めんこちゃん
湖が見えた。
降下は順調だ。風も強くない。程なく、A16南境界監視舎前に着陸できる。
本来であればA16境界管理センター前に着陸し、監視舎までは歩くべきなのだろう。
しかし今回は峰さんの交渉で、目的地に一番近いポイントでの着陸が許可された。
「着陸予想カウント120。監視舎前二名の警備を確認、現在動きなし」
僕がヘリから飛んで随分と経ってから警備が動き出した。
初動と考えるのなら随分と遅いな。
まぁ、マモレ課のロゴが見えているのだろう。不審者ならまだしもこちらは事前に連絡してあるのだし、警戒することが特にないのかもしれない。
「着陸予想カウント60。警備との接触予想カウント145。目視圏内、緑地に異常発育なし、現状危機なし」
爪先が地面についた。
素早くパラシュートを外して身を翻す。シーツや布団カバー同様、パラシュートもちょっと浮いているときのほうが扱いやすい。素早く端から畳んで紐で括り、背に負った頃にようやく警備が到着した。
僕は仕事としてここにきている。
一般人らしく、きちんと挨拶しなくては。
「お疲れ様です。特別防備管理庁から探索任務で来ました、盤乃沢と申します」
僕がそう言って会釈をすると、どちらの警備もどこか意地悪そうに首を傾げた。
これは。嫌な予感がする。
「…ご連絡は行っているかと思うのですが。何か問題がありますでしょうか」
「探索者が来るとは聞いてるけどなぁ。それがこんな子供だとは聞いてないなぁ」
「いやいや、一大事だぁ」
そんなことを言いながら、彼らはにやにやと顔を見合わせる。
懐かしささえ感じる、施設で慣れ親しんだ理不尽のにおい。
…だが戦えば勝てる相手だ、問題はない。
敵意が表面化していない現段階では僕にできることはないから、躱せるものなら躱したいところだが…楽観はできない。僕は、こういう方々のお目に適いやすい体質のようなんだ。
「そうですか。IDカードが身分証明になると聞いております。緑地に入る前と出るときにカードを機械に通すよう指示がありました。その機械はどこでしょうか」
「監視舎にあるかなぁ。そこでカードを通してもらうとして…君を監視舎内に入れてもいいのかが判断できなくてねぇ。何せ、こんな子供だろう? 怪しいじゃないか」
死角から、ふらりと一人が不審な動きを見せる。何となくわかった。
僕の背負ったパラシュートに伸し掛かろうとしている。
脅かしたり転ばせたりしたいのだろう。
施設にも、そういうことを好む人間はいた。
少し迷ったけれど、大きく斜め後方に一歩踏み出して、すれ違う形で避けた。横に逃げても前に逃げても掴む気満々だった相手の手が、予想を裏切られて空振る。
「パラシュートは帰還時まで監視舎で保管していただくと聞いておりますが、相違ありませんか」
何だか捨てられてしまいそうな気がして、僕は念のため問いかけた。
僕の私物ではないので、手荒く扱われるのは困る。
相手は案の定、鼻で笑った。
「さぁ? どうだったかな」
「そんなことより、なんでお前みたいな子供が降ってきたんだ? こんなガキを緑地に追い遣るなんて、よっぽど人がいないんだな。必要あるのか、お前の課って。何課だ?」
僕の前を塞ぐような形で彼らは足を止めた。
絡まれる謂れはないつもりだが、元より理由などないのが絡むという行為かもしれない。
せっかくの、期待された任務だというのに。
二週間あるとはいえ時間は有限。とにかく、こんなところで潰すのは一秒でも惜しい。
いっそ、寝かせてしまうか…。
そう考えた途端に、相手の胸ポケットで無線機が呼び出し音を鳴り響かせた。
二人は顔を見合わせたが、一人が無線機を手に取り応答する。
「はい、監視舎…」
『お前ら持ち場にいないのか! マモレ課から苦情の電話が入ってるぞ! 探索任務で送った人間が進めないって言ってる、早く持ち場に戻って対応しろ!』
「…は? い、いえ、あの…大丈夫です、持ち場におります。…マ…モレ課ですか?」
「こいつ、いつの間に連絡しやがった!」
彼らは、慌てて僕を見た。
僕は告げ口などしていないが、盗聴機は順調に稼働している。峰さんからのクレームが入ったのだろう。順当に予測立てたところに聞こえた、予想だにしない緊張の声。
