悪役令嬢のお気に入り
「アイリス、おまえを糾弾する!」
王都の学園にある煌びやかなパーティー会場。婚約者である王太子殿下の場違いな怒鳴り声を聞きながら、わたくし――アイリス・アイスフィールドは衝撃を受けていた。
たったいま、前世とおぼしき記憶を思い出したからだ。
かつてのわたくしは、魔術が発展した隣国、レムリアの王族だった。
その記憶を取り戻したわたくしはとても興奮した。
科学の代わりに魔術が発展したレムリア国と、魔術の代わりに科学が発展したリゼル国。両国の技術を上手く融和させられれば、国をより豊かに出来ると気が付いたからだ。
だけど、わたくしがなにより驚いたのは別のことだ。
前世と呼べる『私』――シャルロッテが生まれたのは大陸歴206年であり、『わたくし』アイリスが生まれたのは大陸歴200年。
この記憶がたしかなら、わたくしは過去に遡って別人に転生していることになる。
普通に考えればあり得ないが、学園で学んだレムリアの歴史と、レムリアで過ごした前世のような記憶に矛盾点は見られない。とても妄想とは思えないほどに鮮明な記憶が甦っている。
私――シャルロッテはレムリアの国王の孫娘だった。
幼くして両親を失った私は、国王である祖父の指示で厳しく育てられた。友人を作ることも許されず、ただひたすらに国に尽くすために必要な知識や技術を身に付けていった。
それを不幸だと思ったことはないし、お爺様を恨んだこともない。両親を失った私は後ろ盾に乏しく、自分の地位を護るためには実績が必要だったから。
だけど、国王が予期せず崩御したことで私の運命は大きく変わってしまった。
次期国王の妻となるはずだった私はまだ幼く、結婚相手も決まっていなかった。お爺様が私の教育に力を入れていたこともあり、歴代最年少の女王になってしまった。
だけど、当時の私が学んでいたのは王妃としての立ち振る舞い。政治に疎かった私は臣下達に助言を求めながら、必死に政策を進めていった。
急務だったのは、国王を失って衰えた国力を回復すること。より多くを救う為に、少ない弱者を切り捨てる判断を下した。
もちろん安易な決断を下した訳じゃない。考えて、考えて考えて、だけど他にどうしようもないと唇を噛んで、少数派である弱者を切り捨てていった。
その甲斐あって、国は少しだけ豊かになった。この調子ならきっと多くを幸せに出来る。そう思っていた矢先、大規模な飢饉が発生した。
皆の力を合わせてこの危機を乗り越えなくてはいけない。そう声を張り上げたけれど、弱者を切り捨て続けた私の言葉は皆の心に響かなかった。
そんなときに立ち上がったのが従兄のクリフだった。
友達を持つことも許されなかった私にとって、従兄はただ一人、心を許した相手だった。だけどある些細な出来事を切っ掛けに疎遠になり、それっきり。
そんな彼が周囲に望まれ、民心を失った私を王座から引きずり下ろした。
『出来ることなら、おまえと共に歩みたかった』
それは、彼が私に掛けた最後の言葉。
叶うことなら『それは私のセリフだよ』って戯けて仲直りしたかった。だけど、既に多くの血を流していた私達には決して叶わない夢物語だった。
私は投獄され、リゼル国――つまりは、いまのわたくしが暮らすこの国へ攻め込むことが決定したという噂のさなかに、かつての私は処刑された。
つまりは、このままだと戦争が起きる、ということ。
冗談じゃない。
レムリアは魔術が著しく発展した国だが、科学技術や国力はリゼルの方が上。二つの国がぶつかれば、両国に決して消えない傷跡を残すこととなるだろう。
そんな未来は受け入れられない。
いまのお父様はもちろん、前世のお爺様や従兄、叶うなら両国の民だって助けたい。それになにより、わたくしは報われなかった前世の私を救いたい。
それが出来るのはきっと、前世の記憶があるわたくしだけだ。
だから――と、わたくしは必死に頭を働かせた。
歴史を変えるにはいくつかのポイントがあると思う。
特に重要なのは、シャルロッテとクリフの確執を未然に防ぐこと。
二人がすれ違うことで、同じ志を持ちながら国を二分することになってしまう。それを未然に防ぐことが出来たのなら、手を取り合って困難に立ち向かえたはずだ。
次に国王――つまりはシャルロッテの祖父の予期せぬ死を防ぐこと。
国王が予期せず亡くなったことで、後継者争いを始めとした様々な問題が噴出して、シャルロッテが王位に就くまでのわずかな期間に国が大きく荒れた。
その未来を変えることが出来れば、多くの問題が緩和されたはずだ。
そして最後に、飢饉を始めとした災害を防ぐこと。
これが直接の原因で、レムリアはリゼルへと攻め入ることとなる。飢饉を防ぐ、もしくは飢饉に備えることが出来れば、両国の戦争を未然に防ぐことが出来るだろう。
細々とした問題は他にもあるが、いま挙げた問題に比べれば些細な問題に違いない。そして差し当たって重要なのは、シャルロッテ殿下とクリフ殿下の確執を防ぐことだ。
順番でいえば、これが最初の切っ掛けとなる。
だけど、わたくしはリゼル国の公爵令嬢。
いずれは大きな影響力を得ることが出来るかも知れないけれど、それはいまじゃない。かといって、公爵令嬢であるわたくしがレムリアに渡ることなど出来ない。
なにか、方法を探さないとね。
「おい、アイリス。聞いているのか!」
「もちろん聞いておりますわ」
王太子殿下に問い掛けられたわたくしは、前世にまつわる問題を後回しにする。わたくしが考えを巡らせているあいだにも、彼はずっとわたくしの糾弾を続けていた。
どうやらわたくしは、ミーナという男爵令嬢を暴漢に襲わせたらしい。それに対する状況証拠などがさきほどから並べ立てられていた。
