手土産です
相手の目から目を離さずに。対峙するなら必要な心構え。
本当は、戦闘は避けたい。相手が諦めて去るのを待つしかない。
しかし、相手は僕を敵と認識したはずだ。どうしたものか…。
「銃をお持ちではないのですか?」
頭上から、そんな声が聞こえた。
思わず顔を上げそうになったけれど、気力で押し留める。
目を離したら、恐らく前方の黒い塊が突っ込んでくるからだ。混乱しかける自分に、『任務中』と呪文を唱える。
こんなところで、頭上から。そんな風に声をかけてくる普通の人間がいるはずはない。
わかりきった現実から逃避するほど馬鹿じゃない。
…なぜ、ここに現れた?
偶然通りかかったのか。それとも、野性の熊が僕という危機と接触したからか。
「一応は、持っています。けれど。使いたくありません」
僕はそう答え、自分の声が震えていないことに満足した。
恐らくは、捜索対象。
そして…僕が過去に逢っている人物。
本当にこれはイコールなのか。
もっと話ができないか。声と。口調と。物腰。
それしか手がかりはない。
対象かどうかに至っては、顔を見なければわからない。
顔を見て、あの写真の中の誰かと一致するのかどうか、見極めなければ。
逸る気持ちを抑えながら、口にする言葉を間違えないようにと自分を戒める。
「…貴方は大変に殺気を放っています。彼は貴方を警戒している。失礼ながら、銃を使わず簡単に熊に勝てるとは思えませんよ」
「仕方なかったんです。あの子が僕の荷物を持っていってしまいそうだったので…荷物から意識を逸らしたかっただけです。傷つける意図はありません」
「荷物、あげてしまうという選択肢は?」
「ないです。野生動物に持ち込んだものを食べさせるのも問題だとは思いますが…あれは人に渡すものなんです。だから、紛失はできないです、僕の任務です」
ふむぅ、と頭上の声は唸った。
熊に対して殺気を放つ僕が言えた義理ではないが、少し、緊張感に欠けた声だ。
「では、なぜ戦わないのですか? そんなに大切なものならば、彼を殺してでも取り返さなくてはいけないのでしょう?」
「…あの子は、別に悪くないので…」
どう考えても、悪いのは僕だった。
「縄張りに勝手に入ってきたのは僕ですし、不注意に荷物を下ろしたのも僕です。傷つけるのは道理に適いません。襲われたら逃げるつもりではいます。時間がかかろうと、向こうが諦めてくれるのを祈るしかない」
本心だ。僕は、あの熊と戦いたくはない。
戦うと選択したのなら、僕は熊を殺すために全力を尽くすだろう。銃もナイフも…何の武器でも使うだろう。熊に戦いを挑んだ経験はないが、今回は勝てる、と思う。
けれども、熊を殺す任務ではないのだ。
殺さなくて済むのなら。そうしたい。
「でも、あれ、とってもいい匂いがします。僕も欲しいくらいですから…彼も諦めたくはないと思います。ちょっと難しいですね」
のんびりとさえ思えるその声に口許が緩みそうになるのを堪えた。
そうか。あれは、興味を引けているのか。
間違いない、これしかないと思ってはいたが、正解だったな。
「何かいい案があるのでしたら、手伝っていただけますか? もし…荷物を取り返せたら、貴方に中身を半分分けてあげられます」
「えっ」
弾んだ声音。
嘘ではないようだ。彼は、あれが欲しいのだ。
ガッツポーズしたい気分だ。
「本当に? …あ、えぇと。でも、差し上げる方が決まっているんですよね?」
「あの子は全部食べてしまうかもしれませんが、貴方が相手なら半分は手元に残ります。でも、要らなかったら別にいいですよ。どうせ僕の命もここまでです、上司に叱責を受けることもないでしょう。問題ありません。どうぞ気になさらず立ち去って下さい」
「…わぁ。困りました」
堪えきれずに、笑ってしまった。
目の前の熊が、隙と見たかこちらへ向かって走り出すのが見える。
平気だ、逃げきれる。そう思って、右手首の装備に左手を添えかけた途端。
…視界が、揺れた。
グオァアアアアアアアア…!
