第五章 2 立ち込める暗雲
……天気が今日は悪いな。
暗雲が立ち込める空を見上げ、風太はそう感じる。天気予報によると、今日は大きな低気圧によって、雨風が強くなっていくと言われている。
そして今日は、芽衣が行人をデートに誘って、一週間が経ったデート当日だった。デート場所は空港内であり、遠くから風太たちは二人のデートを見守ることになっていた。
こんなことする必要があるのだろうか、と風太はふと思ってしまう。確かにこれまで、いくつかの誰かの頼み事をこなしたことはある。それでも、ただデートをしている二人を見守るだけというのは、果たして、と風太は考えてしまう。
結局、二人の問題なんだし、二人でどうにかしろ、と風太は言いたくなる。こんな風に曲がった考えをしてしまうのはたぶん、デートをしている二人が羨ましいのかもしれない、と風太は思う。
風太は他のメンバーとは群青空港で待ち合わせすることになっていた。
「あー、来た来た。遅いよー」
空港の前で、美奈子と友郎が退屈そうに待っていた。
「ごめん、ごめん」
「あれ、あの子は?」
美奈子が周囲を見渡し、風太は首を傾げる。
「空乃さんと一緒じゃないの?」
わざとらしく美奈子は風太に聞いてくる。
「一緒じゃないよ。空港にみんなで合流する、って約束じゃん」
「へえー、別に真面目に約束なんか守らなくてもいいのに」
翌日が訪れた。
先日の雨が嘘のように、空は晴れていた。
空の調子を体現するかのように、風太は普段通りに高校へ向かった。風太の中に憂鬱な気持ちはなかった。登校中、知っている誰かに会うわけでもなく、特別な出来事に遭遇するわけでもなく、風太は学校に辿り着いた。学校に到着すると、たまに忘れ物がないか、とか寝癖がないか、とか口元に歯磨き粉が付着していないか、とかとりとめのないことを風太は気にするが、今のところそれもない。
教室に入り、風太は自分の席にスクールバッグを置く。まるであらかじめ、マニュアルでも作成されていたかのように、颯爽と芽衣が風太に近づく。
「おはよう」
芽衣に挨拶され、風太はゆっくりと返事をした。
「おはよう。昨日はいろいろとあったね」
何か言いたそうにしていたものの、芽衣はさほど落ちこんでいないように、風太は見えた。
「あんな感じにはなってしまったけど、あまり落ちこまないように」
「うん。私なら、大丈夫。立ち直りは早いから」
精一杯の笑顔を、風太は芽衣に見せられる。
「それともう、他に気になっている人がいるんだ」
無邪気に芽衣に言われ、風太は思わずドキッとする。
「実を言うと、昨日の帰りに寄ったコンビニで、かっこいい店員さんがいて」
「はあ」
どういう反応をすればいいのか、風太はわからなくなる。まるで人間ではなく、恋するロボットでも相手にしているかのようだ。
「あ、ごめん。隣のクラスに用事があるから、また後で」
言いたいことを言い、芽衣は笑顔で教室を去っていく。
……いや、ロボットなんかじゃない。ちゃんとした一人の人間だ。
途方に暮れる風太にそっと、友郎が近づく。
「あいつ、飛んだ女だな」
風太は友郎をじっと見つめる。たまげた顔をしているけど、どこか嬉しそうだ。
友郎はどんな人と生涯を共にするのだろう。
ふと、風太は友郎の将来のことを考えた。テレビ番組とかで結婚をするたびに、この教室にいる何人かが数年後に結婚しているのかと思うと、人生は未知数のように思えてくる。仕事なんてきちんとできるようには思えないし、子供を育てるとか、親の介護をするとか、そんな難しいことを容易くできるようには思えない。ペットだって、飼ったことがないし、ペットですらまともに飼えるのかが危うい。
「そうなのかも」
風太は友郎に対し、反応を示した。
友郎はそれ以上の言葉を求めていなかったらしく、黙ってその場を過ぎ去った。
僕はいつも誰かの後ろ姿を見送る立場にいるのだな。
風太はしみじみ思った。
芽衣の本心は定かではないものの、風太はこれ以上芽衣に協力するのは、とりあえずやめておくことにした。
「約束は約束だからさ」
この頃、美奈子が必要以上にやっかみを入れてくる。