『最低限に対応しろ、無闇に深入りするなよ。…それは峰の部下だ』
無線機がそう告げた途端に、彼らは弾かれたように僕から距離を取った。
「…え…、あの…」
なぜ。そんなにも恐怖に引きつった表情を向けられているのか。
「了解しました。…おい、さっさと行け」
「あの。カードを」
「馬鹿! カードなんかどうでもいいだろ、早く行け! どうとでもなるから!」
「でも…」
『監視舎ぁ! きちんと仕事をしろとのクレームが入っている、お前ら本当に何をやっとるんだ! 監視課を潰す気か!』
これ以上ないくらい、警備の二人は背筋を伸ばした。
にやにやとした笑いは既にどちらの顔からも消えている。
「カードはこいつで切れる。ここに通せ」
一人が素早く、腰に下げていた携帯端末を外して僕に押しつけた。
言われるがまま、その溝にIDカードを通す。
ピッと小さな音がした。
確かにカードを切るとしか聞いていないが、手続きはこれだけでいいのだろうか。
「…お前、本当にあの峰 アキノブの部下なのか? マモレ課は新人を取る気がないんだろうって話だったのに…よりによって今日の客がマモレ課とはツイてない…」
こそりと耳打ちした一人に、僕は首を傾げた。そのトーンの声でも盗聴機は拾える。
「下の名前は知らないんですが。僕の直属の上司は峰さんです」
「…ぅわぁ。先に言えよ…」
「ヤバイ…死ぬかな…。お前、何とか取りなしておいてくれないか。礼はするから」
絶望したかのようなその様子に、僕のほうがさっぱり事情が飲み込めない。
あまりに怯えているようだから、安心させるつもりで口を開いた。
「…はぁ。仰る方が、僕の先輩なのでしたら…そう心配しなくても。とっても優しいし、よく気を使ってくださる、いい方ですよ。いつもニコニコしてらして」
ついに彼らは悲鳴を上げた。
「やっちまった! もう駄目だ! こいつ、完全に峰のめんこだ!」
「監視っても緑済地の出入り管理なんてやることなくて暇なんだ、こんなガキが来たし、ちょっとからかってやろうって思っただけなんだ、魔が差したんだ! 許してくれ!」
…早いところ、立ち去ったほうが良さそうだ。
彼らが何か口にすればするほど、峰さんに筒抜けなのが申し訳なくなってくる。
「よくわかりませんが、時間が惜しい。事前手続きは以上でしょうか。では、これから緑済地に踏み入りますが構いませんね?」
「ああ。でも、頼むから…」
「峰さんもこれ以上時間を食うほうが嫌だと思うので、ここはもう、何もなかったことに。パラシュートはどこに置けばいいですか」
「お任せ下さい! やっておきます、お帰りまでこちらでしっかりとぉうあっ?」
奪い取られるようにして渡したパラシュート。
予想よりも重かったのか、警備の男は妙な悲鳴を上げて、パラシュートごと転んだ。
…壊れ物でもないし、いいんだけれども。
「…では、お願いします。…十一時二十三分、探索開始。定時連絡まで百十二分、休憩予定地までは徒歩九十五分の見込み。ルート確認、A16内、旧笠区より国道12号跡地へ、続いて道沿いに北上予定」
口に出してから、不思議そうな顔の警備二人を見た。
何を言われたのかわからないという顔をしている。
「…いえ、貴方達に言ったわけではなく。つけられている盗…、通信機がありますので常時僕の行動は課に流れております。現状をお知らせしながら進もうと思っているだけです。別に突然おかしくなったわけではないので、どうぞご心配なく」
それかぁ、と声を上げ、二人はがっくりと肩を落とした。気の毒な気もしたが、こちらも仕事中だ。それ以上言葉をかけずに、僕は監視舎を後にした。
「あのガキおかしい…こんなもの片手で」
「…峰の部下だからな…引きずるな、死ぬぞ」
後方でぼそぼそと聞こえる声。悪口なら姿が見えなくなってからにしてほしい…。
気を取り直して、立入禁止と書かれたゲートを潜った。
アスファルトが砕けた道はなかなかに歩きにくい。
こうして改めて見ると、当時植物の脅威がいかに深刻であったかがわかる。
見渡す限りの植物。
道路標識に巻きついた蔓。大きく成長した木々に遮られ、空が狭い。建物の窓を破って枝葉が飛び出し、どこか不気味さも悲しさも、ある。けれど。
