仕切り直して。
何もかもがもうどうでもいい。
そう思ったのに。
ビーッと甲高くて耳障りな音が鳴った。
耳鳴りじゃない。ビープ音。
何も考えたくなんかないのに。胸の中が騒ぎ出す。意識がどうしても引っ張られる。
この音は何だっけ。
焦燥に駆られる音。
「どうしよう。こんなつもりじゃなかったのに…ミチカ、壊れないで下さい。貴方、結構飄々としていたじゃないですか。だから大丈夫だと思ったのに…あぁ、何ですか、こんなときに、うるさいです。こんなものの扱いはわかりません」
早く止めないといけないと、気が急く。
無機質で無粋な。
任務中にしか聞こえない音。
これは。
「…呼出し音だ! 通信…、どうして?」
慌てて身を起こした。
驚いたような陸衞さんと目が合った。
「ミチカ!」
「はい。あ、ちょっと待って下さいね、通信機が鳴っていて…、…っと、はい、盤乃沢です。峰さん、どうされましたか」
急いで通信を繋ぐ。何か急用だろうか。
そう思う僕の耳に飛び込んだのは、深い深い溜息の音。
「…峰さん…?」
『うん。やっぱりね…出ると思ったよ。本当はこちらからの通信は控える予定だったんだけれど…状況が状況だけに仕方ないよね』
「…えぇと…、何か…ありましたでしょうか」
そういえば、僕はどうして陸衞さんに腕を掴まれているんだ。
力が強すぎるな、若干痛い。
それでも表情を見るに、何か意図があって彼はこうしているはずだ。
首を傾げて見せると、相手は僕の腕を離した。
さっき飛び起きた…ということは、僕は今まで横になっていたのだろうか。
そういえば、右側頭部に鈍痛を感じる。
『僕も状況確認をしたいところだ。ミチカ君、君は任務中に昏倒するという失態を犯した。仕事中に、そんなことでは困るな』
「えっ? あの、…あっ…」
驚いて僕は思わず陸衞さんを見る。
困ったような相手と…周囲の木々。
ここが建物の外であることに気づいて、ようやく僕は理解する。確かに僕は失態を犯したようだ。
通信機に向かって謝罪を呟く。
「本当…、あの…申し訳ありません」
『君にはまず十五分の休憩を与える。その間に陸衞君に状況確認を行いたい。あわせて配属についての詳細を話すから、会話が聞こえない位置まで下がりたまえ。君にはそれを聞く権限がない』
「はい。了解しました」
ちょっとしょんぼりしながら僕は立ち上がった。
やってしまった。どうして昏倒なんて…個人宅で突然昏倒するような事態とは何だ。
ガスでも充満していたとか?
一酸化炭素…それともプロパンガス?
たまたま金属の摩擦が起きなかったから爆発には至らなかったが、可燃性でないとは言い切れない。臭いにも気付かないほど散漫としていたのなら、叱られても仕方のない話。
あぁ…紛うことなき失態だ。
不安そうな陸衞さんを見て、何とか笑顔を作る。
「大丈夫ですよ、峰さんはいい人ですから。僕ちょっと…十五分間ここを離れますので、この機会にどうぞ必要なことは確認しておいて下さい。通信機はですね、ここを押して話すと相手に聞こえます。相手が話しているときには押しちゃ駄目ですよ」
「ミチカ」
「はい」
「ごめんなさい。ごめんなさい、ミチカ」
「えぇ? ど、どうしたんですか」
思いも寄らない言葉に、目を見開く。
もしかして通信機で話したくないのだろうか。
軍属していたと聞いていたのけれど、使ったことはないのかな。
「通信機、お嫌ですか? 僕、もしも今席を外さないほうがいいのなら…必要な話は後でしてもらうことにしましょうか? …ぅ」
長い腕が伸ばされて、僕の頭を抱え込む。
恐怖で武器を取り出しかける自分を戒めて、僕は浅く呼吸を繰り返した。
大丈夫。敵意はない。
一般人はこれくらい、耐えられるはず。
あぁ、これがもし敵なら、施設の同期や上司なら、標的なら、…また僕は死んでいる。
「怯えた匂いがします。僕のせいですか」
僕を抱え込んだ腕の力が頼りなくなったので、反射的に首を振った。
また峰さんに筒抜けになってしまうが…仕方がない。
せっかく僕に期待してもらったというのに、無能さをさらしてばかりだ。
「僕、あんまりこう…物心ついてからの記憶においてこういうことに慣れていないので。人と近いのが得意じゃなくて…それだけです。施設でなら自殺行為だと…どうしても、そう考えてしまって少し緊張します。でも、決して貴方が嫌なわけじゃないんです。これは僕の問題です。小心者で申し訳ないです」
