六話 胃袋を掴むって、きっとこういうこと。
もうすぐ昼になろうという時間帯。
教会の厨房はいつもとは違い、妙な緊張感に覆われている。
「では、まずはこれを着てください」
昼食を作るために現れたルナに、ベイルは紺色のエプロンを差し出す。
ルナはそれを困惑気味に受け取ると、首を傾げた。
「これって、ベイルくんがいつも着けているエプロンですよね?」
「え、ええ。聖女様のエプロンがなかったので代わりに俺のを、と。すみません、嫌ですよね。別に多人数に向けての食事を作るわけではないので、今日はエプロンは着けなくても――」
「い、いえ! 料理の時にエプロンをつけるのは常識です! それに、私の服は白を基調としたものなので、汚れが目立ってしまいますから! ですから、その、ベイルくんのエプロンをお借りしますねっ」
まくし立てるように早口でそう言って、ルナは急ぎエプロンを身に纏う。
その素早さに呆気にとられながら、ベイルは厨房のテーブルに視線を送った。
「今日のお昼はクリームシチューにしようと思います。食材は揃えておいたので、早速調理にとりかかりましょうか」
「は、はいっ」
エプロンを纏ったことで弛緩していた表情を引き締めて、ルナは返事を返す。
緊張で上ずったその声に、ベイルは苦笑いを浮かべた。
「手を洗ったら、早速具材を切るところから始めましょう」
ベイルに指示されて、ルナは両手を丁寧に洗う。
その表情はいつもより硬い。
昨日は自信満々だったが、いざ厨房に立ってみて不安になったのだろう。
怪我をさせないように注意しなければと、ベイルは密かに決意する。
「まずは野菜のカットからやりましょうか。今日使うのはニンジンとジャガイモ、それに玉ねぎです。皮を剥いたら一口大に切っていきましょう。少し俺がやりますね」
「わ、わかりました」
ニンジンを手に取り、包丁を握る。
刃を当ててニンジンの皮を剥いていくベイルの姿を、ルナはまじまじと見つめる。
「すごいです、ベイルくん! ニンジンの皮がみるみるうちに剥けてますっ」
「……なんだか少し照れますね。俺も、本職の方と比べると大したことないですが……っと。剥き終わったら、適当にこう切っていく感じです」
まな板の上に乗せ、ニンジンを切って見せる。
すぐ傍でルナが目を輝かせて見てくるものだから、少し恥ずかしい。
一本分だけ下ごしらえを終え、ベイルは包丁をまな板の上に置いた。
「さ、どうぞ。真似してやってみてください。……あ、手を切らないように気を付けてくださいね」
「は、はい。えーっと、包丁の刃を、こう当てて……」
恐る恐るといった様子でルナは包丁を握り、ニンジンに刃を当てていく。
それをすぐ傍からハラハラとしながらベイルは見つめる。
一応、厨房には包帯類を持ってきている。
万が一にも怪我をしても、すぐに治療はできる。
だがその懸念は杞憂に終わり、多少もたついたもののルナはニンジンの皮を無事剥き終えた。
「えっと、後はこれを一口大に……」
まな板の上に乗せてニンジンをカットしようとしたルナだったが、それを見てベイルは即座に止めに入る。
「聖女様、切るときは猫の手ですよ、猫の手」
「猫の手、ですか?」
一旦包丁を置くと、ルナは首をこてんと傾げてベイルを見る。
「手をこういう形に丸めると、包丁が安定するんですよ。怪我も減らせます」
「こ、こうですか……?」
猫と言われて、ルナは顔の近くで猫の手を作って見せる。
一瞬本当の白猫に見えて、ベイルは思わず吹き出した。
「ど、どうして笑うんですかぁ!」
「す、すいません。つい……」
ルナは「もう!」と拗ねたように頬を膨らませながら再び包丁を握り、ニンジンに手を添える。
そして、指摘された通り猫の手を作ってニンジンを切ろうとして、またしてもベイルはとめる。
「聖女様、指の関節を包丁の刃にあてるように手を置いた方がいいです」
「指の関節を、あてるように……?」
「はい。……少し失礼します。――こんな感じです」
「――ひゃいっ!?」
ベイルはルナの背中に回り込み、覆いかぶさるようにして彼女の手を上から握る。
そして、正しい位置へと誘導する。
だが、突然のベイルの行動に彼の胸の中でルナは顔を真っ赤にして固まった。
「聖女様?」
反応を示さないルナを不思議に思い、ベイルは声をかける。
耳まで真っ赤にしながらルナは肩をワナワナと震わせると、包丁をそっと置いて振り返った。
「な、なにを考えているんですか、ベイルくん! デ、デデ、デリカシーがなさすぎです!
