七十七話 ネスト村の海
「わー、ベイルくん、見て下さい! 凄いですっ!」
「本当ですね」
ネスト村を抜けたベイルたちの視界いっぱいに、陽光を反射してキラキラと輝く大海原が映し出される。
鼻腔をくすぐる独特の海の香りをスンスンと嗅いでいると、ルナがいつになく興奮した様子で前へ走り出した。
白い砂浜に突っ込むと、クルリと反転してベイルの方を向きながら両手を広げる。
その仕草に、ベイルは頬を緩めた。
「きゃっ!」
「聖女様!」
と、その時。砂に足を取られたルナがお尻から地面に倒れた。
慌てて駆け寄ったベイルに、ルナは「だ、大丈夫ですっ」と照れた笑みを浮かべた。
ほっと胸を撫で下ろしているベイルの隣に、いつの間にかティアが近付いていた。
潮風に青髪を揺らしながら、彼女も海の方をジッと見つめている。
「そうか。君たちは海を見るのは初めてか」
三人の反応に、ギリアンは少し意外そうに呟いた。
ベイルたちが勢いそのままに通り抜けた背後では、この海でとれたらしい海産物などの店が建ち並んでいて、北側の区画と似た雰囲気を漂わせている。
ノーティス村に居た頃とはまた違った料理を作れそうだ、とベイルは密かに思った。
服についた砂を払いながら立ち上がったルナは、大きく深呼吸をしている。
ベイルもそれを倣ってみる。
秋の、少し冷たい空気が肺の中に広がる。
波のさざめきが、鼓膜を震わせた。
「ギリアン……?」
不意に、存在が希薄になったギリアンが気にかかったベイルは彼の方を見る。
すると、ギリアンは寂寥感を感じさせる哀愁を帯びた表情で、海の遠く――水平線を見つめていた。
ベイルの呟きに、ギリアンはふっと口角を上げるといつもの自信に満ちた表情で顔を向けてくる。
「どうかしたかい?」
「……いいや」
何でもない風に問うてきたギリアンに、ベイルは首を振る。
そして、視線をルナに戻した。
「っ、聖女様、冷たいですよ?」
丁度ルナがサクサクと砂音を立てながら海へ向かって歩み出しているところだった。
明らかに海に入りたそうにしているその背中に、ベイルは警告する。
その声かけにルナは振り返ると、「や、やっぱりそうですよね……」と悪戯が見つかった子どものような表情で苦笑した。
陸地でも少し肌寒いこの季節。海に入ろうものなら風邪を引いてしまう。
何より、ルナは普通の人よりも体が弱いのだ。
いくら彼女が海に入りたがっていても、それを許容するわけにはいかない。
(夏になれば……)
思わず、そんなことを願ってしまう。
夏になれば海に入れる代わりにルナの体調の変化に一層留意しなければならないが、そんなことは些細なことだ。
もう数ヶ月早くここに来れていたらと、少し残念そうにしているルナを見てベイルは思った。
「なんだ、海に入りたいのかな? なら、ついてくるといい」
「え?」
突然ギリアンは声を上げると、ベイルたちに背中を向けて海岸沿いに歩き出した。
困惑していると、ギリアンは顔だけを振り返って得意げに言った。
「ここの海は少々特殊なんだ」
◆ ◆
少しの間砂浜を海沿いに進んでいくと、いくつものゴツゴツとした岩が海から顔を出している場所に辿り着いた。
海の一部分を、突き出した岩が円状に大きく取り囲んでいる。
そこでギリアンは歩を止めると、「ここだ」とその場所を指差した。
「ここは……?」
「まあとにかく、少しその辺りの海水を触ってみるといい」
「は、はあ……」
ギリアンに促され、ベイルは訝しみながら砂浜と海の境界へ近付く。
そしてその場で屈むと、そっと海に手を伸ばした。
「! あ、暖かい……」
季節からして冷たいはずの海水が、しかしじんわりとした温もりを持ってベイルの手の中で踊る。
ベイルの言葉を聞いたルナとティアも、慌てて駆け寄ると海水に手を伸ばした。
「暖かいですっ!!」
ベイルが口にしたことと全く同じことを叫ぶルナだが、その声音はとても弾んでいる。
パチャパチャと海水を何度も触り、「凄いですっ、不思議です!」と興奮した様子だ。
ティアも屈んで海水を触っている。その表情は、心なしかいつもよりも緩んでいるように見える。
「このネスト村で暮らす子どもたちは、季節を問わずこの辺りの海に入って遊んだものだ」
秋だというのに暖かい海水を触ってはしゃいでいるルナたちを見ながら、ギリアンは言った。
その言葉に顔を上げたルナは興味ありげにギリアンを見る。
「遊ぶ、ですか……?」
小首を傾げたルナに、ギリアンは「そうか」と納得したように頷いた。
「海を見るのが初めてなら、そこでの遊び方を知らないのも道理だな」
「聞いたことがあります。水に入っても濡れない服を着て海の中を泳ぐとか」
ベイルが思い出したように呟く。
風の噂で聞いたことがあったのだ。
海では砂浜でボール遊びをしたり、海の中に入って泳いだり。
ノーティス村の近くにも大きな湖はあり、時折その湖畔でピクニックを開いたり水の中に足だけを入れて涼んだり、なんてことはしたことがあるもののそれ以外のことは未体験だ。
するとギリアンは軽く髪を手で払いながら両手を広げた。
「折角だ。明日、旅の慰安を兼ねて海で遊ぼうではないか。丁度僕も仲間と共に海でくつろごうと思っていたところだ。どうかな?」
「くつろぐって、この辺りで目撃情報があった魔獣の調査はいいのか」
「たまには休息も必要だ。まあ、確かに僕には不要かもしれないが、仲間に無理をさせた結果足手纏いにでもなられると余計に危ないだろう?」
それは確かにその通りだと、ベイルは押し黙る。
「で、どうするんだい?」
ギリアンが再度問うてくる。
ベイルはチラッとルナと、そしてティアに視線を送った。
(……二人ともわかりやすすぎる)
期待に満ちた表情でこちらを見上げてくる二人に、ベイルは思わず苦笑を零す。
「わかった。迷惑でないのなら帯同させてもらおう」
ベイルの返答にギリアンは満足そうに頷き、それから何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、伝え忘れるところだった。ベイル、ティア。二人は二日後の昼過ぎに先ほどの自警団の詰め所に来たまえ。君たちにも仕事を与えなければな」
「あ、ああ……」
この村に滞在する際の交渉に自分たちの腕っ節を交渉材料にしたときから、なんとなく察しはしていたし、そのこと自体になんの不満もなかった。
ただ。
それを告げたギリアンの表情が、いつぞやの魔獣調査の道案内を命じたときのように愉しげに笑っていたことが少しだけ気にかかった。