はっと息を飲む音がした。降ってきた声は少し気遣うような色をしている。
「そう…だったんですね…。気がつかなくてごめんなさい。僕はつい頭を撫でたり抱きついたりしてしまっていましたから…」
言う割には一向に僕を解放する気配のない腕が可笑しくて、僕は少し笑った。
してしまっていたのではなく、未だ継続中です。
「あ、いえ。一般人ならできるはずのことですし、それならば僕もできないといけないので…こういったことに慣れるにはもうちょっと時間がかかるかとは思いますが、気にせずにいていただけたらと。…あの…峰さんとお話、できそうですか?」
問いかけると、頭上で彼は頷いたようだ。
しかし僕を抱えた手は離れず、僕の視界は相変わらず陸衞さんの腕しか見えない。
「…ミチカをここに…側に置いていてはいけませんか? 今離れるのは心配です…」
小さくボタンを押した音が聞こえたから、僕でなく峰さんに当てた言葉なのだとわかる。
通信機はうまく使用できたのだろうか。
しばし経っても峰さんからの返事がないので、僕は口を開いた。
「…陸衞さん、ボタンから手を離していますか? 喋るときだけ押すんですよ、でないと向こうの声がこちらに聞こえません」
こちらの意図を伝えたいなら、呟くだけで全て聞こえているんだ。通信機は実質『定時連絡が正しく行われた』という記録と、峰さんの言葉を僕が聞くためだけに過ぎない。
「あ。そうなんですね、ごめんなさい」
「あと…前が見えないのですが」
「そうですね。それは仕方ないです」
「…ええぇ…そんな…」
ボタンは離したようだが、僕を離す気はなさそうだ。
間を置かずに笑いを含んだ峰さんの声が聞こえる。
『ミチカ君は大丈夫だよ。少なくとも今はね。ちゃんと説明をするから、先程言ったようにしてほしいな。心配ならミチカ君の腰にロープでも括っておいたら?』
「嫌ですよ、犬じゃないんですから」
「えっ、…駄目…なんですか…」
心底残念そうに聞こえたので閉口する。
括るつもりだったのか…僕を何だと思っているんだ。
心配してくれているのはわかるけれど、何とかしないと。相手が離すまで待つつもりだったけれど、それではどうもいけないらしい。
陸衞さんの腕から抜け出ようと動くと、相手は慌てたように力を強めた。
額辺りに急激な締めつけ。
割と痛い。孫悟空の気分。
「…陸衞さん、本当にもう大丈夫ですから、離して下さい。あと、結構痛いです」
「困ります、ミチカ」
「困るのは僕です。任務中なんです」
「でも。…やっぱり駄目です」
力を緩めようとする意識と、無意識に強めようとする葛藤が腕から伝わる。
しかし時間は有限だ。
彼が妥協できないのなら、僕が妥協するしかない。
「…では。ロープではありませんけれど似たようなものの片側をお渡しします。僕の腕に繋がります。それでよろしいですか?」
陸衞さんの腕と僕の頭の間にようやく空気が入る。
わぁ、涼しい。新鮮な空気だ。
思わず深呼吸した。
閉ざされていたせいで青みがかって見える視界に目を慣らしていくと、既に陸衞さんは手を出して待っている。
仕方なく、僕は右手首の装備から細い鎖を伸ばした。
正直あまり人手に渡したくはないのだが、会話が聞こえない程度まで離れるためにはそれなりに長さが必要だ。今回、そこまでのロープは所持していない。
「伸びるなんて、変わった腕飾りですね」
のんびりと言われて、思わず突っ込む。
「武器ですよ! 細くても丈夫な鎖なんです、これは鋭利ではないですが、それでも扱い方ひとつで怪我をしますからね」
「そうなんですか?」
「そうなんです。鎖の先に刃をつけることもあります。…これは反動をつけて扱うものです。弾みがつくと危ないですから、あまり引っ張ったりしないで下さい。…じゃあ、離れますね? 言ってるそばから無闇に引っ張らないで下さい…もう…」
しゃらしゃらと鎖を振って、陸衞さんは僕の手首にそれが繋がっていることを確認する。
鎖は人間の身体より丈夫だ。
これは、下手をすると僕の腕がもげるかもしれない…少しそんな覚悟も視野に置いて、僕は陸衞さんと通信機から距離を取った。十分に離れてから、大きく腕でマルを作って見せる。