風太はそう感じる。
「約束したのはいいけど、なかなか来ないね」
「まあ、そのうち来るよ」
必死に風太は、まだいない空乃をフォローした。
「す、すみません。待たせてしまって……」
申し訳なさそうに、空乃が空港前に駆け寄ってくる。
「ううん。全然待ってないよ」
笑みをこぼし、風太は気にしていないフリをする。美奈子が隣で何か言いたそうにしているのを、抑えていた。
……というか、なんで一緒に来るんだ。
空乃の隣にいる、修夢を思わず風太は睨みたくなった。
「お二人とも、仲が良いのね」
嫌味っぽく、美奈子が空乃や修夢に向かって告げる。
「そんなことないです。美奈子さんや友郎さんのほうが、仲が良くて羨ましいです」
……他の女子が言うと嫌味に感じるのに、空乃さんが口にすると、全く嫌味に聞こえない。不思議。
どうでもいい心の声を漏らしながら、風太は空港の方へ目を向ける。
「とりあえず行こう。もう、二人は落ち合わせているかもしれないし」
焦るように風太が言う。
「もしかしたら、もうキスとかしているかもよ」
……キ、キス。
自分でも驚くぐらい、風太はいろんな言葉に敏感になっていた。
「それはないだろ、まだ」
「わからないでしょ、意外とやることやっているかもよ」
美奈子と友郎が言い合いをしている中、空乃や修夢はどこか身を引いているようだった。
……何だか帰りたい。これが空港にいる時の気持ちだと思いたくない。
風太は空乃と長くいた空港での思い出が汚されそうで嫌になる。
群青空港の中に入り、すぐに風太たちは行人と芽衣の姿を発見した。
「いた、いた」
美奈子が行人と芽衣のほうを指さす。
物陰に隠れ、風太たちは二人の様子を観察することにした。
「……今のところ、順調っぽいね」
行人と芽衣は笑みを浮かべ合い、話をしていた。話の内容までは、風太たちの耳には届かない。
「……どこで、待ち合わせたんだろう。本屋かな?」
「はあ? それは気まずいだろう。本屋で働いているのに」
「わからないかもよ。みんなに見せつけたい変態かもしれないし」
……おい。空乃さんの前で変な会話はやめろ。
風太は美奈子と友郎に白い目を向けた。
「あ、動き始めました」
三人のことなど眼中なしに、空乃は行人と芽衣の動向を必死に追っていた。
「……追いかけよう」
空乃の言葉だけに風太は耳を傾けることにした。
行人と芽衣は話を交わし合いながら、空港のエスカレーターへ乗っていく。
「どこに行くんだろう」
「もしかして、展望デッキとか」
「いえ、今日は天気が良くないので、展望デッキは無理だと思います」
エスカレーターに乗りながら、風太と空乃、修夢は話を進める。その後ろにいた、美奈子や友郎はどうでもいいクラスメイトの話をしていた。
「たぶん、お昼をレストランで食べるんだと思います」
空乃の考察は当たり、行人と芽衣は空港内のレストランへと入っていく。
「どうする? 僕たちもレストランの中に入るのか?」
「入るしかないだろう。二人の様子がわからないし」
迷ったものの、風太たちはレストランの中へ入ることにした。
二人にバレない程度の距離感を保つテーブル席に、風太たちは座る。
「はー、お腹空いた」
自分が追跡していることを忘れ、美奈子は本能に委ねるように、メニューを開く。
……確かに、お腹は空いた。
風太はメニューを開く。そして、空乃が隣に座っていることもあり、ドキドキするあまり、風太はメニューに顔を埋めたくなった。
「というか、あの二人、めっちゃ静か。本当に、デートする気あんの? ちょっと、話つけてこようかな」
……おい、やめてくれ。
風太が止める前に、友郎がやめとけ、と美奈子に告げるのだった。こういうところはよくわかってくれるから、助かる、と友郎に感謝したくなる。
「風太、俺に奢りたそうな顔をしているな」
「いや、してないぞ」
……いや、前言撤回。友郎、こいつもやはりダメだ。
風太は黙って頼むものを選ぶことにした。
頼むものを頼んだ後、五人は二人の席の方に視線を注いだ。
「なんか遠目からだと、上手く行っているのかわかりづらいな」
「大丈夫でしょ。よっぽど何かが起こらない限り」
