二十話目 足りないのは勇気
ざわめきと人が溢れる廊下で、時折さっきの告白を見ていた人に、祝われたり、からかわれたりしながら、私と祐太郎先輩は文化祭の展示を見て回っていた。
「交際宣言とか、ダサ」
廊下ですれ違った声に、ドキリとする。きっと聞こえたんだろう祐太郎先輩が、ぎゅっと手を強く握ってくれる。立ち止まって振り向くと、私服姿の高市先輩と根津君が私を見ていた。
「何……」
体を前に出した祐太郎先輩の手を引っ張る。振り向いた祐太郎先輩に、私は首を横にふった。
祐太郎先輩がぎゅっと手を握って隣にいてくれる。もうそれだけで、私には十分な気がした。それに、祐太郎先輩だけじゃなくて、私には新しい友達がいる。私のことをきちんと心配してくれる友達がいる。
私もそろそろ、この呪縛を解いてしまいたかったのだ。中学時代には何もできなかったけど、今ならできる気がするから。
二人を前にして、大丈夫だって言い切れるわけじゃない。だけど、私も守られてるだけじゃダメだって思った。そうしないと、いつまでたっても私は高市先輩とのことを乗り越えられないままだって、そう思ったから。
「こんにちは、高市先輩。わざわざうちの高校の文化祭に来てくださるとは思いませんでした。文化祭は楽しめましたか?」
最初の声は震えたけど、最後の声は何とか落ち着いた。
「楽しめたか? 全然、つまんない。うちらの高校の文化祭の方が、よっぽど面白いし。ねえ?」
高市先輩が、根津君を見る。根津君も頷く。
「全然面白くもなんともない」
残念な人たちだな、って思う。きっと私を傷つけるためだけに、ここに来たんだろうって思ったから。
「あの、今からこれ録音させてもらいますね」
私は保険をかけるために、録音することにする。一応本人たちには宣言したから、多少は証拠能力はあるだろう。
「は? 何言ってるの?」
「いえ、お気になさらず」
私はポケットのスマホをいじると、高市先輩と根津君を見る。
「つまらないなら、帰ったらどうですか?」
高市先輩と根津君は途端にムッとした表情になった。私にこんなことを言われるとか思ってもみなかったんだろう。
「……って言うか、北原ちゃんの彼氏、ダサくない?」
クスクスクスと笑う高市先輩が、根津君をつついて、根津君も馬鹿にしたように笑っている。私が動じないのを見て、攻撃先を変えてみたらしい。あの時、副部長に言い負かされたのを忘れてしまったんだろうか。
動こうとした副部長に、私は小さく首を横に振った。
……どう考えても、副部長のご尊顔を見たら馬鹿にしたこと後悔するだろうけど。副部長がこういう格好をしているのは理由があるからで、それをこんなことのために顔を出させたりするつもりはない。
「それが、どうかしましたか」
私がしれっと問いかけると、はあ?! と明らかに高市先輩はいきり立った。そうだ、怒ればいい。ずっと馬鹿にして下に見ていた私が、あなたの言葉に動じないで言い返すことに、思う存分怒ればいい。
「北原の癖に人のこと馬鹿にするわけ? ねえ、そこのダサ彼氏さん知ってる? この子、中学の時三年間ずーっといじめられてたの。まあ、みんな手を出すのも嫌だったから、無視してたわけ。ずーっと無視されてたの! 笑えるでしょ」
こんな感情的な、人を馬鹿にするだけの人に、私は自分の当たり前の世界を崩されてしまった。
あの時は辛くて辛くて、この世の終わりだと思った。
だけど、あのことがなければ、今副部長の隣に立っていなかったんだと思うから、人生って不思議なものだと思う。
あのことがなければ、私は自分に恋愛が難しいって言葉に反発することもなくて、小説を書いてみようとも思わなくて、文芸部に入ろうとも思わなかった。
あのことがなければ私は自分を守るために今通ってる学校に行くためにと勉強を熱心にすることもなかっただろう。
でも、あのことは私が見る世界が変わっただけのことなのだ。決してあなたには感謝はしない。
「それがどうかしたんですか? 高市先輩」
「はぁ? 私が話しかけてるのは北原のダサ彼氏でしょ」
「そうだろ、お前……昔は麻里の言うこと素直に聞いてたくせに、何言い返してるんだよ」
見兼ねたらしい根津君が高市先輩の加勢をする。
「言い返したらいけない法律とかあるんですっけ」
「はあ?! 何言ってるわけ、北原! 人のこと馬鹿にするのもいい加減にしなよ! ああ、いいこと思いついた。この二人の写真、SNSで晒そうか。同じ中学出身の子らが面白がるよ」
そう言って高市先輩が私たちにスマホを向けて来た。本当にこういうことには知恵が回るみたいだ。昔と同じ。
「晒して馬鹿にするつもりですか」
「当たり前でしょ」
クスリと笑って高市先輩が写真をパシャリと取る。
「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する、って刑事罰があるのご存知ですか」
「は?」
私が使った言葉が頭にきちんと入らなかったのか、高市先輩が眉を顰める。
「何言ってんだよ、北原」
根津君が立ち上がり私に手を伸ばす。その瞬間を副部長がパシャリと写真に取る。
「名誉棄損の上に暴行罪か」
副部長がしれっとスマホを揺らす。