風に葉が揺られて、さわさわと音がする。鳥の声がして。何だか少し気持ちがいい。
もう何年も、グレーの街並と、ガラス越しの植物に囲まれていた。
周りの人間は管理された植物に対する安心と万一への不安を抱え、いっそ居住地からは植物を排除すればいいとさえ口にしていた。ただでさえ緑の少ない地で、強化ガラスに覆われた植物を見る度に、どこか僕の心までも管理されたように感じていたんだ。
きっと、僕は根っからの田舎者なんだろう。
ここまでの自然とは共存できなくても、人工物の中だけでは息苦しい。
知らず、口の端が上がるのを感じた。
「地形の隆起や分断、アスファルトの破損が多く、普通車両の乗入れは困難。破損が多いというか、無事な部分のほうが少ないです。もし今後車両を持ち込みたいのでしたら、まずオフロード車でないと…それでも…やはり自衛隊と協力した方がいいかもしれませんよ。軍用車なら得意分野でしょう」
つい、盗聴機向こうの峰さんに語りかけてしまった。
返事は当然だが、ない。僕が通信機を設置するまでは双方向での連絡手段はない。緑地内の鉄塔類は使い物にならないので携帯電話の電波も届かない。
盗聴機は繋がるように、僕がソーラーパネルつきの中継器を配備しつつ進むので、音が届かなくなってきたら峰さんが遠隔操作で切り替えつつ盗聴を続けてくれるはずだ。
緑地の調査は、マモレ課でなくとも行われている。
政府が予算をあげた正式なもので、それでも未だ原因の解明には至らない。
そしてA16までは、政府は手をつけない。
理由は簡単、首都東京に近い、それも陸続きの緑地のほうが、日本にとって危機であり脅威だからだ。北海道は早期に緑に飲まれた土地でありながら、政府調査の対象外で。立入禁止命令なんて…解除の見当もつかない。
「…わぁ…。凄い。信号機が植物に引き倒されて…。…どこかで電気系統が生きています。機械の音がする。漏電から発火に至る可能性あり。目的相違のため位置特定せず」
もしも火事になったら監視舎で対応するはずなので、僕は僕の任務を遂行しよう。
崩れたアスファルトを踏みしだきながら、道路の跡を辿る。
破れたガードレールと壊れた防風柵がまとめて植物に縛られている。
体力に余裕もあるし、荷物もそこまで重くはないので、僕の歩みも軽い。緑のせいか空気は少し冷えていて、湿度も保たれている。緊張感のない考えだけれど、ハイキングには良い気候と言えた。
適度に水分補給をしながら道を進み、予想よりも少し早く休憩ポイントに到着することができた。
一旦荷物を下ろし、通信機を広げる。
アンテナの角度を調整、ソーラーとバッテリーを確認。よし。
一つ頷いて、相手方へ呼び出しをかけた。初回の報告だ。
『はい、峰です。順調そうで安心したよ。聞こえているのに定時連絡をさせて悪いけど、これは当任務遂行上の規定だから我慢してね。それから、色々と報告してくれてありがとう。緑地調査がメインじゃないとはいえ、緑地の情報はなかなか得られないから、助かるよ。引き続きお願いしたい』
「いえ、そんな。少しでもお役に立てれば。あ、監視舎ではありがとうございました」
『あぁ…。どうしてやろうかね、監視課』
どうする気なのだろう。
いつものようには顔が見えないだけに、何だか今の峰さんは僕の知らない表情をしていそうで怖い。話題を変えてみようにも、何の話をしたら…。
「いえ…誰も来ない森を日々見守る彼らの不満もやや理解できます。あ、そうだ。峰さんは本当に彼らが言っていた、アキノブさん、だったんですか?」
『そうだよ。ミネ アキノブです』
あんなに怖がられているのはやはり、峰さん本人らしい。
証明されてしまったか。
「そうなんですね。では峰さんの名前も、由来は季節の秋なんですか?」
『うん、僕は秋生まれなんだ。禾偏の秋に延長の延で秋延って書くよ。だけど、僕もってことは…ミチカ君って四季に関係した名前だったんだね。一体どこに季節が入ってるの?』
言われて思わず、まばたきをした。
思い返すと、確かに僕は「峰さんも」という言葉を使った。けれど。完全に無意識だった。
僕は自分の名前の漢字が、書けないまま施設に送られた。
