十六話目 足りないのは空気感
「うーん」
部室の中に副部長の声だけが落ちる。副部長は首をかしげている。
副部長が何を考えているのか、分かったら簡単なんだろうな、と思う。
補講だらけの夏休みが終わり、二学期が始まった。
夏休み最後の日曜日、副部長とたぶんデートをした。
学生には鉄板だと副部長が言う図書館で。
県立図書館は、私の家の方が近いから、副部長がうちまで迎えに来た。
道順を考えれば、他に選択肢はないんだけど、お母さんは何だか副部長ウェルカムだった。なぜか副部長はうちのお母さんと仲良くなっていて、私を宜しくされた。
いや資料のためだし、って私が言ったら、副部長が、由以子さんとデートしてもいいでしょうか、って爆弾投下して、全然いいわよ、って行ってらっしゃいされた。
そんなこんなで図書館に行って、私たちはそれぞれに好きな本を読んで、そして家に帰った。
文芸部の初期の活動は、専ら読書だった。つまり、場所が変わっただけで、その行為自体は何ら文芸部の初期と変わりなかった。
デートらしき部分と言えば、副部長が私を家まで送り迎えしてくれた部分、くらいだろうか。……後、私のお母さんに“デート”と副部長が言っていたから、きっとデートなんだろう。
……よっぽど、公園を歩いた方が、デートらしかった気がする。
手を繋いでただ二人で歩いただけだけど、私の心臓はずっと騒がしかったから。
……別に手を繋げなかったのが寂しかったとか、触れ合う機会がないのがつまらなかったとか、話をする時間が行き帰りの時間しかなかったのが物足りなかった、ってわけじゃない。……じゃない。
前なら全く意味を持たなかった副部長からの触れ合いが、今では意味を持つようになったから。
前みたいに私をからかうように、触れてくれてもいいのに、そう思ってしまった。
「……由以子、聞いてるか」
副部長がテーブルの向こうから体を乗り出してきて、私はハッと我に返る。
「すいません。聞いてませんでした」
「……何? 俺に見惚れてたわけ」
副部長の言葉に、私はぱちくりと目を瞬かせる。
「別に副部長の見た目に興味はないですけど」
「……何気にぐさりと来るな」
副部長の返事に、私の発した言葉がどうやら誤解を生む表現だったということが分かる。
「えーっと、その前髪下ろしてる今の副部長に興味がないとかそう言う意味じゃなくて……」
「どういう意味?」
「えーっと……」
適切な言葉が口から出せなくて、一生懸命に言葉を探る。
「どういう意味?」
でも、副部長の口元がニヤリと笑ったのを見て、副部長は私が言いたいことをたぶん正確に受け取っていたことが分かる。
「分かってるなら聞かないでください」
「言葉にしてもらわないと、分かんないこともあるかもしれないだろ」
ニヤニヤ笑っている副部長は、存分に分かっていると思う。
「で、今日のダメ出しは何ですか」
私は呆れて話を替えた。
「答えろよ」
「分かってるのに聞かないでください。もうダメ出ししないなら帰りますよ」
私がそう答えると、副部長が大げさにため息をついた。
「空気感だな」
耳慣れない言葉に、私は首を捻るしかない。
「クウキ感」
「空気だよ空気。ここにある空気」
副部長が手で大きく円を描く。
「はあ、空気?」
空気の言葉は理解できたけど、その意味はいまだ理解できず。
「何で分かんないかな」
「分かんないから描けないんだと思うんですけど」
私の至極全うな答えに、副部長がそうか、と相槌を打ち、部室に沈黙が落ちる。
「……で、空気感って、どんな空気感なんですか」
なぜか考え込む副部長に、沈黙に耐えかねて質問する。
「由以子は甘い空気って分かるか」
「さすがに私にもその表現は分かりますよ」
「いや、表現じゃなくて、現実に」
トントン、と副部長がテーブルを指で叩いている。
現実で甘い空気。