耳をつんざく大音量の咆哮が響き渡った。
本能的な恐怖。辺りに反響する木霊すら認識できないほどの衝撃。
ビリビリと振動する空気と、動くことを拒否した身体。
逃げなければ熊の突進を受けるという現実は、その声一つに食い破られた。
突進体勢だった熊も、僕の前で腰を抜かしたように座り込んでしまっている。
音が止んでも。
僕らは動けない。
風さえも時を止めたように、葉音の一つも聞こえない。
完全な、静寂。
どれくらい、経ったのだろう。
地面に落ちていた枯葉が、申し訳程度に風で身じろぎをした。
知らず息を止めていた僕が、小さく呼吸することが可能になった瞬間、迫りかけていた熊は一目散に逃げていった。
さすが、野性の熊。行動が早い。
一方で僕の手足は、まだ動かせない。血の気が引いて冷えた指先だけ、微かに動いた。
とん、と後ろに誰かが下りてきた気配。
任務中、任務中、任務中!
呪文を頭の中で繰り返し、僕は背後の相手を捕獲すべく、振り向き様にタックルをかました。
「ぅわっ?」
予想外だったようで、相手は簡単に捕まり、僕によって押し倒された。相手の腹に乗り上げた状態の僕は、『任務中』の一言だけを頼りに竦んだ身体に動けと命令する。
唇を引き結んだ僕の下で、まばたきをしたその顔は。
資料室で見た写真。
中段の…右端から二人目辺りだっただろうか。
「…対象、確認」
「はい?」
見間違えたりはしない。
古い写真にあった顔。恐ろしいほど、そのままの姿。全く年を取っていないように見える。
彼が。僕の任務の捜索対象。
一人でも多くを守りたいと…そんな願いを持って人間に手を貸した、『熊』だ。
「…すみません、腰が抜けかけてます。大変申し訳ないですが、もうちょっとだけ待って下さい。ちゃんとよけますから」
確認作業は終了した。
ならば、相手に疑念や不審を持たれないことが次にすべきこと。先に謝罪してから、僕は相手にぺこりと頭を下げて見せた。
「あぁ。はい。ゆっくりで大丈夫ですよ」
膝が笑いそうなのは事実だ。
人の良さそうな顔で、相手は僕が自分の上に乗り上げている事態を許す。甘えてはいけないと、何とか足を地面に乗せ、その上に体重をかけて立ち上がる。
ぐにゃりと足首が直立を拒否した。
こんな力の抜け方は。
初めて人を殺したとき以来かもしれない。
あのときも。
…そうか、僕は、怖かったのか…。
「危ない!」
素早く身を起こした相手が、地面スレスレで僕の身体を受け止めた。後ろ頭に相手の手と、地面の揺るぎない圧迫感。ひやりと背筋が寒くなる。
「…重ね重ね、申し訳ないです…」
「はい。どうぞ無理をなさらずに」
ふぅっと安心したように息をついて、彼はやけに丁寧に僕を下ろした。
何をどう見ても、ただのいい人だ。
この人からあの、本能が恐怖で行動を抑制するほどの咆哮が飛び出すとは信じられない。けれど…熊だからと、思えば不思議でもないのがまた…混乱しそうだ。
「…ふたつ…」
口にする言葉に迷いながら、身を起こした。
瞬きをした彼が、こちらを見る。
「ふたつのことについて、言わせて下さい。…あ、お時間は大丈夫でしょうか」
ふしゅっと妙な音を立てて口許を手で覆い、相手は僕から顔を背けた。
なぜだ。
笑われた理由がわからない。
「ごめんなさい。…はい、大丈夫ですよ。生真面目な方ですねぇ」
笑いを残したまま彼は答えた。
腑に落ちないが、今は僕の心中よりも優先すべきことがあるので、意識的に気にしないようにする。
「まず、お礼を言わせて下さい。二度。命を助けていただいたことについて」
「二度ですか…? あぁ、今の倒れたこと。大袈裟で…」
「いえ。一度目は十年ほど前に。二度目が、今です。暗くて顔はわからなかったけれど、きっとそうだと思うんです…」
きょとんとした相手の顔に、人違いではないかという思いも胸を掠める。
だって僕はあの時、顔を見てはいない。
けれど、間違いはないと、強く思う。