陸衞さんが鎖を引きながら、僕に背を向けて通信機を使い始めた。
声は聞こえない。
万一音が届く位置ならば、盗聴機で峰さんにも聞こえるだろうから、注意されないのなら大丈夫だということだろう。
地べたに腰を下ろして、僕は溜息をついた。
どうにも混乱している。何が起きたのかを整理しようと思っても、僕にはリビングへ下りたところまでしか記憶がない。どの段階で頭をぶつけたんだろう。
「…嫌だな、僕…役立たずだ…」
自分の無能さは知っているが、これは落ち込む。
ごり、とポケットの中で固い手応え。
取り出してみると、それはブリキの猫だった。
あぁ、そういえば、拾ったんだっけ。
猫の前足に挟まれたボールを、指先で弾く。ボールに描かれた赤や青のラインが、錯覚で不思議な模様に変わる。軽い音を立てて回るそれに、ちょっと癒された。
「うわ」
急に右手が引っ張られた。
バランスを崩した僕は、立て直せずにその場で横倒しになった。
陸衞さんが鎖を引っ張ったんだと気づいて、少しむっとする。武器だから、本当に危ないのに。
よく聞こえないけれど、向こうで僕を呼んでいるようだ。
「あんまり引っ張ったら駄目だって言ったじゃないですか。怒りますよ…って、全然聞いてないし、なんで手繰るんです! 僕を引きずる意味がわかんないです! あぁ、作業服が汚れる、陸衞さん、汚れるから! …もおぉ、意外とせっかちだなぁ…」
仕方がないので跳ね起きた。
引かれる鎖より早く走るしかない。手繰り寄せた鎖を足元に垂らして、陸衞さんが笑う。
「良かった、元気そうですね」
僕は思わず吹き出した。
いやいや、元気では全くない。仕事でミスをして落ち込んでいたし、服は汚れてしまった。陸衛さんはちっとも僕の言うことを聞かない。念の為の装備も人前に晒す羽目になって。いいとこなしだ。
でも、むしろ今、笑ったせいでちょっと元気になったかもしれない。
「…はい、まぁ…、お陰様でね」
全く状況に頓着してくれないその様子には、笑うしかないよね。
相手の手から鎖を回収し、後方へと投げる。
周囲にぶつからないように気をつけて反動をつけ、装備の中へ収納した。見ていた陸衞さんが小さく拍手する。
「動きが鞭みたいですね。初めて見ます」
「ポピュラーではないみたいですね。僕はあまりリーチが長くないので、試しにと施設で勧められて以来使っています。僕には合っているみたいです」
「ほう。この武器には名前があるのですか?」
ちょっと躊躇ってから、僕は答えた。
「正式名称なのかはわからないですが…僕は三味線だと聞いています」
外から講師を頼む程度には、周りに扱える人間がいなかった。
施設が何を思ってこれを僕に勧めたのかに至っては、さっぱり不明だ。
「…鎖なのになぜ三味線なのでしょう?」
「三本入っているんです。特注で鎖の数を四、五本にすると琵琶になるそうですよ。三本だと平気ですが鎖が増えると収納部が膨らむので、琵琶のように丸みを帯びるそうです」
「成程。ミチカはそうしないのですか」
「僕には片手で鎖を四本とかはちょっと扱いにくいですね。この辺に丸く出っ張られても邪魔ですし…左にも予備があるので、手数的にはそれで大体間に合ってます」
答えた途端に左手を取られた。
遠慮なく僕の袖を捲った陸衞さんは納得したように頷く。
一応隠してある武器なので、そうそう露出はしてほしくないのだけれど…。
左手は腕時計を付けたいので、装備は手首よりも奥に留めている。その分、右の装備よりも鎖は長めに巻き、先端パーツも数種多く収納してあった。
「陸衞さんはどんな武器が得意ですか?」
おっとりとした雰囲気や見た目から、どうにも銃やナイフを使う彼を想像しにくくて。
だが、かけた問いには、意外な答えが返ることになる。
「僕は武器を使うより、腕を振り抜くほうが得意です。熊なので」
「…す…、素手ですか」
「人の頭くらいなら簡単に飛ばせますので、特に不便を感じたことはありませんね。手加減が必要なら武器を使うこともあります。あ、ミチカ、安心して下さいね、この姿のときは噛みつかない予定ですから」
どこか恥ずかしげな顔をしてそんなことを言う。
…イメージはどうにも裏切られ続けている。