彼氏と勘違いした相手との間にあったのは甘い空気じゃなかったって、中学時代にさんざん否定されたから、あれはきっと甘い空気じゃなかったんだろう。
それ以外に私が現実で甘い空気になりそうな相手って……。
それで思いつく相手など一人しかいない。
私は目の前の副部長をマジマジと見る。
副部長が仕掛けてくるのは突然で甘い空気になる前に私が敵前逃亡して終わってる気がするし……。
「俺、砂糖を吐くくらい甘くしろって言ったよな」
副部長に小説を見てもらうようになった時に、確かにそんなことを言われたような記憶はある。
「言ってましたけど………それと、甘い空気を体験したことがないのは関係しますか」
「俺、散々実地やったよな? そんなに甘い空気醸し出せてなかったか?」
ストレートな副部長の物言いに、私は目を泳がせる。
「由以子、答えろよ」
「……副部長が突如攻撃してくるので、私は攻防に精一杯で、甘い空気を感じる余地もなかったですけど」
「……マジかよ」
驚いた様子の副部長は、もしかしなくてもそんなつもりだったのかもしれないけど。
「マジですよ。あんなに急に攻撃されて、一瞬で甘い空気になるなんてどこの漫画の世界ですか」
「駄目か」
「……むしろ、あれで甘い空気を醸し出せてたって思ってる副部長に驚きです」
「……あれじゃ、駄目なのか」
がっくりとうなだれた副部長は、本気で凹んでそうだ。
「……むしろ聞きたいんですけど、副部長はあんなに突如攻撃して、今まで甘い空気を醸し出せたことがあるんですか?」
「は?」
顔を上げた副部長の目は見えないけど、そのとげとげしい声色から、副部長に睨まれているのは間違いないだろう。
「いえ、私が感じる力が乏しいのかもしれないですけど……」
何しろ、私には恋愛は難しいと言っていた人たちもいたわけで……。
「由以子以外に試したことないんだから、知るわけないだろ。由以子以外にする意味ないし」
副部長は小さい頃から女子が苦手なんだから、わざわざそんなことするわけがない、よね。
でも私には……。
その副部長の言葉の意味を考えると、じわじわと恥ずかしさがこみあげてくる。
「分かってるならいいんだよ」
私は何も言ってないのに、副部長が何を見て私が“分かってる”って断定したのかは分からないけど、たぶん私の顔が赤いのがその判断材料になったんだろうと思う。
「……これ、甘い空気ってやつ……だよな?」
自信なさげな副部長に、そうかもしれない、と思いつつ、その空気を醸し出す片割れに選ばれている事実に、更に照れるし、恥ずかしすぎて頷けない。
「だからさ、この話に足りないのは、この空気感なわけ。分かるか」
ようやく頷ける質問に、私はコクコクと頷く。
「俺もやれば出来るだろ」
それには簡単に頷くことが出来なくて、首を小さく傾ける。
「……慣れろよ」
慣れろって……。
恥ずかしさがMAXになって、私は立ち上がる。
「か、帰ります」
「送って行くから」
私の作品を私に差し出した副部長の言葉は断定で、断る余地なんか一ミリもなさそうだ。
それでも断ることが出来るのは知ってるけど、私は素直に頷いた。
「扇風機止めて」
窓を閉める副部長の言葉に、私は扇風機を止める。床に近いスイッチを止めて立ち上がって振り向く前に、私は後ろから副部長に抱き締められる。
「こういうことだろ」
私はぴきりと固まって、頷くことはできなかった。
「空気感が足りないの、分かったか」
耳元でささやかれた声に、ようやくコクコクと頷けば、背中にあった温もりが離れる。
「そんなに照れられると、こっちも恥ずかしくなるんだけど」
「……そんなこと言われても」
振り返って副部長を見上げると、副部長が顔を反らした。
「今回は告白かと思ったんだけど……触れてもいいんだな?」
副部長の耳が赤い。
私の希望を副部長が叶えてくれる。
それは。