お手拭きで両手を拭きながら、美奈子はつぶやく。
「行人さんの頭に小型カメラ付ければ、少しは違ったかもしれない」
「それだと、カメラ目線的に、恋愛シュミレーションゲームみたいで、気持ち悪いわ」
……なんだろう、この音は。
美奈子と友郎の会話よりも、風太は空港の窓を打ちつける雨の音が気になっていた。
「外、雨かなり降ってますね」
風太の心情を察したのか、小さく空乃がつぶやく。
「そうですね。これだと、しばらく外に出られなくなりますね」
「ふーん」
風太と空乃が会話をしていると、わざとらしく美奈子が声を漏らす。
「な、なんだよ」
「仲睦まじい感じでなにより」
美奈子が皮肉を言うと、風太以上に修夢がムッとしたような態度を取っていた。
頼んだメニューが風太たちのテーブルに運ばれ、風太たちは頼んだものを口に運び始めた。
「なんか客が増え始めたね」
「確かにな。昼時だからか」
「……たぶん、荒天のせいで便が欠航になったんだと思います」
「ふーん、詳しいんだね」
あまり美奈子も空乃も良い顔をしていなかった。
「そういえば、どうして二人は空港へよく行くようになったの?」
「え?」
思わず風太は声を外す。
「……そ、それは」
「きゃああああっ」
風太が応えようとした瞬間、レストラン内に女性の悲鳴が響き渡る。
「なんだ、なんだ?」
どうやら、テーブル席に座っている芽衣が悲鳴を上げているようだった。
「何があったんだろう」
芽衣のほうを五人はじっと見つめる。
「……ね、ねずみが床にいたの」
なーんだ、と風太は思ってしまう。
行人は悲鳴を上げた芽衣を気にかけるものの、どこか身を引いているようだった。
「まったく、何かと思った」
美奈子は呆れた顔をしていた。空乃は心配そうに芽衣のことを見ており、そんな空乃を見て、風太はなんだか安堵してしまう。
「私、何となく勘づいてきた」
いきなり美奈子は目を光らす。
「な、なにが?」
風太は美奈子の様子に動揺する。
「あの子と行人って人、上手くいかないような気がする」
……そ、そうなのか。
自分がずっと空乃の事を追いかけていたことがバレたのかと思い、風太はホッとした。
ただ、勘の良さそうな美奈子だけでなく、なんとなく風太も行人と芽衣は上手くいかないような気がした。
レストランを出て、風太は空港内が騒がしいことに気づく。
「……どうかしたんですか?」
たまたま空港内を忙しく歩いている柴田に、風太は問いかける。
「飛行機の欠航や遅延で、バタバタしているの。それだけじゃなくて、刃物を持った男が空港内にいるみたいで……」
えええ……。
柴田から事情を聞き、風太は唖然とする。自己防衛とともに、空乃を何としてでも守らなければ、という精神が風太に生まれる。
「え、それヤバくない」
さすがの美奈子も口を両手で覆い、動揺しているようだった。風太たちもそれは同じようだった。
「ちょっとそこの二人」
……え、美奈子。おまえは何をやっているんだ。
「緊急事態みたいだから、デートは中止した方が良いっぽいよ」
デート中である行人と芽衣に、美奈子は話しかける。
「ああ、そうみたいだな」
美奈子をうざそうに、行人は見た。
芽衣は不安を表情に出していた。
「……行人さん」
「なんだ?」
「大丈夫ですかね。外は大雨で、変な人が刃物を振り回しているみたいだし」
……まるで新本格ミステリーのクローズドサークルが作られた場面のようだ。
風太はどうでもいいことを感じるのだった。
芽衣は行人の身体に触れる。
……うわあー、あざといな。
芽衣の姿を見て、そう感じるのだった。
ひとまず、風太たちは空港内の書店へ避難することにした。
「大丈夫なんですか」
「何がだ?」
書店の中で、風太は行人に問いかけた。
「デートの途中でこんなところ来たら、噂されますよ」
行人は目を逸らした。
「別に平気だ。それにもうされているかもな」
「え?」
「空港は広いようで、狭い。世間と同じようにな」
行人は振り返り、風太に言った。
「そのうち、雨もやむし、不審者も捕まる。何も心配はいらない」
そうですね、と風太は返事をした。
