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「おやすみなさい。レックス様」
私の声は辛うじて聞こえたのだろうか、レックス様は「おやすみ」とだけ言うと振り向きもせずドアを閉めた。
防音の魔法が施されているのだろうか、物音一つ聞こえない。
隣の部屋にレックス様は居るのだろうか、何をしているのだろう。
どこで眠るのだろう。
「白い結婚。三年後、私が離縁を望まなかったらその時はどうするつもりなの?」
政略結婚で結ばれる夫婦でも、恋愛感情は生まれる。そんな夢みたいなことはないと分かっていた。
公爵家で育てられたのだから、政略結婚の覚悟は出来ていたし婚約者が決められてからはすべて諦めた。
相手が私の家とお姉様の結婚相手のことしか頭にないと知っていたから、自分が幸せになることはないけれど仕方ないのだと自分自身に言い聞かせた。
でも、お姉様が婚約破棄されそれと同時に公爵位から伯爵位まで降下され、私の婚約も破棄された。
領地の殆どを国に没収された我が家は、残された田舎の領地に引きこもることになった。
「あぁ、私なにやってるのかしら」
私とレックス様は政略結婚ではない。
だから、もしかしたらと思っていたのに。
結婚して、最初の夜。
晩餐の後、湯に浸かり薄絹を纏って寝室のベッド端に座りレックス様の訪れを待った。
湯に火照った体が冷え、緊張が不安に変わった頃現れたレックス様は、困ったように私を見てこう言ったのだ。
『白い結婚を三年続けたら、女性からでも離縁の申し立てが出来る。だからそうしませんか』
早口で告げられたのは予想もしていなかった言葉だった。
白い結婚。
この国では基本的に女性から離縁の申し立てをすることが出来ない。
唯一の例外が白い結婚。
婚姻の手続きをしただけで本当の夫婦にならない。それが三年続いたら女性からでも離縁の申し立てが出来るのだ。
まさかその制度を自分が使う可能性があるなんて、考えたこともなかったけれど。
『それまではここで我慢してもらわなければいけないけれど、私の妻として過ごすのは辛いだろうけれど』
『レックス様、どうして?』
『君は若い。身分を偽り生きることはないよ。私の様な人間の……』
『そんな、私は』
『とにかくそういう事だから』
何を言っているのだろう。
白い結婚、どうしてそんな事。混乱したままレックス様を見つめる私の視線から逃げるように、レックス様は踵を返した。
『すまない』
「承諾は快諾じゃない。きっとお父様に逆らうことが出来なかったのね。降下したとはいえそれでも貴族。お父様からの結婚話を断るなんて平民に出来るわけがないのよ。レックス様が王都一の商会の長だからと言って平民にはかわりないのだもの」
自分を納得させるために呟いた言葉で、自分自身が傷ついている。
「降下して、領地は王都から遠く離れた土地以外すべて没収されてしまった。暮らしに困ることはないと思うけれど、それでも以前とは違う」
その上私は家との繋がりを隠して嫁いできた。
今の私は両親を病で亡くし、田舎から王都に出て来て親戚の世話になっていた娘。レックス様はそんな私を見初め結婚した。
そういう設定になっている。
「大きな商会の跡取りのレックス様と今の私、釣り合いは全然とれていないし役にたてることもない。こんなのただのお荷物だわ。レックス様を支えたいだなんて思い上がりもいいところだわ」
ぽとりと涙がこぼれる。
我慢しようと思うのに止められない。
「馬鹿みたい。私も領地に行けば良かった。あそこは信じられないくらいの田舎だけど、そうしたらレックス様に迷惑を掛けることもなかったのに」
ぽたりぽたりとこぼれる涙を手のひらで擦る。
明日は目が腫れてしまうかもしれないけど、少しなら回復魔法が使えるから誰かに見られる前に対処できるだろう。
「でも、ここを出るわけにはいかないわね。結婚した次の日に別居だなんて、レックス様の顔を潰すことになるもの」
ごしごしと目を擦り無理矢理涙を止めると勢い良く立ち上がる。
「レックス様は不本意でも私はレックス様の妻なんだもの。白い結婚上等じゃない。好かれていなくても嫌われていないのなら、三年の間に情がわくかもしれないじゃない。そしたら離縁しなくてすむかもしれないわ」
卑屈な思考、それでも少しでも前向きに。
お母さんなら笑って私のことを抱き締めてくれる。
『仲良くなりたいなら毎日笑顔で接することよ。優しく、誠意を持って相手に接するの、そうしたらいつか気持ちは通じるから』
近所のいじめっ子に意地悪されていた昔、お母さんはそう言いながら私を抱き締めてくれた。
「お姉様とも最初から仲良くできた訳じゃない。同じだわ、諦めなければきっと」