03、或いは羆
逃げろ。生きろ。
その言葉に疑問を抱いた。
「逃げてどうします。生きて、どうします…。…僕は死にませんよ。恐らく、軍に僕を殺すことはできない。そんなことより貴方達を守ることのほうが大切でしょう。貴方達は簡単に死んでしまう」
それに、ここには彼らの研究の成果がある。
既に追い詰められた状態の僕らだが、ここを守らねば。
逃げろ。生きろ。
しかし言葉は繰り返される。
彼だけでなく、彼女もそう言う。傷ついた身体に、爛々とした目で、彼らは僕に生きろという。
疑問が解けたわけではなかった。
ただ、彼らがこの場所を守るより、僕に逃げてほしがっているということだけは理解できた。繰り返される言葉は。多分、願い。
貴方達と共に生きようと思った。
なのに、貴方達を置いていくのか。
…何のために。僕は。
「…わかりました。いつか。…また」
未来のない約束を、そっと残した。
二度と会うこともないであろう彼ら。もしかすると、今の言葉も、既に届かなかったのかもしれない。
「…僕らのしたことに、意味はなかったのか。期待をさせただけで。僕らの過ごした時間に、意味はなかったのだろうか…」
扉をくぐり抜け、出口を目指した。
ここにいるのは僕が最後だ。
梟も、狼も、もう逃げた。彼らは強かだ、きっと上手く生きて行ける。
犬は死んだ…皆で、何とか殺して、埋めてやった。
犬には、どうしても共に逝きたい人間がいたのだ。だが犬でさえ、ああまでしないと死ねなかった。
猫は…どうしたのだろう。
気づいたときにはいなくなっていた。強がりの多い子だから、少し、心配だ。
蛇は…いや、あの人は元が僕らとは違う。困ることはないだろう。
「あ」
「…動くな! おい、研究者か。答えろ。実験体はどこにいる!」
廊下で出くわした兵士は、銃を突きつけながらそう言った。
不思議と、微笑むことしかできなかった。この国の兵士。守ろうと思った人達。けれど今、彼らは僕を狩らねばならなくなった。
何もおかしなことはない。
これは、過年来の正しい関係だ。
「僕がお探しのものだと思います。捕まるわけには、いかないのですけれど」
「…なに…お前、が?」
相手は、怯んだようだ。
書類上目にした、或いは伝聞として聞いていただけだったのだろう。
動物と人間を混ぜ合わせ、合成生物を作り出す研究所。表向きは、そういう場所だ。
「戦争は終わってしまった。僕らが戦う理由は、なくなってしまった。残念です。勝たせてあげられなくて。本当に残念です。けれども僕らが兵に志願して、その上で負けた戦だ。敗戦の上に日本を生かす未来が…きっとより良い未来だったのです。信じるしかない」
「…手を…上げろ、ぅ動くな!」
「貴方を殺しません。だけど共に過ごした彼らの願いです。僕も、捕まりません。殺されません。…ごめんね。戦後の日本を作るためには…一緒に戦えない。僕は人間ではないから、人間の社会を作るためには戦えない」
「…上げろよ、手をぉ!」
兵士は声を張り上げた。
いけない、他の人間が集まってしまう。バタバタと増えた気配は前方にも。後方にも。進むも戻るも、これでは難しい。幾人かは殺さなくてはならなくなるだろう。ならば。
横壁に、拳を叩きつけた。
ひしゃげた鉄筋に弾かれて、思ったよりも多くの破片がこぼれ落ちた。手で払って、鉄の棒を引き曲げる。壊して出るには少し手間だ。さすがに民家とは作りが違う。
だがさして経たずに抜けられる程度の穴はできた。
目の前の兵士が、目を見開いている。
瞳の中に溢れた、色濃い恐怖。
本来、僕らの関係とはこういうものだった。
元に戻すだけだ。今、少しの間、元に戻すだけ…ここから離れてしまえば、また…。
「…化け物!」
銃弾が駆け出す音は、何度聞いても耳に痛い。けれどもこれでは僕を殺せない。何度も何度も、あんなに教えてあげたのに。人間は何年経っても、別の個体と出会えば僕との関係を一からやり直す。
それは僕らの存在が今の人間社会に浸透していないということ。
昔話、おとぎ話、そんなものでしかないということ。
でも、多分、それでいいんだ。
土煙の中、四つ足で走りそうになるのを堪えた。焦ると野性が出そうになる。目立つ行為は却って敵を増やす。殺したくないのなら、異質を飲み下して同化するよりない。
木々の中へ駆け込んで。遠くなる追っ手の気配を数えながら。
街へは寄らずに北へ帰ろう。人間達は自分のことで手いっぱいだ。煩わせたくはない。
日本の中心は面白い場所ではあったが…やはり僕には、北の山がいい。しばらく帰れずにこちらで過ごしたけれど、元々僕が守りたかったのはあの北の大地だ。
無事だろうか。故郷だけは攻められることもないと信じていたが…条約が破られることの、なんと容易いことか。人が鬼と化すことの、なんと容易いことか。
狭い国で共存しあう僕らには、異国との競り合いなど土台無理な話だったのかもしれない。
僕らは何事も守りたがる。異国の人々は何事も攻めたがる。
どちらが悪いのではなく、それはただの相違だ。
日本はこれから、変わらねばならないのだ。…そのために、必要な敗戦だった。こんなにも全身全霊をかけて挑み、幾多の命をこんなにも惨く奪い、結末として負けることが、…必要だったんだ…未来の、ためなんだ…。
「…未来に繋がるんだ…そう信じなきゃ…いけないんだ…。もう終わってしまった。覆らない。始めから、もう僕らの力だけで戦える時代ではないと、知ってはいたはずだ…」
軍の上層のことなど、何も知らない。
ただ、僕が出会った誰もが、何かを守るために戦っていた。自分のためだけに生きていた人なんて一人もいなかった。
だから、共に戦いたかった。
歴史に取り残された、人ならざる身をさらしてでも。この国を守りたかった。
どうせ独り、ゆるりと滅びゆくだけの僕は。
せめて、貴方達を守りたかった。
…ただ、守りたかった…。