「それにお前はもっと、気にすべきことが他にあるんじゃないのか」
「え?」
行人の視線の先には、空乃がいた。
雨が止むのを待ちながら、風太は書店の中で空乃を安心させるようと、話しかけることにした。
「ねえ、空乃さん」
「どうしたの、風太くん」
どこか空乃は不安そうだった。
「もし、空を飛べたら、どこへ行きたい?」
「……綺麗な景色が観たい、かな」
「え?」
空乃の表情は不安から希望の色へと変化を見せていく。
「ごめんね、気の利いたことが言えなくて」
「ううん、そんなことない」
風太は大きく首を横に振った。
目の前の書棚に並んでいた旅行ガイドブックを、風太は手に取った。
「いつか、行きたいね」
「ん?」
「やっぱりなんでもない……です」
窓に屋根、地面、あらゆるものを打ちつけた雨粒が止んだ。
あれはまさしくゲリラ豪雨だ。あの情景と名称が正しく一致するのかは定かではないけれど、僕にとっては、いろんな意味を含めてゲリラ豪雨だった。
風太は先ほどの一連の流れを思い出す。……まさか人生の中で、刃物を持った人に出くわすことがあるなんて。衝撃の出来事自体にも驚いたし、狼狽している自分にも風太は驚いた。よくテレビやネットで凶器を持った人が出てきて、逃げられない人に対し、早く逃げて、と非難することがあったのだけれど、当事者になってみて、風太は気づいた。逃げられないのだ、と。
「……ようやく、雨が止んだようだな」
空港の窓に映る景色を見つめ、行人はつぶやく。ひどく落ち着いているように風太の目から感じ取れた。
空港ではこのようなショッキングなことが日常茶飯事なのだろうか。だとすると、心臓がいくつあっても、足りないように感じる。
風太はあれこれ想像し始めた。
もしも、空乃さんに万が一のことがあったのなら――。
例えば、僕が生命を絶たれることになり、空乃さんが取り残される世界線があったのならば――。
想像すればするだけ、身の毛がよだつ。
風太は行人に声をかけようか迷っていた。あんなことがあったのだけれど、行人はまだデートの途中だ。もはやデートの邪魔をしたところで、誰かにあれこれ言うことはないのかもしれないけれど、それでもデートの途中で口を挟めない。
行人の手元を風太はじっと見つめる。
行人の手は酷く震えていた。いつも血管を浮き立たせながら、書籍を運ぶあの手が震えるさまを見て、風太の手が思わず震えた。すでに、震えていたと言ってもいい。
刃物を振り回していた男は、警備員によって確保されたらしく、空港内の怪しい雲行きはどこか遠くへ去ってしまった。
行人の隣にいた芽衣は何か言いたそうにしていた。
言うなら、言え。言ってしまうんだ。
風太の心の眼差しが芽衣に向けられた。
「あの、行人さん」
行人はゆっくりと芽衣のほうへ視線を移す。
芽衣は俯きながら、行人に告げる。
「今このタイミングで言うのは、ダメだとわかっているんですけど……行人さんに言いたいことがあります」
行人は頭をかきながら、もどかしい気持ちを自分で消化しようとしていた。
「なんだ? 言ってくれ」
芽衣は唇を噛み締めていた。赤いリップの色もすっかりと抜け落ちてしまっていた。
「……私」
「うん」
行人は慎重に頷く。
あのような出来事が起きたのだから、どんな言葉が飛びかかってきても、臆することはないのだろう。
風太は行人を見て、悟った。
「行人さんのことが好きなんですっ……だからその、付き合ってくれませんか」
しばらく二人の間には、沈黙が流れる。
行人も芽衣も下を向いていた。下を向いたところで、何も拾い上げることができないことくらい、二人はわかっているように、風太の目から感じ取れる。
「芽衣ちゃん」
「……はい」
行人は空港の窓に映る景色を見つめる。
「その気持ちには応えられないんだ。ごめん」
そう行人に言われた瞬間、芽衣の目には涙が浮かんでいく。
「……そ、そうなんですか。そ、そうですよね……ごめんなさい」
涙を自分の手で拭いながら、芽衣はつぶやく。
「いや、気持ちは嬉しかったよ。ありがとね」
二人のやりとりを遠くから、風太たちは見守った。