「廃坑で。助けて下さった方ですよね。グズベリーを食べさせてくれて。出口まで、僕を運んでくれましたよね? ここに…帰ってきてもいいって、言ってくれましたよね?」
こんなに。
必死に言う必要はないのかもしれない。
もっと冷静に話さなければいけないのかもしれない。
頭ではそう思っていても、僕は既に泣きそうな顔をしていた。
「もう誰も僕の生なんて望まないけれど。貴方は、僕が生きることを願ってくれるって、そう言いましたよね…?」
相手はしばらく、僕の顔を見ていた。
知らないと言われることが怖い。
僕だって昔の記憶など何も思い出せず生きてきたのに。
今まで綺麗に忘れていたくせに、こんな気持ちは我儘だ。それでも。
祈るような気持ちで、僕もまた、相手をじっと見つめ続けた。
「…は、い」
ぽつりと彼は言ってから、ふわっと笑った。
それを見て。心の中が急に軽くなった。彼は、覚えている。
僕自身さえも忘れた、もう、どこにもいない昔の僕を。彼は。覚えている。
「そう。貴方はあの時の男の子でしたか。大きなリュックサックを背負った、小さな子供。そう…無事だったんですね」
僕の頭をぽんぽんと撫でて、彼は頷いた。
嬉しいような面映いような気持ちになって、僕は俯く。
「お陰様で、今も生きてます」
「…うん。よく頑張りましたねぇ」
俯いた僕の頭を彼は撫で続けている。…変だ。止める気配が感じられない。
任務中。任務中。
このまま色々と話し込んでしまいたい身勝手な親近感を抑えて、僕は一つ息を吸う。
「ふたつめ、です。僕は別件で貴方を探しに来ました。仕事なんです。戦時中に人間に手を貸した、人でない方々を捜しています」
僕の頭の上で、手が止まる。
「できれば。一度、僕の上司のお話を聞いてほしいんです。実は僕はまだ試用期間中で…あまり詳細を知らないので…。一緒に来ていただけたら嬉しいんですが、突然のことですし、決して無理強いはしません。とてもいい職場ですし、僕の先輩もとてもいい人です、貴方に無理な要求はしないと思います。…ですが万一、上の者が貴方の意に沿わぬことをしようとする場合には…僕がお守りします。必ず、全力で守ってみせます。ですから…僕とここを出ることを考えてみていただきたい。…お伝えするべきことは、以上です」
怒られるかもしれない。
そう思いながら、唇を引き結んだ。
しばし頭の上で動きを止めていた手が、撫でるのを再開した。
俯いた僕の頭の上で、飽きもせず彼の手が往復する。
二度。
三度。四度…五…度…。
「…あ…、あのぅ…」
さすがに、ちょっと困ってきた。
ちらりと目線を上げて声をかけてみたが、彼は不思議そうな顔で首を傾げた。
「はい。お話は終わったのでは?」
「…あ。えぇ。はい。でも。あの…僕、探索任務中であんまり清潔じゃないので…」
「そうですか? 気になりません」
指先が遠慮なく髪を梳く。
申し訳ないが、当然風呂に入れていないので、困る。
相手が気にしなくても、僕が心底気になる。
「あ。すみません、話は終わったんですが、用事はもう一つあります」
この撫でられタイムを切り上げる手段を思いついて、僕は顔を上げる。
勇気を振り絞って顔を上げたというのに、撫でる手は止まらない。相手は相当のマイペースと見た。
「はい、何でしょう」
「荷物の中身。さっきは助けてくれたら分けてあげますって言いましたけれど、本当は貴方へのお土産なので貰ってやって下さい」
再び、ぴたりと手が止まった。
「あの、いい匂いの荷物ですか?」
「そうです。あ、いや、魚臭いです」
「僕へのお土産なのに、助けてくれた人にあげちゃうつもりだったんですか?」
「いえ。実のところ貴方だろうと思ってましたので、あの言い方で問題ないと判断しました。普通の人はこんなところにいませんよ」
「…でも…わからないじゃないですか?」
拗ねたような声がおかしくて、僕は笑う。
ようやく頭上から手がよけられたので、調子を取り戻した身体を持ち上げた。
歩いてみるが、動きに問題はない。