「は?」
根津君の伸びた手が副部長のスマホに延びる。
「この音声は録音してるし、事前に録音しますね、って宣言してるから、裁判でも証拠能力はあるんですよ」
私の忠告に、高市先輩と根津君が目を見開いて顔を見合わせた。
「な、何言ってるのよ、北原……ちゃん。私たち、仲良かったよね」
どうやら分が悪そうだと悟ったらしい高市先輩が、慌てて取り繕う。
「じゃ、さっき取った写真、俺に消させて」
「消す! 消すから」
「さっきまで人を馬鹿にしてた人間の言うことは信用できないから、俺の手で消させて。でないと、名誉棄損で訴えたくなるよね。人の見た目、散々バカにされたんだし」
渋々スマホを差し出した高市先輩に、副部長は画面をタップして画像を消したみたいだった。
「はい」
差し出されたスマホを奪うように慌てて受け取った高市先輩が、逃げるように離れて行く。それを根津君が追いかけて行く。
私はスマホの録音機能を止めて、副部長を見る。
「最後のは言いすぎですよ? あれじゃ、脅迫になりそうですけど」
「そうか」
副部長が肩をすくめる。悪いことをしたつもりはないらしい。
「まあ、実際に証拠として使うつもりはないんで別にいいですけどね」
できたらもう二度とあんな陰湿なことやらないでいて欲しいけど。被害者が増えて欲しくない、それだけだ。
「頑張ったな、由以子」
よしよしとでもするように頭を撫でてくる副部長に、私はいつかみたいに涙が滲んできた。
*
人気の少なくなった校舎の中は、夕焼けに染まっていた。私は黙々と文化祭の片づけをすすめていた。文芸部の冊子は、結局一冊も売れなかった。顔を出した人は何人かいたけど、冊子を買ってくれる人はいなそうだから、もう早めに撤去しようって話になって、既に片付けモードになっている。
この後には後夜祭がある。勿論、祐太郎先輩と過ごすことになっていて、私は呪縛を解いたこともあって、気持ちが晴れていた。
「何で、あんたなの」
現れたのは、菊地先輩だった。祐太郎先輩が、沢山残っている冊子を部室に運びに行ったところで、今この教室には私しかいなかった。
祐太郎先輩が宣言してくれたけど、きっと菊地先輩とは近いうちに対決することになるんだろうな、って思ってたから、それが今日の今日だったことに、驚いていた。それに、既に一つ戦ったのもあって、今日は避けて欲しかった、というのも本音だった。
でも、結局いずれ対決しなきゃいけないのだ。
私は片付けの手を止めて、教室に入って来た菊地先輩に向き合う。
「それは、わかりません」
どうして祐太郎先輩が私を選んでくれたのか、菊地先輩を選ばなかったのか、それは私にわかるわけがない。わかるのは、祐太郎先輩ただ一人だ。
「何? バカにしてるの?!」
カッとした菊地先輩が、私を睨む。私はゆっくり首を横にふった。
「バカにしてるわけじゃないです。ただ、それが分かるのは祐太郎先輩だけで、私が決めたことじゃないってことです」
「バカにしてるじゃない! 私が畑下に選ばれなかったって言いたいんでしょ!」
菊地先輩は感情的になり過ぎて、冷静に考えきれないんだろうと思う。
「でも、もし私が祐太郎先輩だったら、菊地先輩を選ばなかった理由が一つあります」
「何? 偉そうに!」
菊地先輩に届くかは分からなかった。でも、気付いて欲しいと思う。
「菊地先輩は、自分の感情ばかり押し付けているように見えました。祐太郎先輩が嫌がっているのを見ようともしていなかった。自分のことしか考えてないみたいに見えました。それは、好きな人じゃなくても、友達でも、一緒にいるのは楽しいと思えないと思います」
菊地先輩の顔が赤くなる。それは、怒りというよりも、羞恥という感じがした。
「あんたに何がわかるわけ?!」
菊地先輩は、教室を走って出て行く。その後ろ姿に、ホッと息をついた。全部じゃないかもしれないけど、言葉が届いた気がしたから。
力が抜けて、私はぺたりと座り込む。本当に、心からドッと疲れた。
「どうした疲れたのか?」
顔を出した祐太郎先輩は、菊地先輩とは遭遇しなかったらしい。その声は、いつもの声だったから。
私はコクリと頷いた。
「なかった勇気を出すって、疲れます」
「なかったって……」
苦笑する祐太郎先輩が、私の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「由以子の勇気は、元々由以子が持ってたものだよ。ただ、ずっと見えてなかっただけだって」
「そう、ですかね?」
祐太郎先輩を見上げると、祐太郎先輩は闇が降りて来た空を指さす。
「あそこに見える星だって、ずっと輝いているはずなのに、太陽の光が強すぎて見えなかっただけだろ。それと同じだよ」
「……祐太郎先輩、詩人みたいですね」
「うっさいな。自分でもクサいこと言ったってわかってるから!」
ムッとする祐太郎先輩に、私はクスリと笑う。
「でも、祐太郎先輩がいなければ、私の勇気は出てきてくれなかったと思うんで、感謝してます」
「おう、思う存分感謝しろ」
祐太郎先輩と夜空に浮かぶ星を見つめる。
足りなかったのは勇気、じゃなくて、勇気を出す覚悟だったのかもしれない。