一話目 足りないのは何ですか?
部室棟のある外廊下は、昼間の暑さを和らげる涼しい風が吹いていた。まだ五月だというのに、昼間はもう夏日が続いている。
トントン、とドアを叩くと、室内から「はい」と小さな声がした。
ドアを開くと、シンと静まり返ってどことなくひんやりとした文芸部の部室には、いつもと同様、副部長がいた。そして、実質の部員は私と副部長の二人だけで、部長からして幽霊部員というこの文芸部の部室には、当たり前だけど私と副部長しかいない。
「こんにちは」
「こん……にちは」
副部長はちらっと顔を上げると、すぐに手元の本に視線を下げた。部室の中には、外から時折吹き込んでくる風の音と、ぱさり、と一定のタイミングでめくられる紙の音だけがしている。
私は鞄を床に置いて、いつもの席に座った。
昼間でもいつも薄暗い部室を、蛍光灯が照らしている。十人もいればぎゅうぎゅうになりそうな部屋の中には、まだ稼働していない古めかしい扇風機、六人用くらいの少々黄ばんだ白いテーブルと、折りたたみの椅子が三脚開いておいてあって、残り二脚が壁に立てかけてある。そして、ドア側の壁に腰くらいの高さの本棚が置いてあって、そこにはたくさんの古めかしい文庫本が置いてあった。私がいつも座るのは本棚がある方で、副部長の定位置はその向かい側だ。
もうすぐ六月になろうというのに、週に一回の文芸部の活動は、文章を書く、ではなくて、本を読む、という活動だった。
そもそも私が文芸部に興味を持ったのは、実は小説を書いていたからだった。中学二年から書き続けている小説があって、それを、この文芸部で続きを書こうと思っていた。でも、初日持ってきた小説は、机の上に出せなかった。副部長が書く様子を見せなかったからだ。そして、その次の時も、その次の時も、副部長は書く様子を見せなかった。
最初は、戸惑いつつも従っていたわけだけど、やっぱりおかしいんじゃないかって副部長に言ったのは、前回の時。
そしたら、副部長は言った「じゃあ……作品……持ってきたら? ……何なら……読むよ?」って。
そして、私は勇気を振り絞って今日持ってきたわけなんだけど、この様子じゃ副部長は完全に忘れているのかもしれない。
「北……原さん」
「はい!」
勢いよく顔を上げたら、副部長は読んでいた本を私に差し出していた。
「これ……戻して、下巻……取って……くれる?」
言われるまま本を受け取る。副部長と指先が触れたけど、いつかのように瞬間的に手を引っ込められることはなかった。どうやらいつの間にか、私は触れてはいけないものよりはランクが上がっていたらしい。
「ありがとう」
「いえ」
そう言いながら、下巻を取ろうとしてハッとする。違う!
「副部長! 私の書いた小説読んでくれるって言ってましたよね?!」
「……言った……けど、北……原さ……ん、出して……こない……から」
副部長は、先週のやり取りを忘れてはいなかったらしいけど、私が言い出さなかったのが悪いらしい。
「持ってきたので、読んでください」
コクリと頷く副部長に、私はノートに書き溜めていた小説を取り出した。
自分が書いたものを、人に読んでもらうのは初めてだった。副部長が眼鏡を上げる動作をするたびに、ページをめくるたびに、その一挙一動に、息を飲んでいた。
心地よい風が通り抜けて、力が入り切った体に気付いて、はぁ、と力を抜いた。緊張しすぎていたみたいだ。
一定のペースでページをめくる手を見ながら、長い指だな、とか、大きな手だな、とか、副部長も男の人なんだな、とか思って、ハッとする。少なくとも今の今まで、副部長を異性として意識したことなんてなくて、自分でもびっくりする。
そもそも副部長は、自ら恋愛を諦めているような人だ。
目を隠すぼさぼさの髪、聞こえるか聞こえないかの大きさでボソボソとしゃべる話し方、コミュニケーションを取るつもりがほとんどなさそうな態度。どう見たって、モテそうにもないし、本人も恋愛ごとに関心はなさそう。
勿論、副部長は、そんな悪い人ではないと分かっている。ボソボソとしゃべるのは聞き取りにくいし、滅多に話しかけても来ないし、私を触れちゃいけないもののように扱った過去はあるけれど、本を渡せばきちんとお礼を言ってくれるし、ニコリともしない代わりに、明らかに嫌な顔も見せなかったし、それに、いじめっ子から女の子を助けたりもするわけだし。