「申し開きがあるのなら言ってみろ!」
「申し開きもなにも、まったく身に覚えがありません」
「とぼけるのか! 謝罪くらいしたらどうなんだ!」
「そうですっ! あたし凄く怖かったんだから、謝ってください!」
王太子殿下の背後に護られていた娘が同調して詰め寄ってくる。王太子殿下の権力を笠に着る彼女の態度はあまりにも愚かで、思わず溜め息が零れそうになった。
「貴方はたしか……王太子殿下の愛人だったかしら?」
「ふざけるなっ! ミーナは俺の恋人――っ」
「あぁ、そうそう。恋人でしたね」
彼がとっさに飲み込んだ言葉を、わたくしは周囲に聞かせるように復唱した。
公爵令嬢にして婚約者。そんなわたくしを差し置いての恋人発言に、周囲で見守っている者達からざわめきが上がり、王太子殿下は慌てて誤魔化すように咳払いをした。
「と、とにかく、おまえが暴漢を雇ってミーナを襲わせたのだろう!」
「なぜわたくしがそのようなことを?」
「貴方に指示されたって、あたしを襲った暴漢が言ってました!」
「では仮に、貴方に指示されたとわたくしが言えば、貴方の自作自演になるのですか?」
そんな証言はなんの証拠にもならないと揶揄したのだが、ミーナは「意味分かんないこと言わないでください!」と声を荒げる。
その意味が分からないことを自分が言っている自覚はないのかな?
「おまえはミーナと俺の仲が良いことを知っていた。だから俺を奪われることを恐れ、彼女に暴漢を差し向けたのだろう?」
「……はい? わたくしと貴方は政治の都合で婚約をしただけではありませんか。それとも、わたくしが貴方に想いを寄せているように見えたのですか?」
婚約者としての義務は果たしていた。
だが、それ以上の感情を向けたことはない。なにか勘違いさせるようなことをしてしまっただろうかと困惑していると、王太子殿下の顔が真っ赤に染まった。
「そ、そういう意味ではない! 王太子妃という地位を奪われると、恐れたんじゃないかと言っているのだ!」
「……地位ですか? それだって有り得ませんわ。ミーナは男爵令嬢ではありませんか。彼女では、貴方の後ろ盾として弱すぎますもの。少し考えれば分かることではありませんか」
彼が王太子の地位にあるのは、わたくしとの婚約で後ろ盾を得たからだ。男爵令嬢では、彼を王太子として留めておけるはずがない。
それにわたくしは、王太子の婚約者になった訳じゃない。第一王子を王太子たらしめるために、アイスフィールド公爵家が後ろ盾である証として婚約したのだ。
婚約を解消して地位を失うのは彼の方だ。
「ええい、うるさいうるさいっ! とにかく、俺はお前が気に入らない。婚約者である俺に笑顔一つ見せず、口を開けば小言ばかりだ!」
「笑顔を見せないのは王太子殿下も同じではありませんか。わたくしと婚約した日、貴方がわたくしにおっしゃったことをお忘れですか?」
アイスフィールド家の後ろ盾が必要だと皆が言うからおまえと婚約するだけだ。俺自身、おまえのことを愛するつもりはない――と、彼はわざわざそう口にしたのだ。
だから政略結婚の相手としての領分を犯さないようにしただけなのに、それを無愛想だなんて言われたらたまったものではない。
「と、とにかく! おまえがミーナを襲わせたことは明白だ。よって、おまえとの婚約を破棄。王太子の名の下、おまえをこの国から追放する!」
そのときの衝撃は忘れられない。
追放――つまりは、この国から外に出られるということ。
いまのわたくしがレムリアに渡れば、かつての自分を救い、クリフに苦渋の決断をさせず、切り捨てることしか出来なかった国民達を救い、戦争を回避できるかも知れない。
「王太子殿下っ!」
「な、なんだ? 言っておくが、今更謝っても許さぬからな」
「婚約破棄と追放、喜んでお受けいたします!」
わたくしは感謝の気持ちを込めて満面の笑みを浮かべた。
笑顔を浮かべるなんて彼の婚約者になって以来だ。まさか、王太子殿下がこんなサプライズプレゼントをしてくれるなんて思ってもなかった。
嬉しい。本当に凄く嬉しい。
「お、おい、見たか? アイリス嬢が微笑んでるぞ?」
「いつも退屈そうにしてる彼女が笑顔、だと……っ」
「って言うか、むちゃくちゃ可愛くないか?」
「あ、あぁ……元から美人だと思ったが、笑うととんでもなく可愛いな」
なにやら周囲がざわめいているけれど、わたくしは気にしない。だってわたくし、いまとても幸せな気持ちだからね。さあ、王太子殿下にお別れを言うよっ。
「アイリス……おまえ、そのように笑えたのか?」
「あら、おかしなことをおっしゃいますわね。わたくしだって嬉しければ笑いますわ。それでは王太子殿下。もう会うこともないと思いますが、ご機嫌よう」
わたくしは上機嫌でカーテシーをして、クルリと踵を返す。
「ま、待ってくれ、アイリスっ!」
「ちょ、殿下? どうしてあの女に見蕩れてるんですか! もう、ダメです! こっちを見てください、殿下。殿下ってばぁ!」
なにやら背後が騒がしいけどやっぱりわたくしは気にしない。報われなかった前世の「私」を救いに行くよと、とても軽やかな足取りで学園を後にした。
屋敷へと戻ったわたくしは、そのまま書庫へと直行した。目的はもちろん、前世と呼べる記憶と、歴史書の差異を調べること。
前世と呼べる記憶――もう前世の記憶と断定して良いよね。いくら前世の私がいまのわたくしより年下だとしても、わたくしの感覚では前世なのだから。
そうしてレムリア王族の家系図を調べたところ、間違いなく前世の私を含め、記憶にある人物達の名前があった。