名字は表札で見た記憶を頼りに漢字を探し当て、書くことができるようになったが…名前の漢字は覚えることなく身寄りをなくしてしまったので、引き当てようがなくて、今もカタカナを使用している。
「…わかりません」
『えぇ?』
「いえ、その…確か、晩夏とか残暑とか、もうすぐ秋、みたいな…そういう由来だと聞いた気がするんですが。自分の名前の漢字までは覚えていなくて。何がミチカの音に当てはまる漢字なのか、わからないんです」
『…うぅん。満ちるに夏…とかかな…でも、これだと夏真っ盛りって感じする?』
僕なんて真っ先に浮かべたのが道加だ。
季節の欠片も入ってない。満夏も思いつかなかった。
「忘れてしまっていることが多すぎて。ここに来られたら、何か思い出すんじゃないかと、少し期待もあったんです。…だから僕、ずっとA16へ来たくて…」
口にしてしまってから、慌てて弁解する。
峰さんはいい先輩だけれど、僕はそれに甘えてしまっているのか、何だかすぐに失言している気がする。気を引き締めなければ。
「すみません、任務中に。ちゃんと仕事はします、そのつもりです。頑張りますから」
『…大丈夫だよ、まだ始まったばかりだから。君の記憶も、任務もね。希望は叶うに越したことはない。…あ、ねぇ。さっきの監視舎の奴の話なんだけど』
「え」
蒸し返されるとは思わず、つい背筋がぴんと延びてしまう。
何か復讐方法でも思いついてしまったのかと戦慄する。しかしかけられたのは、予想とは全く違う言葉だった。
『何度録音を聞き直しても「めんこ」だけ意味がわからない。ミチカ君は峰のめんこだから、絡んではまずかったという発言だった。でも、面子…っていうと昔の玩具しか思い浮かばない。アクセントが先頭だったし、内容にも合わないから別物だろうし…音自体の聞き違いかなとも思うんだけど、どうにも他に思いつく単語がない。…彼らが本当はなんて言ってたか、わかるかな?』
「…ああ…。方言混じりなんだと思います。確かめたわけではないですけれど…」
僕もすんなり流してしまっていた。
確かに、あちらではあまり聞かない言い回しだ。
「『めんこちゃん』の意味だと思いますよ。めんこいって方言があるでしょう、可愛いって意味の。動物や小さい子にも「よしよし、いい子」って感じで「めんこ、めんこ」って使うから…可愛がってるだとか、お気に入りの奴って意味だと思います。…道民は入植者の方言が入り交じって色んなことになってますから、北海道限定の言い回しということでもないのでしょうが…」
『…めんこ…ちゃん…?』
「あ。べ、別にそんなことはないですよねっ、大丈夫です、わかってます」
相手の呟きが「解せぬ」と言う音を秘めているように聞こえた。
羞恥に声が裏返りそうになるのに耐える。
峰さんは僕がお気に入りの後輩だってことですよ、と言い切ってしまったみたいで随分と図々しい。もっと上手く説明することはできなかったのか…。
「ぁあの、彼らはきっと何か勘違いしてるんですよ。帰りにでもちゃんと、峰さんはいい人だってもう一回話してみますから」
『あ、いや…えぇと。それは色々と不都合が生じるからやめておこうね。確かにミチカ君はめんこちゃんだから、いいんだ。でも…変わった言い方だよね…方言かぁ…成程ねぇ…それは思いつかなかったなぁ…悔しい』
ぎし、と椅子の軋む音が聞こえた。
もしかして峰さんは、あれから一時間以上も『めんこ』の意味を考えていたんだろうか。何回も録音を聞き直したと言っていたし…。気になると追求しないと気が済まないのかもしれない。研究者だけに。
「峰さん、そろそろ休憩を終了します」
『あれ、まだ5分も経ってないよ』
「キャンプの位置を2ヵ所で迷っていまして。到着できるなら、少し遠いポイントが望ましいんです。そうしたら明日には予定地にすぐ拠点を置けて、早く探索に移れる」
『…それは…こちらとしては嬉しいけど。くれぐれも無理しないでよ。無茶して倒れたら、探索もそこで終了になっちゃうからね』
僕は了承し、通信を打ち切った。
街灯などない。日が暮れてしまえば足元がまるで見えなくなることは予想がつく。
次の定時連絡は十七時十五分。
そこでキャンプしてしまうか、まだもう少し進めるのか。
希望ポイント到着は順調であれば十八時半…テントを張るまで日が落ちずにいてくれればいいけれど。