名前も知らない隣人の女の子が、煙草のにおいを嗅ぎにくる。
※本作品に喫煙を推奨するような意図はありません。
――はぁ。ようやく、終わった……。
動き始めるプログラムを見ながら、俺は研究が一段落したことを実感する。
あくびを漏らしつつ、時計を見ればもう午前二時。
ほとんどの人は寝静まっている時間だ。
夜はしんと静まり返って、一切の雑音を許さないように思える。
俺だって、さすがにこんな時間まで起きていることは少ない。……ただ少しだけ、研究が長引いてしまったのだ。明日は学校に行かなければならないし、やることも山積みだ。
「さて……、どうしたもんかな」
そう独り言ちながらも、俺は迷わず机の上にあった煙草を手に取る。
コンビニで売っている、どこにでもある普通の煙草。
気持ちを切り替えたいときや、何かの区切りの際に、俺は煙草を吸う。
ベランダから外に出て、冷たい春の夜風を全身に浴びて。
肺の空気を入れ替えるように深呼吸。
箱から最後の一本揺すり出し、
――そして、火をつけた。
「…………ふぅ」
煙草の先から灰色の煙が立ち上る。
鼻をつんと突くような、におい。
風が無いからだろうか。煙はまっすぐと上に立ち上っていって、やがて消えていく。
まるで一本の糸みたいに、細く長い形を保っていた。
煙草を手元で小さく動かすと、動きに任せて煙も規則的に揺れている。
――こうも風が無いと、今日は来ないだろうな。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
ため息をこぼすように煙を吐き出すと、煙は無秩序に暴れるかのように広がって消えていく。
何か期待のような感情に押し寄せられて、視線を隣の方に移すと。
ベランダ隔て越しに、僅かな明かりが漏れていた。
――邪念だな、これは。
そう思ってしまうと、なんだか自分が悪いことをしているかのような気がしてならない。なんだか胸が締め付けられるような感じがしてしまう。きっとこれは良くない。……早くこいつを吸ってしまおう。
再び煙草を咥えて、勢いよく煙を吸い込んだ。
喉を突き抜け、肺の中でそれは荒ぶるように蠢く。
結果、反射的に俺は咳き込んでしまって。
「……っ! ごほぁっ、ごっ」
まるで初めて煙草を吸った日のような振舞。我ながらアホである。一人で何やってるんだって話だ。自分の行為に自分で顰蹙しながら、煙草の先にできた灰の柱をトンと灰皿に落とす。
――と、そのとき。
ぎしっと建付けの悪い網戸を開くような音がした。
「あははー、何やってるの?」
不意を突かれたようなタイミングだった。その声はやけに透き通っていて、どこか心地い声で、なんだか元気をもらえるような明るい声でもあって。
声の主である彼女の姿は見えない。たが彼女が誰なのか声ですぐに分かる。
パーテーション越しの『お隣さん』だ。
「こんな夜遅くにタバコ吸ってるの?」
「……おう」
「えぇー。健康に悪いよ? 夜更かしもタバコもメッ、だよ?」
「メッ、て……。お前な……」
相変わらずの調子に、俺は呆れた声を漏らす。
おどけた声で窘める彼女の名前を、俺は知らない。
確か表札のプレートに『洲原』と書かれていたから、名字は『洲原』なんだと思う。
だが、俺は彼女のことを名字で呼んだことはないし、彼女も俺のことを名字で呼んだことはない。
分かっているのは、互いに同じ大学に通っている先輩後輩だということだけだった。この一年間で得られたプライベートな情報はその程度だ。
一年前に彼女がこのアパートに引っ越してきてから、俺たちはたまにベランダでこうして他愛もない話を繰り広げている。きっかけが何だったか……、あぁ、なんだったかな……。今となっては思い出せない。
だが、彼女の目的ははっきりしていて、ベランダにやってくるたび、こう言うのだ。
「――今日もタバコのにおい、嗅ぎに来たよ」
正直、その行為の意味するところは不明だ。単に煙草のにおいが好きなのか、それとも俺をからかっているだけなのか、よく分からない。
もちろん最初は不審に思った。普通に考えて彼女の意図は訝るべきものだろう。
しかし俺が煙草を吸いにベランダへ出るたび、彼女は決まってベランダへやってくるだけだった。そして下らない話に花を咲かせ、俺が煙草を吸い終えるのと同時に二人して部屋に戻っていく……。早い話、俺たち二人の関係というのは、ただそれだけなのだ。
会話の相手はいないよりいた方がいい。そう思ってずるずると彼女の同席を俺はこの一年で許してしまっていた。
「煙草のにおいを嗅ぎに来た、ねぇ……」
