クマー。
暗い。
とても暗い。
蔓草に遮られたあの入口から、どれくらい歩いただろう。
足が痛い。
でも。止まる理由がない。歩く理由だけは、ある。
いつの間にか、誰かに背負われていた。
夢だから。不思議はない。
でも。この人は祖父じゃない。
「…だれ…」
呟いた幼い声が、自分のものではないみたいに掠れていた。
そういえば、水がなくなってから、どのくらい時間が経ったかわからない。
相手は無言のまま、僕を背から下ろした。
靴先が地面を踏んだけれど、足は僕を支えなかった。
そういえば、食べ物がなくなってから、どのくらい時間が経ったかわからない。
支える手は、前方に傾いだ僕をゆっくりと表返して横たえた。
口の中に何かが突っ込まれる。
舌に触れた汁で、半分に切られた、ごく小さな果実だと気づく。酸っぱさと不意の水気に、頬と喉が痛んで、咳き込みそうになって、思わず歯を食いしばる。
知っている味。
グズベリーだ。認識した途端に、甘さが広がった。
「ごめんね、こんな物しかなくて。貴方はどこへ行くつもりですか。保護者…お父さんやお母さんはどちらに?」
どこ。
問われたところで。行くべき場所など知らない。
父も母も知らない。
故郷以外の場所なんて知らない。
進まなければいけないことしかわからない。
「…しらない。おとながいるとこ…いく」
意識が段々とはっきりとしてきた。
けれども暗くて相手が誰かわからない。
僕のライトはどこだ。
視線を動かすと、相手がライトのスイッチを入れた。細身の身体を闇に隠すように身を引いた彼が、手にしているのは僕の荷物。
光は弱々しい…電池が切れかかっているんだ。何度か消えかけたのを騙し騙し使っていた。
相手の顔は、見えない。
「小さな子供が一人で、無闇に坑道跡を進むだなんて酷い無茶ですが…、察しはつきます。街の近くまで行きたいんですね?」
行きたいのかと言われると、別に行きたくはなかった。
そうしなければならないのは、わかっていた。それだけだ。
「…じいちゃんが…、ここをずぅっと行けって。だから歩かないといけないの。寝てたら、だめなんだぁ…。ぼく、もう行かないと」
しばし思案した相手は、溜息をついた。
「…そう。貴方も…」
食べられますか、と言った相手は、返事を待たずに僕の口にグズベリーをもう一つ。
今度は丸のままだったが、身体も驚かずに食べられた。
グズベリーはよく祖父がおやつに採ってくれた、身近な果実だ。
もう…そんなこともないんだな。
そう思うと、美味しいけれども、悲しかった。
もっと食べたい。言うより先に、また口の中へと果実が押し込まれる。
手も足も重たくて、身動きはできそうになかった。
「間に合って良かった。…貴方は生きないといけません。今は理解できなくてもいいですが何を犠牲にしても、生き延びなさい。貴方の命を願った人間がいるのですから」
確かに理解はできなかった。
少し、寂しいと感じた。
祖父は確かに僕の生を願ったかもしれないが、今後は誰もそれを願いはしない。
あのとき、もっと強く言えたら良かっただろうか。
一緒に行こうと、言えたら。
…いいや。祖父はそれを望まない。
彼は考え抜いた末に僕だけを外界へと送り出したのだ。
あれ以上彼を悲しませることは…言えなかった。
祖父は、緑に囲まれた家で、恐らくは一人で命を終える。
今は応じて生き延びたとしても…祖父の生を願えなかった僕が、この先を長く生き続けていく自信はなかった。
そう口にしたのか、思っただけだったのか。相手は、少しだけ笑ったようだ。
「僕も願いましょう、貴方が生きることを…。だから、誰を犠牲にしても戦い抜きなさい。そして、またいつか、帰ってきて下さい」
それはとても斬新なアイデアだった。
二度と帰れないと、思い込んでいた。
「…帰っ…てき、ても…、いいのかな…」
「貴方の故郷でしょう? ここが木々に埋もれたくらい何です。人はいつも己で荒れ地を拓いてきましたよ。貴方達は身体は脆いけれど…驚くほど強かだ。今は勝てないものにも、きっといつか勝機を見出せますよ」
そうか。僕は帰ってきてもいいのか。