習っていないはずの名前も覚えているので、わたくしの妄想である可能性は低い。理由は分からないけれど、過去に戻って転生したのは事実のようだ。
そうして色々と確認していると、書庫に公爵家の当主であるお父様が入ってきた。わたくしはすぐに本を置き、佇まいをただしてお父様へと向き直る。
「お父様、このたびはご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「謝罪は必要ない。事情は聞いているからな」
「……どのように噂が広がっているのでしょう?」
「城では、男爵令嬢にたぶらかされた愚かな第一王子が、操られるままにそなたを婚約者の地位から排除したという噂で持ちきりだ」
わたくしは少しだけ安堵の笑みを浮かべた。
それを見たお父様がどこか呆れるような顔をする。
「やはり、か。噂がそうなるように仕掛けたのだな」
「あら、仕掛けただなんて人聞きの悪い。わたくしはただ、皆が真実に思い至るように、さり気なく方向性を誘導しただけですわ」
王太子殿下自身が口にしたのだ。
わたくしを排除して、恋人の男爵令嬢を婚約者にするのが目的だと。
もちろん、彼自身にその自覚はなかっただろう。
だけどわたくしは、王太子殿下に恋慕の情はないと態度を以て示した。
第一王子を王太子殿下たらしめているのはアイスフィールド公爵家の後ろ盾あってのこと。男爵家がどう頑張ったところで、その後ろ盾の代わりにはなり得ないと説明した。
冷静な判断が出来る者達であれば、それが事実だと判断しただろう。王太子殿下が捲し立てたような動機で、わたくしが男爵令嬢を暴漢に襲わせるなどあり得ない。
自らの地位を使えば、婚約者の浮気相手である男爵令嬢を破滅させるなど容易いのだから。
なのに、彼はわたくしが自分の地位を失うことを恐れていると決めつけた。彼自身がわたくしの地位を奪い、男爵令嬢に与えようとしているからに他ならない。
――と、周囲に思わせるように立ち回った。
「まったく、我が娘ながら末恐ろしい。既に陛下から非公式ながら謝罪が来ているが……噂が広がりすぎていて、なかったことには出来ぬ。どうやって事態を収拾するつもりだ?」
「あら、わたくしの要望を聞いてくださるのですか?」
「そなただけは敵に回してはならぬと、私はこの数年で学んだからな。そなたの用意したシナリオに乗るのが一番だろう。だからこそ、そなたの思惑を確認しておきたい」
「お父様にそのように思っていただけるなんて光栄ですわ」
わたくしはクスクスと笑い、「第一王子を切り捨てましょう」と口にした。
「今回の一件を理由に、王太子の地位から引きずり下ろすのだな?」
「はい。第一王子を糾弾し、第二王子を次期国王に推すのです。第一王子の愚かさを知ったいまなら、きっと国王も賛成してくださいますわ」
もともと、第二王子の方が次期国王に相応しいという声は多かったのだが、陛下の希望によって第一王子が王太子に選ばれ、周囲の反対を抑えるためにわたくしが婚約者となった。
その頃は第一王子の評判もそこまで低くなかったのでまかり通ったが、今回の一件で第二王子の方が次期国王に相応しいと誰もが理解しただろう。
ゆえに、第一王子を引きずり下ろすことは造作もない。
「第二王子の婚約者にエリスを推せば、アイスフィールド公爵家も安泰でしょう?」
エリスはわたくしの歳の離れた妹で、第二王子とは歳が近い。
そしてなにより、エリスと第二王子は想いを寄せあっている。政治的に許されぬ状況だったので隠していたようだけど、いまなら二人が結ばれることも可能だ。
「ふむ。あの二人であればすぐに話は纏まるであろうな。そのうえ、第一王子の願いも叶う、という訳か。おまえは相変わらず、甘いのか厳しいのか分からぬな」
「まぁ……第一王子の方はついでです」
王太子である第一王子が男爵令嬢と結ばれることなど不可能だ。王太子の地位を維持するのであれば、男爵令嬢を切り捨てた上で、他の有力貴族と婚約するしか道はない。
だけど、王太子の地位から引きずり下ろされ、地方に封じられるようなことになれば、最下級の貴族である男爵家の娘を娶ることも出来る。いまの優雅な生活を失うことになるが、二人の愛がたしかなものならば幸せになれるだろう。
「計画通りに第一王子を引きずり下ろすなら、そなたを追放したという事実を残す必要がある。あとから撤回したとしても、そなたの汚名になるはずだが……どうするのだ?」
「そちらは問題ありません。わたくしはこのままレムリアに行きたいと考えています」
「そなたが国政に関われなくなるだけで痛手だというのに、国を出るなど認められるはずがなかろう。王妃にならぬのなら、アイスフィールド公爵家の当主となれ」
「……お父様」
思わず目を見開いてしまう。まさか、お父様がそこまでわたくしを買ってくれているなんて思ってもみなかった。
その評価はとても嬉しいが、レムリアにいけなくなるのは非常に困る。
「お父様、わたくしはなにも、二度と帰ってこないと言っている訳ではありません。ほとぼりが冷めるまでのあいだ、レムリアで生活すると言うだけのことです」
「いつかは帰ってくる、と?」
「はい。だって、わたくしの愛するお父様は、この国にいらっしゃいますから」
前世の私は幼くして両親を失っている。ゆえに、わたくしにとってお父様と言える人間はこの人だけ。そんな思いを込めて微笑む。
「お、親をからかうものではない!」
「あら、本心ですわよ?」
「そ、そうか……」
お父様はそう言ってそっぽを向いてしまった。
……って、あれ? お父様の耳が少し赤い?