煙草を燻らせながら呟く。特段良いにおいとは思えないのだが……。むしろ煙草のにおいは女子から毛嫌いされるものだと言われる。
「ところで、こんな時間まで何してたの?」
「……研究してた」
「研究? 研究って、あの研究?」
「あの研究って……。どの研究だよ。いや俺、今年から大学院生だからな。授業もあるけど、基本は研究しに大学通ってるんだよ」
そう説明すると、『ふーん』と鼻を鳴らしたような声が聞こえた。
「家でも研究してるの?」
「そうだよ」
「へぇー……。大変なんだね?」
「まぁ、そうかもな」
「――へへっ。おつかれさま」
彼女の優しい声かけに、思わず俺は息を詰まらせる。
「……っ!」
なんだよ、今の……。
冷たい夜風に急かされて、俺は次の言葉を探した。
「……今日は珍しく、俺のこと労わってくれるんだな」
「えー、違うよー? こんな夜遅くにタバコ吸われたら、私も夜更かししないといけないからさー」
「なんだよそれ……」
前言撤回。別に俺に優しくしてくれたわけではないみたいだった。
今日もこれだ。彼女のおどけた口調に、俺は翻弄されるばかりだ。ひらりひらりと彼女は俺の言葉を躱してしまうかのようだった。
「ほら? 私も夜更かしはさすがに辛いし」
「……じゃあ煙草のにおいを嗅ぎに来るの、やめればいいだろ」
「えー」
俺の提案に不満そうな声を漏らす彼女。「それはちょっとナシかなー」とか言いながら小さな笑い声を漏らしていた。
煙草のにおい……、そんなにいいものだろうか。
クサいにおいの代名詞というか、俺だって別に良いにおいだとは思わない。喫煙者が何言ってんだって話だが。
まあ、こんなに毎回わざわざベランダに出て俺と話すということは、彼女の言う通り、本当に煙草のにおいが好きだという可能性も否定はできない。
「煙草のにおい、好きなんだな」
ポツリとつぶやくように、そう口にした。
そういえば聞いたことはなかったかもしれない。彼女がどんなにおいが好きだとか、どんな経緯で煙草のにおいを好きになったとか、そういう話を。
煙草の先で長々と形を保っていた灰が、ついに我慢できなくなったかのように、スッと灰皿に落ちていった。
「ううん、それはない……かな?」
「――え?」
彼女の返答に、声が漏れた。驚いた拍子に煙草を灰皿の中に落としてしまう。
「別に、においはそんなに好きじゃないかな? むしろ臭いし」
「……あれ、え、お前、煙草のにおい好きなんじゃ――」
「そんなこと、一言も言ってないけど……?」
俺の驚いた声に、彼女の声が重なった。
あれ、そうだったっか……? てっきり彼女はこのにおいが好きで、毎回ベランダにやってきているんだと思っていたのだが……。
思わぬ彼女の発言に戸惑う。
だって。だってじゃあ彼女は――
彼女はなぜ――
「――先輩?」
「……うおっ?」
視界の端。パーテーションから顔を出すように、彼女は顔をのぞかせていた。
その大きな瞳はまっすぐに俺の視線とぶつかる。
短い茶髪が風に任せて揺れた。
「明日、何時から学校行くの?」
「……え、あ、明日? 明日は……九時、くらいかな?」
「そっか。じゃあ明日は一緒に登校しようよ。今日はもう眠いし、続きの話は明日の朝にするってことで」
「あ、ああ……。そうだな……」
「――へへっ。約束だよ?」
小さくはにかむ彼女。
そのまま彼女はパーテーションの奥に顔を引っ込めると、何も言わずに部屋の中へと戻っていった。
ベランダに残された俺は、しばらく隣の部屋の方を見つめるばかりで。
ふと我に返って灰皿を見ると、もうほとんど煙草は燃え尽きていた。
まだ春の夜は寒い。肩を落とし、肺の空気全部を吐き出すような息を漏らしてみると、煙みたいに吐息が白く煙ってゆらゆらと揺れていた。
なんだか、これって……。
「――煙草、明日の帰りにでも買うか……」
そう呟いた次の瞬間、体の芯まで冷え切っていることに気付く。
ぶるっと震える身体。うわっ、寒っ……。今日はもう早く布団に入った方がいいな、これ。
「よくこんな寒い中タバコ吸えたな、俺……」
先刻まで微塵も感じていなかった寒さに驚きつつも、網戸を開けて部屋に戻る。
――明日の朝、か。
明日、俺はどんな他愛もない話をすればいいだろうか。
煙草を吸う僅か数分。今までその数分にできた話といえば、本当に他愛もない話ばかりだった。
たとえば……、そうだな。
――彼女の下の名前。
ああ、そうだな。
それくらいなら、聞いてもいいだろう。
気分転換で書いてみました。
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