――はうっ!?」
「せ、聖女様!?」
一息にベイルの行動に不満を言い連ねたところで、振り向いたことで彼の顔が至近距離にあることに気付き、ルナはその場にへろへろとへたり込んだ。
◆◆
「……その、本当にすみませんでした」
鍋の中でぐつぐつと音を立てるクリームシチューをかき混ぜるルナに、ベイルは改めて頭を下げる。
あの後、冷静になって自分の行動を振り返ってみると、確かに異性に対して失礼な行動だったと思う。
あの時は調理をするルナを見守るのに必死でついそれを失念していた。
ルナは振り返ると、僅かに頬を紅潮させたまま言葉を返す。
「別に怒っていませんよ。……少し驚いただけで、嫌だったというわけではないですから」
「……え?」
「と、とにかくこの話はおしまいです! どうですか、ベイルくん。もう完成じゃないですか?」
話を強引に切り上げて、クリームシチューへと話題を変える。
ベイルは歩み寄ると、鍋の中を覗き見た。
「いい感じですね。では、皿に盛り付けましょうか」
「はい!」
嬉しそうに笑顔を浮かべて、ルナはベイルが持ってきた皿にそーっとシチューを注いでいく。
そして、パセリを少しちらして――
「で、できました!」
満面の笑みを浮かべて、ルナはベイルに見せる。
少し焦げて黒くなってしまってはいるが、初めてにしては上出来ではないだろうか。
初めて自分で作った料理を嬉しそうに見せてくるルナに、一年ほど前彼女に初めて料理を振舞ったときの自分を重ねながら、ベイルは微笑む。
「とても美味しそうにできていますよ。冷めないうちに食べましょうか」
「そうしましょうっ」
当初の目的を忘れて興奮するルナ。
急ぎ付け合わせのバケッドを用意して、食堂のテーブルに並べる。
「では、いただきましょう」
「はい!」
手を合わせて、祈りを捧げる。
そうしてから、ルナはスプーンを手に取り、シチューを掬う。
「……苦いです」
一口食べて、ルナはそんな感想を零した。
「まあ少し焦げてしまいましたからね」
ある程度予想はしていたと、ベイルは苦笑いを浮かべながら自分もシチューを掬う。
が、そんなベイルにルナは制止の声をかける。
「ベイルくん! その、食べない方がいいですっ。本当に苦いですから!」
「俺は気にしませんよ」
「私が気にするんですぅ……」
ルナの制止を無視して、ベイルはシチューを一口食べる。
その様子をルナは涙目で見つめる。
もぐもぐと口を動かし、味わってからベイルは口を開いた。
「おいしいですよ、聖女様」
「お世辞なんていいですから、無理に食べなくてもいいですよ。残りは私が食べますからっ」
「無理なんてしてませんって。……うん、おいしい」
そう言ってまた一口食べるベイルの表情は穏やかで、我慢して食べている様子はない。
ルナは首を傾げると、自分もシチューをもう一口食べる。
だが、やはり苦い。
ルナが一人困惑していると、ベイルは突然シチューを掬う手を止めて柔らかな笑みを浮かべた。
「自分のために作ってくれたご飯って、こんなにおいしいものなんですね」
「――――」
そういえば、と。ルナは一年ほど前のことを振り返る。
この地に来たばかりで、教会での生活もあまり慣れていなかったころ。
ベイルが自分のためにと作ってくれた食事は今と比べるとお世辞にも美味しいとはいえないものだったけれど、心の底から美味しいと感じていた。
大好きな人が自分のために一生懸命に作ってくれた食事は、きっとそれだけで美味しいのだ。
「……ベイルくん、いつもありがとうございます」
突然ルナに感謝の言葉を言われて一瞬なんのことかと不思議そうにしたベイルだったが、すぐにその真意に辿り着き、表情を綻ばせる。
「こちらこそ、ありがとうございます」