5話 夜会
私がこの子の中でアマンダの記憶を思い出してからどのくらい時が経っただろうか。
この子はアマンダの記憶を思い出す前からこの屋敷に囚われていた。
私はいつからこの子が、この貴族の男の屋敷にいるのか知らない。
日数を数えるのが無駄に思えて、数える気にならなくなった。
本当に私はお人形なんじゃないかと恐怖する時がある。
この子の身体を抱いて、暖かさと鼓動を感じてやっと生きた人間なんだと安堵するときがある。
いっそのことお人形になった方が楽なんじゃないかと思うようになって、かつてのこの子のように《イーリスの人形姫》になった方が幸せかもしれないという誘惑がある。
でもアマンダの記憶が、ケイトやマスターと過ごしたギルドでの思い出がそれを邪魔する。
彼女たちを思い出すと、申し訳なくて苦しくて、泣きたくなる。
こんなに私は泣き虫だっただろうかと思うぐらい、彼女たちを思い出すと泣きたくなるのだ。
アマンダの記憶が、遺志が、この子を手放してはいけない。守らなければと言い続けている。
また男と共に秘密の夜会に連れていかれた。
彼らが纏う淫靡で背徳を好み、酒と薬と煙草の煙に塗れた暗い落とし穴の底に落ちるような夜会は、何度も来ているが慣れない。
彼らの趣向も催される出し物も、見るに値しないし見たくもない。
夜会から帰ってきた夜は、必ず悪夢を見て魘されてしまう。
今回の会場は少々大きな部屋だった。
いつもは地下の狭い限られた部屋に隠れるように夜会をしているのに今夜は地上の夜空が窓から見えた。
「今回の夜会は人が多いのですか?」
「ええ、なんでも国内だけでなく他国の者も招待したと聞いています」
「それは、いつもと違う面白いモノが見れるかもしれませんな」
仮面で顔を隠した男たちが酒を手に談笑していた。
私はいつものように男の隣の椅子にお行儀よくお人形のように座っている。
男はいつものように他の客と談笑しながら話し合いをしていた。
私はいつもと違う広い会場と大勢の人々、奇異の目に晒される中に違う雰囲気を纏っている人がいることに気付いた。
それはかつてのアマンダが経験した勘だろう。
長年傭兵業を営んだ彼女の勘が、ここが程なくして争いの場になることを教えてくれた。
アマンダの経験が弛んだ肉体の貴族の男達ではない、戦闘と争いに慣れた引き締まった男達が潜んでいることに気付く。
男たちの顔は仮面で隠されているが、覗く眼光は鋭く周囲を見渡している。
私は静かに喉を鳴らし、このチャンスに動転しないように落ち着く。
危険な夜会に頻繁に私を伴って出席している男だ。奇跡的に取り締まる者が介入してくる機会を伺っていなかったと言えば嘘になる。
こんな機会は二度とないだろう。
彼らに保護されるのが、一番この子にとって助かる道が高かった。
しかし隣の男に捕まったまま、上手く逃げ仰せてしまうのは困る。
私も隣の男から逃げて、保護される必要があった。
大丈夫、こんな争いの場はアマンダで慣れている。
泣いたり、動けなくなるようなことにはならない。少しでも素早く動けるように準備だけは整えていた。
夜会が進み、時間が経った深夜の頃、突然会場の証明が一斉に消えた。
参加者たちは何が起こったのか分からず困惑してざわついている。
隣に座っていた男はリードを引っ張って私を引き寄せようとした。
私は首が閉まって苦しい中、男が片手に持ったグラスの酒に集中して魔術を使った。
「うっわっ!!」
お酒が顔に掛かってびっくりした男は手に持っていたリードを手放した。
そのタイミングで私はするりと椅子から降りて、男から離れるように駆けだした。
男は顔に掛かった酒に気を取られて私が逃げたことに気付いていない。
今のうちに出来るだけ離れて誰かに保護されよう。
手繰り寄せたリードを手に駆けだしたが、周囲は暗く混乱した人々が逃げまどっている。
遠くに剣戟の音や怒鳴り声も聞こえだして、夜会の参加者も危機感を募らせて動き出していた。
とにかく一刻も早く男の側から離れたかった。
しかし暗闇の中でも白い長髪の幼女は目立つようで、すぐに腕を取られて捕まってしまった。
「……っつ、離してっ」
「君は《イーリスの人形姫》じゃないか。ご主人様の所から離れて駄目じゃないか。悪い子だ。
すぐに連れ戻してお仕置きをしないといけないね。
それとも俺の所に来るかい? 可愛がってあげるよ」
乱暴に捻りあげられた腕は痛いし、この男の声は私を痛めつけることに喜びを感じていた。
「いやっ、いやっ!」
何とか逃げようと暴れて足を蹴り上げるが、さほど効果は見られない。
引き摺られながら元居た場所に帰されることに恐怖で震える。
すると偶然、逃げてきた客が男にぶつかり手が離れた。
「あっ」
私は一目散に逃げだして、争いの音がする場所へ走った。
争いは会場の中心で起こっており、男たちが怒鳴りながら剣戟を交えて戦っている。
彼らは私には目もくれずにいるので、その隙に私は並ぶテーブルの下へと潜り込んだ。
テーブルクロスに隠れて、机の下に子供が隠れているとは容易には思いつかないだろう。
子供ならではの隠れ場所だ。
争う音は続い的にいるが、私は机の中央の足にしがみ付いて、大人の手の届かない場所にいた。
歯が鳴っている、捻りあげられた腕が痛くてじんじんと熱を持っていた。
まだ助かったわけじゃない。
まだ男は会場にいて、私を探しているかもしれない。
男に見つからないことを願って。
助かることを夢見て。
必死にこの小さな身体で耐えていた。
すると目の前のテーブルクロスが捲れた。
びっくりして固まっていると顔を覗かせたのは若い少年だった。
きょろきょろと暗い机の下を見回して、私を見つけると能天気ににっこり笑いかけてきた。
「やあぁ、やっと見つけたよ! こんな所にいないで出ておいでよ」
少年が手招きするが、私は動けなかった。
テーブルクロスの向こう側がどうなっているのか怖かった。
男が待ち受けていて、また捕まるのではないかと不安だった。
いつまでも動かない私に痺れを切らしたのは少年の方だった。
小さくもないのに机の下に潜り込んで、私の元まで来たのだ。
私は少年から逃げることも動くことも出来ずにいた。
少年は私の前で胡坐をかいて座ると、そっと抱き寄せた。
「うん、頑張ったね。その顔を見れば酷く大変だったのが分かるよ。これからはずっと一緒にいるから安心して」
それは私を落ち着かせるために言った言葉だろう。
抱き寄せられて、包まれた体温の暖かさを感じたら、無性に涙が流れて止まらなかった。
我慢していたのに、この少年のせいで台無しだ。
泣いている私を少年は黙って背中をさすってくれた。
少年の包まれた体温が心地よくて、背中をさすってくれるのが気持ちよくて、私は不覚にもそのまま眠ってしまった。
孤独と恐怖の中で突然暖かいものに包まれて、緊張の糸が切れたのだろう。
本当に、本当に不覚で気恥ずかしかったが、どうしようもなかった。
これで目が覚めたら元の部屋だったら。
私はどうなるだろう。