今は出ていかねばならなくとも。
いつか僕が大きくなったら。いつかもっと、強くなったら。植物に負けない何かを手に入れたら。そうしたら、また、ここに。
弱弱しかったライトが消された。急に視界がなくなる。
伸ばされた腕が、僕の身体を攫った。
再び背に負われて。
目線は高くなったはずだが、相変わらず先の見えない闇の中。
不思議と彼は躊躇なく歩みを進める。
「少し眠りなさい。僕が代わりに歩いてあげます。それなら眠っていても立ち止まりませんから、休んでいても大丈夫ですよ」
…休んでも、いい…。
言われた途端に眠気が押し寄せた。
そういえば、眠ろうとしなくなってから、どれだけ時間が経ったのかわからない。
疲れと眠気で倒れかけても、止まって休もうなんて考えもしなかった。
随分と長いこと朦朧としながら、夢だか現実だかわからない中を歩き続けてきた。幼かったから、実際にはきっと、所々で眠り込んでいるのだろう。
不意に左手に振動を感じた。
瞼の裏の景色が霧散して、薄暗くもリアルな視界の確保。
テントの布地に囲まれている。
じりじりと手首を叩くこれは…腕時計の振動。
目を、覚ますための機能。セットしたのは…4時間前の僕。
どうやら、寝ぼけている。
「…言わなきゃ。みねさん…出られますか」
寝ぼけてはいるけれど、伝えたほうがいい。
…眠くて目が開けていられない。こんなに寝覚めが悪いのも、僕にとっては珍しい。
寝袋から這い出して、通信機まで匍匐前進。
上手く動かない手から転げたマイクを拾って、呼び出しをかける。1コールで応答あり。
『はい、峰です。おはよう。ふふ、意外と寝起きが悪いね。まだ定時連絡までは二十分もあるよ。どうしたの』
「おはよ、ございます。いつもはこんなんじゃないんですが…寝ぼけてます。でも今…峰さんに言わないといけないと思って…」
頭の中はまとまらない。
それでも、面白そうに「何を?」と問いかける相手の声に押されて、まとめられないままの言葉を零す。
「僕、小さい頃…逢っているかもしれません。今まで何も思い出せなかったんですけれど…対象に…。さっき、昔の夢見てて…グズベリー食べたい。逃げる途中なんですけど」
『えぇ? 何?』
「緑に埋もれるので、炭坑跡から逃げようと。考えてみたら、もう使われていない坑道で、偶然誰かに会うだなんて変で。真っ暗なのに、ライトも持たずに、あんなにしっかり歩ける人なんておかしい…。忘れてたなんて。僕はあの人のお陰で生きてたんですよね…」
『…ミチカ君、ちょっと落ち着いて。ただの夢ってことはないの。君は今寝ぼけているし、昨日A16に…念願の故郷に入ったばかりだから、気が高ぶっているのかも』
そうなのかな。ただの夢なのかな。
考え直してみたけれど、逆に意識と記憶がはっきりとしてくるだけだ。
「…作業員じゃない。僕の荷物しか持っていなかった…軽装だった。僕と同じ境遇でもなければ…あんなとこ歩かないし…それなら水も食料も持たないのはおかしい。グズベリーはどこから出したんだろう。最初の実は切れてたけれど、ナイフは…。顔は見えなかったから、確定じゃあない…けれど、そもそもあの日はもう…集落に誰もいない…はず…」
植物が蔓延り始めて数日のうちに、役所や青年団が見回りと説得を行った。避難命令だ。
祖父は何度も彼らに説得されていた。
「僕ら以外に人は、いないはずなんだ…じいちゃんだけが故郷を捨てられなくて…」
わかるだろう。ここはもう捨てるしかない。命さえあれば幾らでもやり直せる。小さな子供がいるだろう。早くしないと植物に追いつかれる。ここは山の上だ。途中の道が埋もれたらもう、逃げ道はなくなるんだ。
耳を塞ぐ祖父を追い詰める、周囲の大人に食ってかかった。
やめてよ。いじめないで。じいちゃんをいじめないで。
泣き出す僕に困惑して、彼らは仕方なく引き上げていく。
後半には、わざと人と会わないように過ごした。だから周りの人達も、僕らは出ていったと思ったはずだ。そうまでしても祖父はあの家に残りたかった。
そして。
あの日まで、僕を道連れにすることに苦悩していた。