僕はリュックを拾い上げると、お土産を取り出して見せた。
彼も近づいてきて、僕の手元を覗き込む。
「そうですね。僕も昔の記憶がほとんどありませんので、誤る可能性はありました。貴方のほうが正しいかもしれません。…これも、もし要らないようでしたら無理にとは…」
「あっ、駄目ですよ、僕のなんでしょう? 熊からも助けましたし、いただく権利は十分なはずです。気が変わるのは困ります」
なぜかとっても食いつきがいい。
早く早くと急かされて、慌てて袋を差し出した。
彼は幸せそうにそれを抱き締める。
「いい匂い。今開けたいくらいです」
「…そんなに、匂いします? 開けてどうぞ。もし心配なら毒味しますよ」
「いえ、毒が入っていても構いません」
冗談のつもりで言ったのだが、相手は真顔でこっくりと頷いた。
「…あの…、入ってません…」
多分僕は今、情けない顔をしていると思う。驚いたように目を見開いて彼は弁解した。
「あ、えぇと。ごめんなさい、もちろん心配なんてしていないんですよ。ただ、あんまりいい匂いなので。僕は毒くらいでは死なないから、毒味に渡すくらいなら自分で食べてしまいたいな、と…。本当ですよ?」
言いながら目線が段々と逸れていき、言い終わる頃には完全に袋へと落ちている。
そんなに気に入るとは思わなかった。
「一番良い出来だと思うものを持っては来ましたが…失敗と試作が大量にうちにあるので。よろしかったら、その中でましなもの、また持ってきましょうか?」
「…え。作った…ん、ですか?」
「始めは買ってみたんですけれど…味見してみたらどうもしっくりこなくて。色々試した結果、作ったほうがいいんじゃないかと。かといって即成功するわけでもなかったですが。…手持ちの食費をつぎ込んだので、僕は向こう一ヵ月は主食が干し鮭です」
そう。僕の持参したお土産とは…鮭トバだ。『熊と接触するために用意するもの』と峰さんに課題を出されたところ、即座に浮かんだのが鮭だった。
完全に偏見と言われようとも、熊へのお土産なら鮭しかないだろう。
だが、生では日持ちがしない。
「…それは…、羨ましいような」
「喜んでお分けしますよ。味見も含めたら、過去二週間の主食も既に鮭でした…もう夢に見そうです」
育ち盛りなので、正直とても肉が食べたい。
しかし先立つものがなければ我儘は言えない。食べるものがあるだけ、ましなのだから。
「…人間はそう偏った食事をしてはいけないと思いますよ。だから十年も経っているはずなのに貴方そんな…ちいちゃいのでは?」
「小さくないです、大きくないだけです」
思わず反論すると、彼は朗らかな笑顔を見せた。
僕は少し気を悪くしているのに、その笑顔はないだろう。拗ねる僕の前で、彼は袋から出したトバの端っこをくわえた。
不意に、驚いたようにこちらに背を向ける。
「…ま…ずかったですか? もしかして」
あれ、よくできたと思ったのに。
もしかして熊とは味覚が違うのだろうか。しょっぱすぎた?
急に心配になってその肩に手をかけると、相手は「違う、違うんです」とくぐもった声を出した。
聞こえにくいその声の質に。先程の咆哮が思い出される。
「え…若干…、熊モードになってませんか」
ごめんなさい、という風情で「グルゥ…」と返された低い音。
なぜだかあまり驚かなかった。むしろ、少し笑ってしまった。
「鮭は熊スイッチが入るものでしたか。大丈夫ですよ、怖くないですから。貴方がわざと僕を怖がらせようとするとは思えませんし。なんか、却って気を使わせてすみません」
笑う僕に背を向けたまま口の中のものを飲み込んで、彼は困ったように溜息をつく。
「びっくりしました。普段はこんな失敗しないんですよ。思わず野性が出そうになるくらい美味しいんです。…お伺いしておきたいのですが…もし貴方に付いていったら、またこれを作ってもらえるんでしょうか?」
僕は小さく息を飲む。
まさか、一緒に来てくれる気になったのだろうか。鮭トバで?