「お父様?」
「ま、まあ、帰ってくると言うのならかまわぬ。だが、なぜレムリアなのだ?」
「かの国の魔術はとても優れていると聞きます。リゼルの科学技術に上手く取り入れることが出来れば、リゼルの発展に貢献できると考えています」
「かの国の魔導具は役に立たぬと聞いているが?」
「それは魔導具をそのままこの国で使おうとしたからだと思います。この国の道具の欠点を魔導具で補うようにすれば、効率は劇的に変わるでしょう」
たとえばこの国の明かりと言えば油によるランプが主流で、隣国の明かりと言えば魔石を用いた魔導具が主流。
魔導具の明かりを持ち込んでも、油の代わりに魔石を消費するだけで利点はない。それどころか、この国での流通量が少ない魔石を使えばコストが高くなる。
だが、科学と魔術を調和させた魔導具を創ることが出来れば話は別だ。科学だけでは出来なかった物、魔術だけでは出来なかった物が作り出せるかも知れない。
「なるほど。そなたに可能性が見えているのならかまわぬ」
「では……?」
「うむ。そなたの望みだというのなら叶えてやろう。レムリアへ行くが良い」
「ありがとう、お父様っ!」
わたくしは喜びを笑顔に映してお父様に抱きついた。
「こ、こら、離れなさいっ!」
「あら、ごめんなさい。お父様があまりに素敵だったから思わず」
「……ま、まったく。我が娘はいつの間にこのような人誑しに……」
「え、なにかおっしゃいましたか?」
「無闇に笑顔で小首をかしげるのやめなさい、と言ったのだ。耐性のない者では、それだけで理性を持っていかれかねないからな」
「お父様の言うとおりにいたしますわ」
意識していなかったのだけど、小首をかしげるのは前世の記憶が原因だろう。
なにがダメなのか分からないけれど、お父様が控えろと言うのなら従いますと言って微笑むと、「まったく分かっていないではないか……」と頭を抱えられた。解せぬ。
「あの、なにかダメだったでしょうか?」
「……いや、ダメではない。ダメではないのだが……まぁ他の者に対して気を付ければ良い。それより、隣国へ行く名目だが……」
「はい、国外追放ですよね?」
「いや、それは第一王子を失脚させた後すぐに撤回させて、名誉が回復するまで隣国で暮らすと言うことにしよう。レムリアにはアイスフィールド家の親戚があるからな」
「なにからなにまでありがとうございます」
こうして、わたくしはレムリアにいる親戚の家でお世話になることになった。
万事恙無く、目標に向けて順調だね。
それから数週間。
第一王子は王太子から失脚し、第二王子がエリスと婚約して王太子となり、わたくしも追放ではなく傷心旅行的な名目で国を出ることとなった。
レムリアにはアイスフィールド公爵家の親戚がいるのだが、父がわたくしの受け入れと引き換えに、親戚であるスフィール伯爵家に多くの支援を申し出た。
そのおかげで、わたくしはスフィール伯爵家に遊びに来た公爵令嬢としてVIP待遇を受けていて、生活水準も以前とあまり変わっていない。
そんな訳で、スフィール伯爵家でお世話になっているわたくしは、とあるパーティーに出席する手配をしてもらった。
王族も出席するそのパーティーこそが、歴史を変えるための最初の転換期。シャルロッテとクリフのあいだに確執が生まれる切っ掛けが発生するからだ。
わたくしはいよいよ、前世の私の運命を変える。
パーティーの当日。
この日のためにしつらえたドレスに身を包んだわたくしは、自慢の青みを帯びた銀髪を揺らしながら、なにもかもが懐かしい王城のパーティー会場を歩いていた。
魔導具による明かりが灯るシャンデリアも、会場に点在する柱の形も、リゼル国ではまず見ることのない光景だが、間違いなくわたくしの記憶と一致している。
わたくしがこの国で暮らした記憶は、もはや疑いようのない事実である。
わたくしにとっては故郷に帰ってきたかのような心境だけれど、他の者にとってはそうじゃない。見慣れぬわたくしに周囲の注目が集まっているようだ。
いまはどこの誰だという囁きに答える声はほとんどないけれど、やがてはリゼル国で王太子に婚約を破棄された、傷物の公爵令嬢だと知れ渡るだろう。
気にする必要はない――とは言いがたい。
シャルロッテとクリフの確執を無かったことにすることだけならこのパーティーを乗り切れば可能だが、国王陛下や飢饉の件の運命を回避するには権力者の協力なくしては叶わない。
いずれは、わたくし自身の名誉も回復する必要がありそうだ。
ただ、それはいまじゃない。
いま重要なのは――と、いた。
ふわりとしたピンクゴールドの髪に縁取られた小顔に、アメジストのように澄んだ瞳。かつて鏡越しに眺め続けた顔の少女が、淡いドレスに身を包んで微笑んでいた。
いまの自分から見て六つ年下。まだ12歳であることも要因になっていそうだが、客観的な視点で見ると護ってあげたいという感情がわき上がってくる。
当時の自分がどれだけ孤独に頑張っていたかを知っているから、かもしれないね。少なくとも、いまの自分と同一人物という認識にはならないようだ。
かつての自分ではなく、別人として認識した方が良さそうだ――と、そんな風に考えながら、かつての私あらため、シャルロッテ殿下と歓談する人々に視線を向ける。