「植物の成長は早くて。緑は迫ってくるけれど…逃げなければ僕も一緒に死ぬんだってことにずっと悩んで…。結局、あの日祖父は、僕だけを逃がすことにした…けれど…」
『…ミチカ君…』
「決断は遅すぎて。道はもう封鎖されていたから…。でも思い出せない…どこからあの坑道に入ったのか…それがわかれば…。峰さん、この…カチとかパキとか何の音ですか?」
いつからかキーボードを打つカタカタ音に替わってペキカチペキカチ、パキパキカチと忙しない音が聞こえている。
訝る僕に、峰さんが舌打ち…を…、一気に目が覚めた。
「ぅあのっ、何でもないです、無視していただいて結構です、すみません」
『あ、聞いても平気。君の耳の良さって半端じゃないね…。こう見えて…あ、見えないね、僕すごく今ハイテンションになってるんだよ。君の話をまとめようとしたけどタイプミス激しすぎてキーボードが打てなくてさ。もうアナログでメモ取ってやろうと思ったんだけど、力が入りすぎて芯が折れちゃって…焦れば焦るほど書けない!』
じれったそうにそんなことを言うので、僕は少し笑ってしまった。
それからようやく、少し冷静になる。
「…僕、顔洗ってきます。それでちょっと落ち着いてから…ちゃんと定時連絡もう一回します。朝からすみませんでした」
『…うぅん、僕もちょっとコーヒーでも入れて落ち着いてくる…。むしろ先に言ってくれて良かったよ。だって、君が冷静に話してるのに僕だけ大興奮だと、本当にメモれなくて発狂するかもしれない。せっかく今はいい先輩だと思われてるのに、本性出ちゃうよ』
それは…監視舎が怯えたり、今しがたの舌打ちが示唆するような本性だろうか。
けれど、僕が峰さんに対して、だからどうだということはない気がする。もし本性が見せてもらえたら…もう少し親しくなれるのだろうか。
「本性ですか…いいですよ、出しても」
『ふふ。もう察してるだろうけど、結構僕は過激派だよ。…まぁ、そのうちにね』
時計を見直せば、定時連絡まであと十分もある。
通信を終えて、急いで身仕度を整えに走った。その途中で、ふと立ち上げっぱなしの計器類に目が留まる。
「何だろう、これ…」
…サーモグラフィー。
付近の小動物の動き等も映し出される中で一点、動かない暖色の塊があった。動物だとしたら、そんなに大きくはない。けれど…いつからあったのだろう。
昼間なら、日当たりのいい場所で瓦礫でも熱くなっているのかとも思えるが…今は朝方。まだ薄暗く、目を凝らしてもその方向におかしなものは何も見えなかった。
「…対象では、ないから…いい、か」
何かはわからないが、人型にしろ熊型にしろ、これでは小さすぎて当てはまらない。
山の方角へ探索を進めて二日。
アクシデントには出会わないが、調査自体にも進展がない。何も発見できない状況が続いた。
「…ポイント7、土壌、水質とも異常なし。緑済地には、現段階では人間の居住に害となる要素はないと判断。…あれ。なんか見たこと…、気のせいかな…。調査進路変更なし。東へ探索継続」
破れた交通安全の旗。
不安が胸の辺りにわだかまる。
何に対しての不安かはわからない。ただ、急激に心細くなった。
任務中だと、必死に自分に言い聞かせる。
街路樹を絞め殺した蔓草が標識に串刺され、木造の家屋に縫い止められている。廃墟の側の物干しでは、かけられたままのボロ布が褪せた色ではためく。今更珍しくはない、たかが悲壮な緑地の風景じゃないか。
そんなことで不安になんてなるものか。
木造家屋の窓にかかるカーテンの柄。
廃墟の側の犬小屋の屋根の色。
見たことがある。
記憶も思い出も、心当たりは何もないのに。
電線の架かる空を切り取る山の輪郭。
塗料の剥げ落ちた看板の文字は読み取れないのに、きっと、書いてあった文字を知っている。
「…ちくしょう…」
ただ、見たことがあるんだ。
知らず吹き出した汗と、上がる息に目眩がする。
足は震えを無視して前へ前へと進みたがった。
傾斜のある砂利道。
…雨上がりには、深い水溜まりができて…。
顔も思い出せない近隣の居住者が、赤い自転車でそれを大きく跳ね上げる。