うまく、うまく答えなければ。
盗聴機の向こうで今、峰さんも多分固唾を飲んで聞き入っているに違いない。でも。考えてみたら、すぐには作れないかもしれない。幾らでもすぐ作ります、なんて嘘はつけない。
「あ…えぇ、その…お給料、入ってからでもいいですか? 僕、施設から出てきたばかりだからあまりお金がなくて。確か、もうすぐ初めてのお給料日でしたから…」
今度は彼が息を飲んだ。
袋の口を握ったまま、絶望的な顔をしてこちらを振り向く。
「…困りました…。子供相手に食費を巻き上げたうえ、初任給も奪おうなどと…僕は今、暴虐の限りを尽くした気分です。どうしたら…あ、お金をお渡しすればいいのか。…でも、僕も昔はお金を持っていたんですが…一体どこへ埋めたんだったか、もうわからない。貴方と行ったらお給金は出ますか?」
「えぇ? そ、そんな意味で言ったわけじゃないです、平気です。あ、あの、でも来ていただいたら貴方にも多分お給料は出るんじゃないかな。ちゃんと聞いてみますから…」
言ったところで、はっとした。
慌てて腕時計に目を落とす。
「わぁ、定時連絡! 日も暮れる! 暗くなったらキャンプまで戻れないかもしれないから、また明日会ってもらってもいいですか!」
「あ、はい。明日また…ここで?」
「そ、お、ですね。あの、何時くらいでしたら、ご都合がよろしいですか?」
「いつでも。ただ、僕、時計を持っていないので…何となくなら日の高さでわかります。正午ならお昼のサイレンも聞こえますし」
「うっ…んと、じゃあ…アバウトにお昼すぎ。サイレンが聞こえてから来て下さる感じで構いませんので」
わかりました、と彼は笑う。
時間がないけれど、もう一つだけ聞いておかなくてはいけないことがあった。
「お名前をお伺いしてもいいでしょうか? 熊であるということしか知らないのです」
驚いたように、彼はまばたきした。
「本当だ。名乗っていませんでしたね。当たり前のように僕を知っていらっしゃったので、違和感がありませんでした。僕はソウイチといいます。…貴方のお名前は?」
「盤乃沢 ミチカと申します」
「…そうか。名字が要るんでしたね。では、僕はリクエです。リクエ ソウイチ」
「…どんな字ですか?」
「陸海空のリク、衛星のエイ。といっても元々僕に名字はありませんので、先の大戦の頃に便宜的に付けられたものです。ソウイチは争うと数字の一で…どちらも旧字ですね」
旧字の『争うと一』が、わからない。争一じゃ駄目なんだろうか。
「わかりました。陸衞さん、ですね…」
「いいえ、爭弌です、ミチカ」
「えっ」
ほぼ初対面なのに名前を呼び捨てられて、ちょっとどきりとした。そ、そんな…名前で呼ぶなんて友達みたいなことがいきなり…えっ、もしかしてここで念願の友達ができてしまう?
僕の記憶には友達というものが一人もいない。
そもそも施設の前は祖父の記憶しかないし、施設では逆立ちしたって友達なんてできない。
すぐに思い直す。これ、違うな。
氏名を問われて名だけを答えるくらい、彼には名字を呼ぶという習慣がないんだ。
…しかし…。
「爭弌と。名前で呼んで下さい」
悠々と微笑む相手には、何の気負いも見えない。
彼にとってハードルの高いことではないのだ。
「…あ、えと。…そ…、そぅ…ぃち、さん…」
「はい」
促されて呼んではみるものの、僕は誰かを名前で呼ぶほどの親しい付き合いというものをしたことがないので、正直、物凄く照れくさい。
友達っぽい。すごく友達っぽい。
えぇー、どうしよう、頑張ったら友達になってくれないかな。
今のところ嫌われたりはしてないと思うけれど。
相手はそんな僕の様子を欠片も気に留めず、満足げに頷いた。
「明日、またお会いしましょう」
「はい。では失礼します」
にっこりと笑う彼に、僕も知らず微笑んでいた。
やることはたくさんあるけれど、多分ファーストコンタクトは成功だ。