将来、女王となったシャルロッテに仕える貴族達がちらほらと見える。もしかしたら、この頃から、シャルロッテ殿下を女王にするべく影で動いていたのかも知れない。
いま話しかけているのは侯爵家の当主と、その寄子である伯爵家の当主。公爵家の人間とはいえ、家督を継いでいないわたくしがその場に割って入ることは許されない。
だけど、わたくしの記憶がたしかなら――と来た。
サラサラの金髪に縁取られた甘いマスクに優しげな表情を浮かべる少年が、その澄んだ緑色の瞳にシャルロッテ殿下の愛らしい姿だけを映して歩み寄ってく。
……クリフ様、懐かしいなぁ。
友達を作ることすら許されない私にとって、彼と話すことがなによりの楽しみだった。
だからこのパーティーも、彼と踊ることを楽しみにしていた。本当に、この日の私はとても浮かれていて、前日はよく眠れないくらいだった。
そんな彼が、歓談していた者達に断りを入れてシャルロッテ殿下に話しかける。かつての私はこのとき、とてもとても嬉しいと感じていた。
だけど――
「シャル、僕と踊ってくれるかい?」
「えっと、それ、は……その……」
シャルロッテ殿下は視線を彷徨わせた。その拒絶とも受け取れる――否、断り文句を探しているとしか思えない態度に、クリフ殿下の整った顔が強張っていく。
これがシャルロッテ殿下とクリフ殿下の確執の始まり。
「シャル、僕と踊るのは嫌、なのか?」
「そ、そういう訳じゃない、けど……その、ごめんなさい」
クリフ殿下がきゅっと唇を噛んだ。
ダンスを断ること自体はそれほど失礼ではない。
けれど、シャルロッテ殿下とクリフ殿下は従兄妹の関係でとても親しくしていた。会える時間が限られているからこそ、クリフ殿下も今日という日を楽しみにしていたはずだ。
なのに、こんな風に拒絶されては、恥をかかされたと思われても無理はない。
王族同士の会話で、周囲が注目しているのだからなおさらだ。思ってもいなかった恥をかかされたクリフ殿下の顔が赤く染まっていく。
このまま放っておけば、二人の関係は取り返しのつかないところまで拗れていく。だから、わたくしがここで介入して、二人の橋渡しをする必要がある。
ゆえに――
「そう、か……どうやら僕はキミのことを誤解していたようだ。キミがそのつもりだと言うのなら、今後は――」
クリフ殿下が致命的な言葉を口にする寸前、わたくしは「お話中に失礼いたします」とクリフ殿下の言葉を遮った。
そんな突拍子もないわたくしの行動に、周囲の者達がぎょっとする。
身分が低い者は、上の者から話しかけてもらうのを待つのが礼儀。自分よりも位の高い者達の会話に入るだけでなく、目上の者の言葉を遮った。
クリフ殿下の機嫌を考えれば、わたくしが批難されてもおかしくはない。けれどここで引き下がる訳にはいかないと、背筋を伸ばして踏みとどまる。
「非礼は承知の上で、クリフ殿下にご忠告申し上げます。その先を口になさっては、きっと後悔することになりますわよ」
「……僕の言葉を遮っておきながら、それを忠告などと言うのか?」
まだ12歳の少年の、けれど12歳とは思えない圧力がわたくしに向けられる。わたくしは穏やかな表情を保ったまま、無言でその圧力を受け止めた。
ここで、非礼を承知の上でといいました――などと繰り返す必要はない。まだ幼いながらも、クリフ殿下が聞く耳を持っていることをわたくしは知っている。
「罰ならあとでいかようにもお受けいたします。ただその前に、わたくしの言葉にどうか耳を貸していただけませんか?」
「……良いだろう。僕がなぜ後悔するのか聞かせてもらおう」
「シャルロッテ殿下は、貴方とのダンスを拒絶などしていないからです」
「……なにを言っている? 実際にシャルは拒絶したではないか」
「それは、貴方に迷惑を掛けることを恐れたからに他なりません。……少し失礼いたします」
殿下に断りを入れて、泣きそうな顔で固まっているシャルロッテ殿下に向き直る。
わたくしは努めて、柔らかい笑顔を浮かべる。わたくしの無愛想な顔が他人にどのような印象を与えるかは、王太子殿下で確認済みだからね。
「シャルロッテ殿下、靴擦れを起こしていらっしゃいますね」
わたくしの言葉に、クリフ殿下を始めとした者達が息を呑んだ。
同時にシャルロッテ殿下の目が見開かれる。
「ど、どうしてそれを……?」
「重心がずっと、わずかに左に寄っていましたから。右足を庇っているのでしょう? ドレスも、靴も新調したばかりの一品。クリフ殿下と踊るために揃えたのですね」
「そ、それは……」
「――それは本当なのかい?」
クリフ殿下がたまらずといった様子で割って入ってきた。そんな彼に見つめられたシャルロッテ殿下は視線を彷徨わせ、やがて真っ赤になってコクンと頷いた。
恋する乙女のような仕草を見て、クリフ殿下を嫌っていると誤解する者はいないだろう。
……というか、前世のわたくしはこんなにも可愛らしかったのね。あまりにも分かりやすい姿を見せられて、なんだか恥ずかしくなってきた。
「そう、だったのか。気付かずにすまない……」
「い、いえ、そんなことは!」
「いや、僕が気付くべきことだ」
「いえ、違います! クリフ様が悪い訳じゃなくて、私が、その……」
