」
「もちろん、飛行機の音とか少し怖かったけど、でも飛行機事故が起きる前の空港での楽しい思い出がよみがえってきて、きっとお父さんはそれを私に思い出させたかったのかも」
「……空乃さん」
どこまでも父親想いの空乃に、風太は涙で感激しそうになる。
「小さい頃、空港でちょっと背伸びがしたくて、文房具をねだることもあったし、お姫様になりたくて、ガラスの靴でも履くみたいに、靴磨きをしてもらったり、舞踏会のダンスをお父さんと踊ったりもした」
「そうだったんですね」
感動がよみがえるとともに、風太は少し照れくさくなる。
「……でも」
「ん?」
「熊の人形はお父さんが本当に買いたかったみたい」
「ええ?」
風太は思わずずっこけそうになった。
「お父さん、熊の人形が好きみたいで、よく家に飾っているの」
「そ、そうなんですね」
決して、趣味を否定するわけではないものの、身勝手そうな空乃の父親のイメージが変わってしまう風太なのだった。