空まで濡らしそうなその飛沫に、幼い自分が歓声を上げたのを思い出した。
水滴の向こうに見えたのは。
青い空と虹と月見草。山百合。水仙。コケコッコ花。
祖父はよく庭仕事をしていて。家の周りには花がたくさん咲いていた。
僕は気まぐれに手伝いをしたが、多分主に邪魔だった。
祖父が引っこ抜いた雑草を貰って別の場所に植え、僕の花壇を作ったな。
やらなくていいと言われた場所に肥料を撒いたら、ぐんぐん育って大きなコスモスが咲いたっけ。茎は僕の背も追い越して、垣根みたいになっていた。
全く可憐じゃないなと祖父は笑った。
灰色の雪の日は。
夜空が赤い色をしていたのはどうしてなんだろう。割れた窓枠や物置の隙間に潜むやけに細いトンボには、たまに驚かされた。
あんなにも細くて脆い身体で越冬するらしい。普通のトンボより強靱じゃないかって、不可解に感じた。
北海道はまだ冬なのに、内地の桜をTVで見たことがあった。
もう桜が咲いたのだと言われても、ぴんと来なかった。
花ばっかりで作り物みたい。葉が多くて色の濃い山桜の方が綺麗だと思う。祖父は「そうか」と頷いて、そう言った僕の頭を撫でてくれた。
もう何年もずっと、春が来るたびに寂しくて。
ソメイヨシノを見ながらも、桜が見たいと思い続けていた。
綺麗だけれど、これじゃない…誰に言っても理解されなかった違和感の正体がわかった。全てをピンク色に染めるむせ返りそうな景色より、僕は、野趣に富む山桜を見たかったんだ…。
門柱にはめ込まれた表札。
そっと伸ばした指で、縁の欠けた文字をなぞった。
盤乃沢。
「…ちくしょう…」
こんな関係ないことは思い出せるのに。
ここで間違いないと感覚は教えるのに。
「…思い…出せない…」
枝に突き破られた窓。蔦が張り付いた扉。
元の色が何色だったのか、わからないほどに壁面を覆う一面の緑色。半ば山の一部と化したような、この家の外観に少しも懐かしさを感じられない。
植物は完全に野性化しており、流入した蔓に蹂躙された庭は、どれが元からあった植物なのかもわからない。
花畑はどこだろう。
菜園もあったはずだ。
どこかから転がされてきたレンガの欠片。
それを靴先が弾いたことに少し怯えながら、玄関扉の前に立つ。
扉は、引いても開かない。
鍵云々の前に、絡みついた植物が邪魔をしている。そう思って、引き剥がそうと試みるけれど…当然のように植物は強烈な抵抗を見せる。
背負っていたリュックを、少し離れた位置に置いた。
深呼吸して、一掴みの植物を全力で引く。
…動かない。
扉に足をかけ、更に力を入れてみる。
…密に蔓延ったそれは互いに絡みついていて、やはり全く剥がれない。
ベルトに通してあったナイフを手に取って、少し考える。
こんなもので歯が立つとも思えない。蔓の一つ一つを地道に切断するなんて幾ら時間があっても足りないが、まとめて切断できるほど鋭利な装備はない。
燃やすことも考えたが、下手をすると家屋が全焼だ。手持ちの水は一時喉を潤す程度しかない。火事に対処はできない。
…家の中に入りたい。
きっと、中には、祖父がいる。
「…でも…見たってどうせ…わからないのかもしれない…。ここまで来ても、顔が思い出せないんだ…僕は…、駄目な奴だ…」
薄情だ。最低だ。
あぁ、いけない、そして任務中であることを忘れかけていた。更に自己嫌悪に…。
陥り、かけた。
リュックを拾おうと振り向いた僕の目に。飛び込んできたのは黒い塊。
「あぁぁっ、駄目、それは僕のっ」
思わず叫んだ僕の声に、リュックの匂いをフンフンと嗅いでいた熊が顔を上げた。
何とか離れてもらいたい。
野生ならば、強者を理解するだろう。切り替える必要がある。
「…離れろ」
浅く息を吸って、僕は相手を睨みつけた。
急に警戒した熊が牙を剥いて唸り、一歩僕のリュックから距離を取る。
身を低くしたその姿勢に、我ながら馬鹿なことをしたと、苦く思う。
「ヒグマと接触。対象外と判断。僕より一回り程度大きい」
表情を排した僕の声を、峰さんはどう思うのだろう。
峰さんが初めて聞くであろう、無機質な声を出しながらそう思った。