シャルロッテ殿下は必死に否定しようとするが、上手く言葉が出てこないようだ。クリフ殿下を傷付けたくなくて頑張ったのに、その結果がクリフ殿下を傷付けている。
その事実に泣きそうになっているのが、わたくしには手に取るようにわかる。
「シャルロッテ、大丈夫だから落ち着いて」
許可なく敬称を取り、恐れ多くもその頭を撫でつける。
とんでもなく非礼な行為だけど、幼くして両親を失った前世の私は孤独で、なにより愛情に飢えていた。いまの彼女を安心させるにはこれが一番だとわたくしは知っている。
ゆえに、彼女はわたくしの手を受け入れ、くすぐったそうに目を細めた。
シャルロッテ殿下が受け入れていることが分かるからだろう。もしくは突然現れたわたくしの正体が分からないからか、その非礼を誰も咎めようとはしない。
シャルロッテ殿下が不思議そうにわたくしを見上げた。
「あの……貴方は?」
「名乗るのが遅くなりましたが、わたくしスフィール伯爵家でお世話になっているアイスフィールド公爵家の娘、アイリスと申します」
「アイリス様、ですか?」
「敬称はなくてかまいません。シャルロッテ殿下」
私も愛称でかまいませんとシャルロッテ殿下が言えるように誘導する。彼女が友人と気さくに呼び合うことに憧れていると知っているからだ。
だけど、彼女はなにか言いたげな顔をして、結局はなにも言わなかった。公式の場で、皆が見ている状況では言えなかったのだろう。
だから――
「大丈夫ですよ。また次の機会、今度は人目が少ないときにお願いしますから」
シャルロッテ殿下が求めているであろう言葉を、彼女にだけ聞こえるように囁いた。それに驚いた彼女は不思議そうにわたくしを見上げる。
「……不思議です。初めて会ったはずなのに、少しもそんな気がしません。それに私が欲しい言葉をくれる、アイリス……お姉様は、私の考えていることが分かるのですか?」
「ふふ、そうかも知れませんね。だから、大丈夫ですよ。もう貴方に寂しい思いなんてさせませんし、貴方の不安は全てわたくしが払いましょう」
わたくしの前世が貴方だったから――なんて言えないので考えていることが分かる理由をはぐらかして、だけど不安がらせないように思いっきり優しく微笑む。
シャルロッテ殿下はぽーっとわたくしを見上げた。愛情に飢えている彼女は、わたくしが理想の姉のように見えているのだろう。
「まずは、クリフ殿下のことですね」
「あ……クリフ様が気付かなかったのは、その……」
「分かっています。クリフ殿下にだけはバレないように頑張っていたんですよね」
わたくしを見上げていた紫色の瞳が大きく見開かれた。
「言ったでしょう。貴方の不安はわたくしが払うって。クリフ殿下の誤解を解いてくるので、少しだけお待ちくださいね」
この調子で二人の橋渡しをしてしまおう――と、再びクリフ殿下に向き直った。
「シャルロッテ殿下は靴擦れを起こしたのが恥ずかしくて隠していたのです。ですから、クリフ殿下が気付かなくても無理はありませんわ」
正確には、クリフ殿下と踊るのが楽しみ過ぎて靴擦れを起こしたのが恥ずかしかった――だけど、さすがにそんな野暮は口にしない。というか、彼なら言わなくても分かる。
「隠していたことを責めているんじゃない。そなたは気付いたのに、彼女の不調に気づけなかった自分の不甲斐なさが許せないだけだ」
「それはわたくしが当事者でなかったからに他なりません。シャルロッテ殿下は貴方に気付かれないように振る舞っていらっしゃいましたから」
「そういうもの、だろうか?」
「はい。わたくしがクリフ殿下と同じ立場なら、やはり気付くことは出来ませんでしたわ。だから、そのように自分を責めるのはおやめください。……ね?」
シャルロッテ殿下はそのようなことを望んでいないですよと、わたくしは小首をかしげて微笑んだ。その瞬間、クリフ殿下の頬が朱に染まる。
自分がどれだけシャルロッテ殿下に思われているのか気付いたのだろう。
どうやら、確執の回避は順調に出来ているようだ。
この機会を逃さず、二人がダンスを出来るように誘導しよう。それできっと、二人のあいだに確執は生まれない。悲劇の未来を回避できるはずだ。
「クリフ殿下、シャルロッテ殿下が少し席を外すことをお許しいただけますか?」
「あぁ、足の治療が必要だからな。あとのことは僕に任せてシャルはゆっくり休むがいい」
クリフの気遣いに、けれどわたくしは首を横に振った。
靴擦れ程度なら、治癒魔術で癒やすことが出来る。一度下がって靴擦れを癒やし、靴を履き替えてから戻れば、二人は一緒にダンスを踊れるはずだ。
だから――と、わたくしはシャルロッテ殿下に視線を向けた。
「あ、あの、私、足の治療をしてもらったらすぐに戻ってきます。だから、それまで……えっと、出来れば……その……」
わたくしを見上げるシャルロッテ殿下は、顔を真っ赤にして口ごもる。
あぁもう、可愛いなぁと、わたくしはシャルロッテ殿下の頭を撫でつけた。
「ご安心ください。シャルロッテ殿下がお戻りになるまで、わたくしがクリフ殿下のお相手をさせていただきます。だから、安心して行ってらっしゃいませ」
「……え?」
シャルロッテ殿下は思ってもいなかったと言いたげな顔をした。足の治療で下がっているあいだにクリフ殿下がいなくなることを心配しているのだと思ったのだけど……違った?
