プロローグ
紺色のブレザーが並ぶシンと静まり返った体育館の中に、再びマイクの音が溢れる。
「えーっと、文芸部部長の村井です」
ガガー、と雑音が交る挨拶を真面目に聞いている人間など、『次は文芸部です』と、アナウンスされた時点から一人もいなかったと思う。そもそも部活紹介の一番最後で、話を聞くのにみんな疲れ切っていた。私だって、その一人だ。
「いいですか、一年生のみなさん。森宮高校にも色々と部活はあります。勿論、それぞれが、有意義な時間になると思います。ですが!」
ひときわ大きくなった声に、私は伏せていた視線を上げた。
「ものを書くことは、未経験のことでも物語の主人公たちにチャレンジさせることができるんです! それが、ものを書く、と言うことなんです! ぜひ、文芸部で、未知の世界に足を踏み入れましょう! 文芸部の活動は部室棟115号室です!」
力強く言い切った銀縁メガネの文芸部部長は、ぺこりとお辞儀をすると、自分の席に戻って行った。
未知の世界に足を踏み入れる。
何一つ興味のなかった今日の部活紹介の中で、一番心に残ったフレーズかもしれなかった。
少し強い風が髪をさらって行く。私は風に乱れるボブの髪を手で押さえた。真新しい紺色のブレザーの波は、教室に向かって繋がっていく。
「ゆい坊、どこに入る?」
体育館からぞろぞろと教室に戻る中、同じクラスの綾が私の横に並ぶ。綾は少し茶色くした長い髪が風に流されるのが嫌になったらしく、腕に付けていたシュシュで結び始めた。
今年の一年生を示すえんじ色のネクタイを少し緩めている綾は、立派に今時の女子高生だった。対して、ネクタイをきっちりと締めて黒髪の私は、真面目人間にしか見えないだろう。
「いや、正直どこにも入る気はなくて」
中学校の部活で苦い思い出しかないことも、その気持ちを後押ししていた。
「へー。そうなの? 結構色々部活あったけど?」
確かに、超進学校の割には、部活の種類が多くて驚いてはいた。しかも、結構先輩たちのノリが軽くて、私みたいなザ・真面目って人はほとんどいなかった。森宮高校に入ってみるまでは、真面目な人が沢山いるんだろうと思ってたけど、私の予想は半分も当たっていなかった。
「まあ、入らなくてもいいわけだしね。綾……はどこか入るの?」
二日前からの友達を呼び捨てにする行為は、どこか気恥ずかしさがあった。
「私はテニス部一択!」
「へー。テニスやってたんだ?」
ううん、と綾が首を横にふった。
「だって、部長がイケメンだから!」
え、と声が漏れる。
「イケメンは正義!」
ガッツポーズをする綾に、私はヤレヤレとため息をついた。どうも、そこは相容れなさそうだけど、それは綾の嗜好の問題だから、私が口を出すことでもない。
新入生代表、つまり入試でトップの成績をたたき出した綾は、真面目なのかな、という二日前の予想を、今のところ大いに裏切ってくれている。北原、北村と名前順が前後したことで話し始めたわけだけど、綾の予想を裏切る思考回路を、実は結構楽しんでいた。発言が結構ハチャメチャ。でも、筋が通っているっていうか。綾の中のルールがあるんだと思う。
「ゆい坊もさ、入らなくてもいいから、部活見に行ってみたら? 何か新しい世界が始まるかもよ?」
綾はこうやって、一緒にいることを強要もしない。自分が入るからって、テニス部に入ることを勧めてくることもない。そこは女子っぽくないというか、さっぱりしている感じで、付き合いやすい相手だな、と思っている。
窓の外を見ると、部室棟が見えた。文芸部は部室棟で活動するって言ってたな、と思う。
未知の世界。新しい世界。……私の知らない世界。
私は首を横にふった。やっぱり新しい世界は、何が起こるか分からなくて怖い。でも、とも思う。世界を変えるためにこの学校に来たのに、って。
*
文芸部の部室の前に来たものの、どうしようかと迷って佇む。何しろ、電気はついていて、声が漏れてきているけど、男子の声しか聞こえてこなかった。ドアを開けるには、勇気がどうも足りなかった。
「いらっしゃい!」
背中から声を掛けてきたのは、明らかにバスケ部のユニフォームを着た背の高い男子だった。ニコッ、と笑うその人は、さっき壇上で見た文芸部の部長では間違いなくない。
「え?」
「文芸部だよね? どうぞ、どうぞ! あ、二年の田仲です。田んぼの田に仲間の仲ね。でも、真先輩でいいからねー」
田仲先輩が、ドアノブを握ると勢いよく115号室を開く。
「一名様ごあんなーい!」
おおー! と複数の声が部室から漏れてきた。
「真、よくやった! これで文芸部の存続が守られた!」
よし、とガッツポーズをする銀縁メガネの男子は、壇上で話していた部長に違いないだろう。ネクタイの色は青で、二年生。多分、田仲先輩も二年生なんだろう。
「あ、どうぞどうぞ。ここに名前書くだけでいいからね!」
もう一人、茶髪の男子が、私の前に、入部希望の紙とペンを渡してくる。この男子もネクタイは青だから、二年生だ。
「え? あの……」
見学に来ただけのつもりだった。
「で、何ちゃんだっけ?」
立ったままの田仲先輩が私の顔を見る。
「えーっと、北原です」
「北原、何ちゃん?」
どうしてフルネームを答える必要があるのか分からなくて、首を傾げる。
「……北原由以子です」
「へー、どんな字? あ、俺は琥太郎先輩でいいから!」
親指を立てる茶髪の琥太郎先輩とやらに、私はぎこちなく頷く。
「方角の北に原っぱの原、理由の由に、以下の通りの以、子供の子です」
「北原さんねー」
うんうん、と頷きながら、気が付けば琥太郎先輩とやらが、入部希望の紙に私の名前を書き入れている。その紙を部長がつかむ。
「あー。これで、我々の心配事も減ったし、さて、行くか。祐太郎、後は任せた!」
椅子に座っていた部長も、琥太郎先輩とやらも、田仲先輩が先に出て行くのを追いかけるように、部室から出て行く。
「え?」
私が後ろを振り向くと、私の名前を書いた紙は、部長の手に握られたまま。そして、ドアはパタン、と閉まった。
「……文芸部に……ようこそ……です」
ぼそり、と聞こえてきた声に、私は前を見る。
文芸部の部室には、私と、前髪がメガネすらを覆ったもっさりとした髪型の男子、二人だけが残されていた。
あ、と思う。
前に座る先輩には見覚えがあった。森宮高校の制服に青いネクタイでこの髪型の男子。学校の入学説明会の帰り道、学校近くの公園で、泣いている女の子をじっと見ている人だったから。顔は隠れてるから表情は分からなかったけど、途方に暮れているみたいに見えた……見ようによっては、変質者に見えなくもなかったんだけど。
そして、しゃがみ込んでいた女の子を立ち上がらせたのは私で、女の子が「あ」と言った時には居なくなっていた人。
女の子曰く、いじめっ子たちを蹴散らしたのはその人だったらしくて、いじめっ子を蹴散らした後なのに途方に暮れていた様子だったのも、何も言わずに消えてしまったのも、謎でしかなかった。
その先輩が、目の前にいた。