そのニュートラルな感じが、嫌だと感じなかったから、私は律儀に部活に顔を出しているのもあった。
勿論、副部長の本心がどうなのかなんて、私には分からない。最初は慣れないのもあって、部室にいると居心地の悪さを感じていた。だけど、最近はここにいても、気まずい感じがなくなって、私がいてもいい場所なのかな、と思い始めていた。
学校で安心できる場所があるなんて経験が久しぶりだったから、変なことを考えちゃったのかもしれなかった。
バサリ。ノートがテーブルに置かれて、私は我に返る。
「ど、どうですか?」
「……これ……恋愛小説……なの?」
その問いかけに、私はムッとする。
「副部長、これが恋愛小説に読めなかったら、何が書いてあるって言うんですか?!」
私は間違いなく恋愛小説を書いたはずで、そもそもの前提で疑問を呈されるような内容ではないと思うのだ。
「作……文?」
「私は間違いなく、小説を書きました!」
確かに中学生の書いた拙い内容かもしれないけど、私は一生懸命小説として書いてきた。それを全部否定された気がして、私は強く言い返した。
「ヒロインの……気持ちの動きが……理解できない」
グサリ。間違いなく私の心にナイフが刺さった。一番頑張って書いたヒロインの気持ちを、全否定されてショックだった。だけど、私はショックと同時に怒りも感じていた。
「副部長、お言葉ですけど、副部長は男子で、女子の気持ちなんてそもそも理解できないんじゃないですか?」
私の精一杯の反論だった。副部長は首を横にふる。
「男子とか……女子とか……関係ない。恋愛感情を……抱くのが……唐突過ぎる。何で……好きになったのかが……分からない」
グッと言葉に詰まる。
「それは! 行間を読んでください!」
はぁ、と副部長が大きなため息をついた。
「読むべき行間が……見つからない」
救いようのない返答に、私は何とか言い訳を考える。
「見つけられない副部長が、読解能力低すぎるんじゃないですか?」
我ながら良い返しが出来た、と悦に入ったのは、一瞬だった。
「じゃあ言わせてもらうけど、そもそも、これものすごく読み辛い。文章能力が低い。最後まで読んだ俺を褒めて欲しいぐらいなんだけど」
はっきりとした声で、副部長が言い切った。
グサリ、と心にナイフが刺さる。文章能力が低いなんて、国語の先生に言われたことのない内容だった。むしろ文章能力が高いって、褒められるくらいだったのに。
「そ、それは……副部長が好きな文体じゃないってだけで……」
「これ、本当に誰かに読ませようと思って書いたか? 完全に独りよがりで、自分が読むのには困らないだろうけど、人に読ませるようなものになってない」
グサリ。また一本ナイフが私の心に刺さった。
「小説書いたの、初めてですし……まだ推敲もしてないですから……」
「ヒロインの気持ちだけじゃなくて、相手役の気持ちも全然わかんねーよ。全然面白くない」
グサリ。グサリ。ナイフがどんどん増えていく。私の心からは血がどんどん流れ出ていく。私は頭を振って、何とか反論を考える。
「副部長は誰かを好きになったことがないんじゃないですか!?」
苦しい言い訳だと自分でも思う。私だって……。
「普通に恋愛小説読めば、切ない気分にだってなるし、キュンとしたりだってするけど。でも、この小説にはそれが一切ない」
グサッ、グサッ。もうナイフが刺さる場所がないんじゃないかって思えるくらいに、心はズタズタだ。
だけど、私は何とか気力を振り絞る。
「じゃあ、副部長をキュンとさせるもの書きますよ!」
私の精一杯の虚勢だ。でも、これくらい言わなきゃ、気が済まなかった。
ニヤリ、と副部長の口元が動く。
「じゃあ、北原。来週から、短編を一つ書いて来い。俺が砂糖吐くぐらい甘くてキュンとする物語書けよ?」
「いいですよ! 書いてきますよ!」
その勝負受けてやる!
「威勢はいいな。でも、毎週とか書けるのか? 成績低下とかされると困るんだけど?」
心配されていることに、逆にムッとする。心配されるような成績のつもりはない。
「大丈夫です! 毎週書きます!」
副部長がまたニヤリと笑う。
「ああ、楽しみにしてる。じゃ、今日はこれで解散な」
私は心に決める。絶対、副部長をキュンとさせてやる!