「すみません。わたくし、なにか思い違いをしていましたでしょうか?」
「い、いえ、わたくしが戻るまで待っててくださるのなら問題ありません! すぐに戻ってくるので、決していなくならないでくださいね、アイリスお姉様!」
シャルロッテ殿下はそういって、メイド達を引き連れて退出していった。その動きは機敏で、靴擦れを起こしたのを忘れてしまったかのようだ。
よほど、クリフ殿下と一緒に踊りたいのね。
……なんて健気で可愛らしい。
ここまで分かりやすい態度を取っていたつもりなんてなかったけど、こうして客観的に見ている光景こそが現実だ。なんだかちょっと恥ずかしい。
ともあれ、シャルロッテ殿下の希望にはしっかりと応えてあげないといけない。
「という訳ですので、クリフ殿下。わたくしが相手ではご不満だと思いますが、シャルロッテ殿下がお戻りになるまで、少しだけお相手いただけますか?」
スカートの端を摘まんで優雅にカーテシーを一つ、自然と笑みが零れ落ちた。
かつてわたくしが慕っていた従兄の男の子。このパーティーを切っ掛けに疎遠になってしまったこともあり、わたくしにとっては随分と懐かしく感じる。
……というか、こっちもシャルロッテ殿下に負けず劣らず可愛らしい。なんて、男の子にそんなことを言ったら怒られるけど。
でも、このときはまだ12歳だものね。いまのわたくしからは六つも年下なのだから、可愛らしく見えて当然だ。思わず頭を撫でたくなるが、さすがにそれは自重しよう。
……というか、クリフ殿下の反応がない。
「クリフ殿下?」
「い、いや、もちろん不満などない。僕もアイリスさんと話したいと思っていたところだ」
「クリフ殿下にそのように言っていただけるなんて光栄ですわ」
「そ、そうか……」
クリフ殿下は使用人が持つトレイに乗っていたグラスを手に取ってその中身を呷った。頬が妙に赤らんでいくけど……いまのはブドウジュースよね?
「……あの、大丈夫ですか?」
「もちろん大丈夫だ。それより、さっきはキツく当たってすまなかった」
「いいえ、わたくしの方こそ差し出口を申しました」
「いや、アイリスさんが謝る必要はない。もう少しで、僕は大切な従妹であるシャルを傷付けてしまっていたところだ。忠告に心から感謝する」
「いいえ……」
大切な従妹という言葉に思わず笑みが零れ落ちた。
やっぱり懐かしいなぁ。
あの頃の私も同じように、クリフのことを大切な従兄だって思ってたんだよね。
「貴方はよく笑うのだな」
「申し訳ありません、不快でしたでしょうか?」
「いや、そのようなことはない。むしろ……」
「むしろ、なんですか?」
「い、いや、それよりも、シャルが戻ってくるまでまだ少し時間があるだろう。良ければ僕と一曲、お相手いただけないだろうか?」
「あら、わたくしと、ですか?」
「……ダメ、だろうか?」
クリフ殿下が不安げな顔をした。ファーストダンスはシャルロッテ殿下と踊るものだと思っていたけど、どうしてわたくしなんだろう?
それに、なんだか不安そうだし……はっ、そっか。シャルロッテ殿下と踊る前に練習をしたいのね。分かる、分かるよ。当時のわたくしも、すっごく不安だったもの。
それに、ファーストダンスを踊らなくても、ラストダンスがあるから大丈夫だね。
「そういうことであれば喜んで」
クリフ殿下に手を差し出して、ダンスホールにまでエスコートしてもらう。場所を移動してしまうことになるので、側にいた使用人に言づてを頼む。
という訳でやってきたダンスホールの真ん中。
互いに礼をして、最初の三拍子でお互いの身体を寄せ合ってホールドを取り、クリフ殿下のリードに合わせて、まずは基本的なステップを踏み始める。だけど、いくつかのステップを踏む中で、わたくしは危うくクリフ殿下の足を踏みそうになった。
殿下がリードと異なるステップを踏んだからだ。
「す、すまない!」
「いいえ、気になさらないでください。それより、もう少し強く抱き寄せてください」
「こ、これ以上抱き寄せろというのか!?」
なぜか叱られてしまった。レムリアとリゼルでダンスのマナーが違っただろうかと思い返すが、特にその辺りに違いはなかったはずだ。
ちなみに、先に動くことで次のステップを教えるのがリードだ。つまり、必ずしも抱き寄せる必要はないのだけれど、しっかりと抱き寄せた方が踊りやすいのも事実だ。
――事実なはずなのだけど、クリフ殿下のダンスはさっきより怪しくなってしまった。
わたくしは運動神経にも自信があるのでなんとかなっているけど、そうじゃなければ何度もクリフ殿下の足を踏むことになっていただろう。
「す、すまない、本当にすまない」
「いいえ、大丈夫です。ですが……そのように硬くなる必要はありません。せっかくのダンスなのだから、楽しまないと勿体無いと思いませんか?」
わたくしにとっては、かつてすれ違ってしまった従兄とのやり直しの機会。たとえクリフ殿下にとって本番前の練習だったとしても、わたくしは凄く楽しいと微笑む。
クリフ殿下はわたくしのことをじっと見て、それからダンスをやめてしまった。それからなにを思ったのか、自分の両頬をパチンと叩く。
