4話 イーリス
昨日は泣き疲れてそのまま寝てしまった。
翌朝、日が昇ると昨日の女中が来て私を起こすと風呂に入れて朝食を食べさせた。
私に抵抗する意思はもうなかった。
女中は朝夕の食事と部屋の掃除の時しか、この部屋には来ない。
貴族の男は夜に頻繁に来ては、高価な服や装飾を持って、着せ替え人形をして遊んでいく。
特に着飾った日は、男に伴われて貴族たちの秘密の夜会に一緒に連れて行かれる。
男は夜会の参加者に綺麗に着飾ったお人形を自慢して回るのだ。
周りの参加者も同じくお人形や奴隷を引き連れている者が多かった。
彼らの品評会の中で一番注目されていたのは私だった。
私は彼らから『イーリスのお人形姫』なんて呼ばれて可愛がられている。
夜会に行くとよく見られるし、男はよく声を掛けられていた。
しかし男が私のリードを放すことはなく、他人に触れさせることもなかった。
男にとって私はお気に入りのお人形だった。
しかし男は私を引き取りたいと、声を掛けてきた貴族たちを無碍にしなかった。
場合によっては売買にも応じると仄めかして声を掛けて来た者に期待させている。
男は私を使って貴族社会の人脈作りに利用している。場合によっては引き渡しもする可能性が高かった。
今の所、男は私に何もしてこない。
お人形のように可愛がって着飾らせ、見せびらかしているだけだ。
しかし私が年齢を重ねて子供が出来る年になった場合、どうなるかわからなかった。
そんなことを男は他の貴族と話しながら匂わせているのだ。
日中は私のいる部屋に人は来ない。
一人部屋に閉じ込められている時は、ぼっーとしながらアマンダだった時の記憶を思い出している。
アマンダの一生は決して平凡でも輝かしいものでもなかったが、今の私には眩しくて懐かしい思い出だ。
争いと痛みと危険に満ちたものだったが、ケイトという忘れられない人がいて、ギルドの仲間とは背中を任せて戦い抜いた。
マスターは長寿な種族で、長年生きた経験と知識を持った不思議な人だった。頼れる人で一生敵わないお世話になった人だ。
結婚して子供を産んで一生を終える幸せな女の一生ではなかったが、それでもアマンダの人生にも輝けるものはあった。
ケイトとの会話はもう10年以上前のことなのに、未だに覚えている。
ケイトは色々な話を私にしてくれた。
魔術のことや近所のお気に入りの猫のこと。安くて質の良いお店にちょっかいを掛けてくるギルド員。
思い出すことは取り留めもなく、脈絡もなく、唐突にフワフワと浮かんでは消えていく。
その中で唐突に思い出したことがある。
『アマンダは魔術が使えないけど、人は誰しも魔術を使う素養はあるのよ。でも使い方を知らなければ使えないし、魔術の素養が高い人の方がより強い魔術を使うことが出来るの。
中でも《イーリス》と呼ばれる七色に変わる瞳を持っている人は最上級の魔術の素養を持っていると言われていたわ。
彼らは私たち魔女でも敵わないぐらい強い力を持っていた。でも滅多に生まれないから見つかれば権力者たちに捕らえられて血縁者にさせられた。
少しでも魔術の素養が高い子が生まれるように彼らを利用しようとしたのね。
本当か嘘かも魔女である私も詳しくは知らない。
彼らの事は秘密で貴重で禁忌なことと言われているわ』
ああ……、なんてこった。《イーリス》とは私のことではないか。
何故忘れていたのだろう。アマンダはケイトの魔術の話をよく聞いていなかった。それが今は悔やまれる。
私は例え奇跡的にここから出られても権力者に狙われる危険性が高い。
貴族の男はこの事を知っているのだろうか?
秘密の夜会で私を見せびらかしている時点で知らなそうである。
助かる見込みがまた減った。
なんて不幸な身の上の子なんだ。
明るい展望が見えない将来に頭がクラクラする。
いくら考えて可能性を探しても、この子が助かる見込みが少なすぎる。
どうやったら私はこの子を救える?
どうやったら私はこの子を守ることが出来る?
我慢して人形に徹して油断を誘っても、夜会や屋敷を洞察しても逃げて助かる展望が見えない。
時間はあると思うけど、男がいつお人形遊びに飽きて他の貴族に私を売るかも分からない。
突然暴力を振るわれてもこの子に抵抗する力はない。
薄氷を歩いているような心境で毎日を生き抜いているけど、精神が摩耗してくる。
いつまでこの状況が続く?
私はいつまで保つだろうか。
分からない、分からないことだらけで、助けはなくて、一人でどうにかしないといけない。
私はちょっとづつ、確実に疲れ始めていた。
私が《イーリス》だと分かって少し可能性が出たことがあった。
《イーリス》なら魔術の素養は極めて高く、魔術が使えるかもしないのだ。
しかしアマンダは魔術なんて使えなかった。使い方も分からない。
でもすぐ近くに魔術が使える人がいた。ケイトもそうだしマスターだって魔術が使えたのだ。
間近で見ていたアマンダなら魔術を使えるかもしれない。
それからは魔術を使っていたケイトやマスターを思い出しては真似てみたり、ケイトが話していた魔術のことを思い出しては魔術を使えるように試したりしたが、全然だめだった。
何やら体の中で蠢くモノを感じることはあったが、捉え処がなくて形にすることができない。
才能がないのは分かっていたが、この危機的状況に役に立たないで何が《イーリス》だ。
肉体的な訓練だったらいくらでも出来た。
でもこの子は幼くて弱い。例え筋力の訓練をしても身に付くことは微々たるものだろう。
ケイトの魔術を見て、素養の高い魔術の訓練をすれば役に立つモノが身に付くと考えたが甘い考えだった。
やはり地道な鍛錬をしなければ身に付くことは出来ないのだ。
ケイトは手のひらから様々な現象を起こしていた。突風や炎や水を手のひらから発生させるのだ。
ケイトは魔術の理論や原理を教えてくれていたようだが、摩訶不思議で私には理解できなくて忘れてしまった。
もっと私に分かるように説明を求めればよかった。聞き流していたことに後悔するばかりだ。
ケイトは何もない場所から魔術を使っていたが、私にはまだ早いのかもしれない。
何か見ながら魔術を使ってみようと思い付いたが、この限られた部屋には水ぐらいしかなかった。
水差しからコップに水を注ぎ、身体の蠢くモノを感じながら水が動くようになるのに、魔術を練習してから季節が変わっていた。
何も確証はなくて何度も諦めそうになったが、出来ることはこれしかなく、他に出来ることはなかった。
考えていても悪い事ばかりが頭を過ぎる。魔術の練習をしていた方が気晴らしになった。
次に水を増やせるようになるのに季節が変わり、成功した時に勢い余って水を床に溢してしまった。
慌てて見つからないように隠したが、女中に見つかってこっぴどく怒られてしまった。
次同じことをしたら水差しを取り上げられそうだったので、より一層慎重に水の魔術の練習をして手の平程の水を宙に浮かせることが出来るようになるのにまた季節が変わり、それ以上出来ることがなくなってしまった。
この水を男にかけても、ずぶ濡れになって怒られるだけで倒すことも出来ない。
水を宙に浮かせる時間も短く、窒息させる時間まで保てない。
ここで私の自力での独学魔術は打ち止めになってしまった。