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灰色がかったワルツ

作者: クォッカ

誰の為でもない、エゴです。


桜の色が白色から薄紅色だと思い始めたのはいつの頃からだろう。

少なくとも無邪気さが残る10代の頃に見た桜には色がついていなかった気がする。


これは真っ白で無垢な桜に、薄かろうと濃かろうと何かしらの色味が付けられていくような、断片的な僕の記録として、そして僕の弱く醜い恥部を晒すつもりで綴って行こうと思う。結果として僕の自分語りとして落ち着いてしまうであろうことに関しては、先にこの場を借りて前置きとして書いておこう。ちょうど、長文の自己紹介だと思って文を追ってもらう程度がいいかもしれない。




僕の過去は破滅的、その一言で片がつくほどに単純に、落ちぶれていた。


そんな過去を特徴づける僕の一部の話。



裕福とまでは言えぬものの、幸せに暮らすことの出来る家庭に生まれ育て上げてもらった僕は、両親の考える当たり前を難なくこなすという枷を背負って生きてきた。差し当たっ一人の妹を持つ長男という事もあり、枷の重みは歳を重ね続ける度に負荷がかかっていった。幸せな家庭に生まれた者が幸せになれるだなんて神様が思っているのなら僕はその神を地面に引きずり降ろすつもりだ。


周りの客観的な僕と主体的な僕との間に深い溝が出来始めた思春期。

思春期にもなればアナーキーな行動を起こしたくなる感情を理解してくれ、なんて事は言うつもりはない。

ただ僕は例に漏れることなく反社会的な、というよりも僕自身を否定したかった無知な少年であることに変わりはなかった。


鳥籠の中で餌を与えられ育つ事のみを義務付けられた生。その稚拙極まりない思考の否定に選んだ行動は至僕よりも残酷な生命への固執だった。





ネオンがその土地にいる人間を象徴しているような、何かに飢えている人間達が蔓延る町、新宿歌舞伎町。


歌舞伎町にホストとして身を投げたのは10代半ばに差し掛かった頃だった。

歌舞伎町のホストとしてそれなりの立ち居振る舞いを覚えた僕は、瞞しの好意の蜜を木々に塗りたくり、蜜に集まった哀れな蝶に新たな残酷な生を植え付ける事は難解なことではなかった。


僕は無責任な生の想像を繰り返していた。

それもまた歪な恋慕の情を利用するという非道徳的なやり方で。


そこに相互の愛など無くとも、生まれてくる愛の結晶の輝きは僕にとってはどれほど禍々しく煌めいていた事だろうか。醜悪な笑顔を浮かべる人の形をした何か、としか形容のしようがない僕に救いの手を差し伸べる者などいなかった。代わりに地位とお金、虚栄に群がる無数の蝶の羽とネオンが輝いていた。

そんな生活も長くは続かず、シャンパンでの酔いが覚めるように、眠らない街と呼ばれる所以の喧騒が煩わしく感じ始めた20歳手前、思春期を脱した事もあってか、ホストとしての生活、それを取り巻く全てに飽きてしまった。


夜の街から身を引いた僕は、サークル活動で華やかしい学生生活を送る気にも、学業に没頭しその道を極める気もなかった。

フランツ・フォン・バイロスの描く絵のような退廃的でいて繊細な生活を送りたいとも思わなかった。

家に帰ることもなく、ただただ目的もなく時間を潰すこととホストでの狂った金銭感覚での浪費を繰り返す。そこに寂しさを埋める術と称して火照った温度と欲に飢えた匂いを日々違うベッドに持ち込む夜を過ごすだけの学生生活だった。


音もなく廃れていく。擦り切れていく。

煙草の火種が口元に近づいていくスピードのように知らず識らずのうちに自身の身と心を遠くに置いてきてしまだた。

愛を覚えたばかりの赤子よりも愛に関して無知な、それでいて目も当てられないような成人男性がこの世に二本足で立って存在している。眩暈がしそうな現実だ。そんな現実を認知できてしまう事がまた僕の首を絞めていった。自殺を決意した者が命を絶つその瞬間までに躊躇するのと、己の行動で自分の首を絞めている事を知った時の苦しさは似ているのではないだろうか。


シェイクスピアの代表作の一つ『ハムレット』、劇中に登場するオフィーリアは絵画のモチーフにされるほど有名だ。何故ここまで有名になったのか、それは『ハムレット』という救いのない作品の中でも一際絶望の淵に立たされ命を落とすことになったオフィーリアという存在に世の中が教訓を得たからではなかろうか。人は未知の領域に触れたとき、恐怖か好奇心のどちらか、またはその両方を抱くのだと思う。

壮絶な人生で幕を閉じたという一般世間からは想像もつかないオフィーリアに人々が抱いたのは好奇心ではないだろうか。知らない領域への好奇心。

僕はそのオフィーリアと似たような好奇心をいだかれているのかもしれない。興味、知らない物に対しての知的好奇心。しかしそれは相手方からすると知った途端に飽きる、まるで消耗品のような存在になるのではないか。

僕はそんな風に考えていたせいか、好きな人を作ることに躊躇していたのだろう。それでいて好きな人から好意を見返りとして受け取ることなど僕からしたら到底縁遠いものだと思い込んでいた。