「クリフ殿下?」
「いや、すまない。僕は自分のことしか考えていなかったようだ。だが……もう大丈夫だ。もう一度、僕と踊ってくれるかい?」
「はい、喜んで」
一体どんな心境の変化があったのか、クリフ殿下の身体から強張りが消えている。そうして、自然な形でわたくしをホールドすると、今度はハッキリしたリードで踊り始めた。
正直に言えば、12歳でしかないクリフ殿下のリードはそこまで優れたものじゃない。だけど、前世の私は彼と踊るために練習を続けていた。
彼のクセは、いまもしっかりと覚えている。
わたくしは、彼のリードに合わせて軽やかなステップを踏んだ。
クリフ殿下が踊りやすいように。
そして、わたくしと同じように彼のクセを覚えているシャルロッテ殿下が踊りやすくなるように、ダンスホールに響く音楽に合わせて優雅に踊る。
次第に自信をつけたのか、クリフ殿下のリードがみるみる上達して、わたくしがターンを決めると周囲から感嘆の溜め息が漏れるようになる。
そうしてダンスを終えたとき、周囲から雨のように拍手が降り注いだ。
「終わってしまったな。その……楽しんで、もらえただろうか?」
「ええ、もちろん。とても楽しいひとときでした」
「そ、そうか。では、その……また今度、踊ってもらえるだろうか?」
「もちろん、喜んで」
社交辞令に満面の笑顔で答え、クリフ殿下と共にダンスホールを後にする。するとダンスホールの隅っこで少し拗ねたような顔をしたシャルロッテ殿下が待ち構えていた。
……もしかしなくても、嫉妬させてしまった?
「シャルロッテ殿下、いまのは……」
「ズルイです! ファーストダンスは私が踊りたかったのに!」
「そ、そうですよね。申し訳ありません」
貴方と踊るまえに練習したかったようですよ――なんて言い訳にもならない。ここはわたくしが悪者になるべきだろうと謝罪する。
そんなわたくしに向かってシャルロッテ殿下は言い放った。
「悪いと思ってるなら、私とはたくさん踊ってください!」――と。
……あれ? いま、クリフ殿下じゃなくて、わたくしに向かって言わなかった?
「あの……わたくし、ですか?」
恐る恐る確認すると、シャルロッテ殿下はまるで恋する乙女のようにこくりと頷いた。
……って、なんだかおかしくない?
「私……親しい相手といえば従兄のクリフ様だけで、そのクリフ様ともときどきしか会えなくて、ずっと孤独だったんです」
「そう、だったのですか?」
なんて、もちろん良く知っているけど。
どうしていまそんな話をするのだろうとわたくしは小首をかしげる。
「でも、貴方は不思議と私が欲しい言葉をくれる。だから私、アイリスお姉様と、もっともっと仲良くなりたいんです。私とも、踊ったりおしゃべりしたりしてください!」
「な、なるほど……えっと、それはかまわない、けど……」
様々な悲劇を回避する上で、シャルロッテ殿下と仲良くなることは望ましい。けど、なにより大切なのは、シャルロッテ殿下とクリフ殿下の確執を防ぐこと。
この状況で、クリフ殿下をそっちのけというのはよろしくない。
「あの、クリフ殿下、これは……」
「分かっている。申し訳ないが、シャルとも踊ってやって欲しい」
本当はすぐにでもシャルロッテ殿下と踊りたいはずなのに、シャルロッテ殿下の気持ちを優先する。さすがクリフ殿下、大人の対応――
「ただし、一曲踊ったあとのおしゃべりは僕も混ぜてもらうよ。アイリスさんを独り占めなんて、いくら可愛い従妹のシャルでも許さない。僕だって彼女とおしゃべりしたいからね」
「なにを言ってるんですか! クリフ様はファーストダンスを踊ったんだから十分でしょう。残りの時間は私に譲ってくださいっ」
「いやいや、いくらなんでもそれは釣り合いが取れないだろう。……そうだ、シャルがアイリスさんと何曲も踊ると言うのなら、ラストダンスは僕がもらう!」
「ダ、ダメです、ラストダンスは私が踊るんです!」
あ、あれぇ……? お、おかしいなぁ……
シャルロッテ殿下とクリフ殿下の確執が生まれないように介入したはずなのに、なんだかわたくしが確執の原因になっているような……き、気のせいかな?
「こうなったら、お姉様にどっちとラストダンスを踊るか選んでもらいましょう」
「それが良い。もちろん、アイリスさんは僕とラストダンスを踊ってくれますよね?」
「勝手なこと言わないでください。お姉様のラストダンスは私がもらうんです!」
うん、ぜんぜん気のせいじゃない気がするね。
完璧にわたくしが二人の確執の原因になってるじゃない。二人はお互いと踊りたいって思ってたはずでしょ? なのに、どうしてこんなことになってるのよ。
というか、これってどう答えれば良いの? わたくしがどちらかを選ぶと、二人のあいだに確執が生まれて国を巻き込んでの戦争になるの? 意味が分からないわ!
二人に仲良くして欲しくて頑張っただけなのに、どうしてこうなるのよ!
長編化しました。
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