「書籍化できますように」と短冊に書いた翌日、私の小説が全国の書店に並んでいました
私も子供ではありませんから、当然この厚顔無恥な願いが叶うと本気で信じていた訳ではないのです。満ち足りた日々を送っている人が、なんとなく「世界平和」と書くのと大差ありません。
一人暮らしの狭いアパートの一室にわざわざ笹飾りを用意するのは気が進みませんでしたし、かといって商店街に自分の欲望を晒すのも憚られたので、ベランダにあるサボテンに原稿用紙の切れ端で作った短冊を手縫い糸で吊るしました。後から考えると、この七夕に真っ向から喧嘩を売るような無礼極まりない所業が、牽牛織女様の怒りを買ったのかもしれません。
翌朝、寝ぼけまなこでテレビを点けた私は度肝を抜かれました。どのチャンネルでも番組を急遽変更して緊急放送が流れています。真剣な表情と声でアナウンサーが告げているのは、全国のありとあらゆる書店に得体の知れない本が数冊ずつ陳列されているというニュース。
画面に拡大された真っ白な表紙には作者名すらなく、激しく見覚えのあるタイトルだけが並んだシンプルなデザイン。そう、私の執筆した小説が、たった一晩で数万冊の書籍となり、日本各地の本屋の店頭に並べられてしまったのです。
勿論、夢でないことは頬が赤く腫れ上がるまで念入りに確認しました。そして紛れもない現実だと認めるしかなくなった私は、足元の床が突如として消え去ってしまったような、今まで味わったことのない底知れぬ恐怖に襲われました。それから最初に取った行動は、元凶である原稿用紙の束を全て跡形もなく燃やして灰にしてしまうことでした。
法律には詳しくありませんが、この大騒動を巻き起こした犯人として検挙された場合、ひょっとすると塀の中で暮らさなければならなくなるのではないかと不安になったのです。幸いなことに生まれつき小心者である私は、この小説をネットに投稿することも、コンテストに応募することも、そもそも他人に読ませることすらも一切していませんでした。
作品の中にも作者を特定するような記述がない以上、この唯一の証拠さえ廃棄してしまえば私に繋がる手掛かりはないはずです。勿論おそらく真犯人である織姫様と彦星様が痕跡を残していないことが大前提ですが。
長年にわたって心血を注いで紡いできた小説が、片や全国で冊子となり、片や目の前で灰になるという非現実的な状況に、泣くべきか笑うべきかの判断もつかず、抗議するようにパチパチと音を立てる燃えカスを、私はただじっと静かに見つめていました。
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あれから数週間経っても捜査に進展はないようです。巷では事件の異常性から救世主の預言書だとか、他国が発明した洗脳教材だとか、様々な憶測が飛び交っています。内容そのものについてほとんど触れられないことが、そして珍しく触れられたとしても聞くに堪えない酷評ばかりだという残酷な事実が、自業自得とはいえ私を深く傷つけました。
一時はこのまま筆を折ってしまおうかとも考えましたが、散々悩み抜いた挙句、結局再び性懲りもなく物語を書き始めることにしました。来年の七夕には、小さな笹飾りでもネットで注文して、短冊にはこう綴ろうと思っています。
「これからもずっと元気に小説を書き続けられますように」