サンローランのジョニーブーツのソールと心をすり減らしながら、僕は貴重な若さと時間を消費していた。


10代から20歳に差し掛かるまでの僕には、ネオンの煌めかしい色使いや女性達の妖艶な肌色とは裏腹に、どんな色にも染められる事はなかった。

ただただ己の自己陶酔に浸り、世の中を我が物顔で生きてきた若造は、純度の高い黒は何色にも染まらないと過信をした結果、どんな色も付着しない、聞こえをよくしようとするならば無垢な白、ストレートに表現すれば全て拒絶した結果何も得られなかった阿呆、そのものであった。




時は流れ、肌に突き刺さるような寒さに耐える為、モッズコートを羽織って歩く2月のことだった。


廃れた学生生活も終わりが見えかけてきた三年生の春季休暇。


月並みな表現になるが、僕にも少し早い春が訪れたのであった。

訪れた、とは言ったものの、その人の存在は大学一年の頃から知っていた。


なら何故春が訪れただなんて運命の相手に初めて出会ったかのような表現をしたのか、と問われたら僕はなんて答えるべきなのだろうか。


僕は今までの過去を帳消しに出来るとも思ってはいない、けどもこれからの僕を、その人に携わる僕を少しでも鮮やかにしていきたい。出来る限り、いや、出来ないと思われる所にも手を伸ばして幸せというものを掴み取れるだけ掴んでその人に渡してあげたい。

そんな風に一新した考えを持つことが出来るようになった。そんな思考を導いてくれる人に出会えた、そんな人が僕の側にいたことに気づけた。

新芽が出るように僕の中にも何かが目覚めたのは確かだった。薄汚い泥の中で芽生えたものかもしれない。それでも僕の中では凄く大きな変化だったことにも変わりはない。そう思わさせてくれる人なんてそうそういないだろう。僕は今まで希死念慮とまではいかなくとも、この社会に、地球に存在を認められるべきではないと考えていた。早死にし、保険金で幼稚園でも建てた方が命の使い方としてよほど役に立つのではないかと考えていた。肺に病を患ったり、交通事故で生死を彷徨った経験から、より一層その気持ちは強く抱いていた。しかし、一転して今は生きたい。彼女の為に生きて、死にたい。この命の燃え方を決意出来るほどに僕は彼女に確信めいた物を感じていた。性に付随した歪んだ生への執着をしていた過去が、形を変えて僕のエゴの色が強い生への願いに変わっていったのであった。

それ故に僕は春が訪れた、という月並みの表現を用いた、それほどまでに彼女の存在というものは僕にとって、まるで太陽の刺さない日陰に咲いた花のようなものだった。


彼女の存在は僕の中でなによりも大きく成長していき、次第には僕と同列、もしくはそれ以上に思考を行う際の基準となっていくだろう。

これを幼稚な愛だと捉えられても仕方がないのかもしれない。なにせ人を本気で愛した経験などないのかもしれなかったのだから。お恥ずかしながら愛し方すら暗中模索なのだ。ただそれでも彼女を愛しきりたい気持ちに迷いはない。彼女にとっての最大の愛情表現が僕の時間を全て捧ぐ事だと言うなら僕はそれすら厭わない、太宰の真似事をしようと言おうものなら2人で冷たい水の中でもがき苦しんでも構わないとすら思っている。愛とはなんなのか、掴みかけている今だからこそ、この手を離す事は今まで犯してきたどんな罪よりも愚かなことなのだということも理解し、落とし込めている。


それほどまでに僕は彼女に確信を持っている。

心の底から、言葉の端まで愛していきたい、そう強く思った。それと同時に、僕の中の桜の色が彼女のナチュラルなチークの頬の色に色づいた瞬間であった。



日本という地に住んでる限り、時が四季を運んでくる。それと同じように、僕という存在が息をする限り、踏み外したレールは後ろを振り向けば四方八方に散っているだろう。そのレールを修復し、正していくことも、もしかしたら必要なのかもしれない。

しかし、僕はその時間を彼女とこれから前に進むためのレールを新たに敷いていくことにあてたい。後ろを顧みる事が本当に必要なら、人の進化なんてとうの昔に止まっていただろう。ただ幸いなことに、目まぐるしく環境が変わり、人が人を見ていることよりもスマートフォンの画面を見ている時間の方が長い気がする現代を生きていく上で、ホモ・サピエンスの時代のことの記憶なんて全くない僕らは、明日のことでも、来週のことでも、来年のことでも、未来についてはどうにでも考える事ができるのだ。過去に囚われ足が出ない状況を卑下する事も出来れば、想像での話を現実にするんだと意気込んでも誰も文句は言わない。それほどまでに親密な他人以外との関係性が希薄な現代だからこそ、僕は、僕の未来を彼女と創り上げると大声で叫んでも非難されることはない。


僕は彼女と、そして間に出来た息子娘達を連れて桜が咲いてる木を見上げる姿を想像している。

この想像がいつか写真となって僕の手元に残るその時が来たらなんと幸せな事だろうか。

それを同じく幸せだと彼女に思ってもらえたのなら、その時こそ色づいた桜が散るように、積み上げて来た人生というものが、堰き止めていた何かが溢れ出すように涙となって溢れ出るのではないだろうか。



こんな幸せな空想を描いてる僕を、彼女が知ったらきっと笑うだろう。そんな彼女を見て、また僕は笑うだろう。



愛させてください。

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