五十四話 本当の願い
「ふっ、はぁっ、はぁ……っ」
一日の生活が終わり、静まりかえったノーティス村。
そんな時分、真っ暗な教会の中庭をティアは一人走り回っていた。
規則正しく発せられる息遣い。
やがて立ち止まると、続けて自重トレーニングを始める。
この一週間、体の不調を理由にやめていた日々の鍛錬だったが、流石にこれ以上何もしないでいると腕が鈍ってしまう。
いまだ万全とはいかないが、トレーニングをする程度ならば支障はない。
そうして暫くの間、体に染みついたメニューを順々にこなしていると、突然声がかけられた。
「鍛錬ですか?」
優しい声音で話しかけてきたのは、ルナだった。
ティアがトレーニングを中断して上体を起こしている間に、ルナは続けて「体の調子は大丈夫ですか?」と問いかけた。
歩み寄ってくるルナに、ティアは額に僅かに滲み出した汗を拭いながら応じる。
「この程度の運動だったら、問題ない」
「ティアさんは、強いんですね。私にはとてもできないです」
寂しそうな表情を浮かべながら、ルナはティアに向けて一枚のタオルを差し出した。
それを受け取ったティアは、先ほどよりも丁寧に汗を拭う。
「ベイルくんも、ティアさんと同じようなことをしています」
「ベイルが、鍛錬を……?」
「はい。夕食の後や時間があるときに、こっそりと」
「よく見てるんだ」
「え?」
「ベイルのこと」
「~~~っ、そ、それは……」
何気ない指摘に顔を真っ赤にしたルナにタオルを返しながら、ティアは小さく息を吐き出す。
鍛錬で疲れた体を落ち着かせるための吐息だ。
少し乱れた青髪を軽く手で梳きながら、「ねえ」と口を開いた。
「あなたは、どうしてベイルと一緒に神殿を逃げだそうと思ったの」
「……え?」
突然の問いに、困惑するルナ。
そんなルナに構わず、ティアは自分の考えを連ねる。
「確かに、聖女候補として神殿に幽閉される日々は辛いものなのかもしれない。だけど、神殿に従順でさえいれば普通の人の暮らしよりもいい暮らしができた。少なくとも、追っ手に怯えて過ごす今よりは。聖女になれば、大勢の人に崇め奉られる。何不自由ない暮らしを神殿が保証してくれる。……なのに、どうして」
ティアにはずっと理解できずにいた。
いくら束縛されることが耐えられなかったとはいえ、聖女という地位をかなぐり捨てて逃亡という選択をしたルナのことが。
何年もの間血の滲むような鍛錬を重ね、精神が擦り切れる任務をこなして、そうしてようやく手に入れた第一天神官という立場よりも、ルナを選んだベイルのことが。
あるいはそれが理解できないから自分はいまだ結論を出せずにいるのだという漠然とした確信が、ティアの中にはあった。
沈痛な声音で問うたティアに対してルナはそれがなんでもないことのように微笑みながら即答した。
「ベイルくんと、一緒に居たかったからです。私にとってベイルくんの存在は、神殿に従って得られるものよりも遙かに大切なものだったから」
――だから、自分はベイルと共に逃げる道を選んだ。
後悔などないと。
ルナの真っ直ぐな瞳が何よりも雄弁にその胸中を語る。
……やっぱり、わからない。
「神殿が絶対に諦めないことは、あなたもわかっているはず。どうせ連れ戻されるのなら、最初から何もしない方がいいに決まってる」
「そう、なのかもしれません。もしかしたらこの先、ティアさんのいうようなことになってしまうのかもしれないです」
悲しそうに目を伏せながら、ルナは頷いた。
ベイルのことは信頼しているし、信用もしている。
だが、相手は国だ。
個で相手するには大きすぎる存在だ。
今はまだ七天神官が逃亡した事実を伏せるために表向きには動いていないが、神殿がいよいよ本気になればどうなるか。
「なら!」
「ですが、それでも、私はベイルくんとずっと一緒に居たかったんです。あの日、私に逃げようと言ってくれたベイルくんの手を取りたかったんですっ」
どこか懐かしむように、ルナはかつての記憶を思い起こす。
聖女候補として神殿に幽閉される日々。その中で、突然現れた年上の男の子。
周りの怖い人たちとは違い、優しく接してくれた。
そのことについて直接感謝を伝えると、決まって目をそらしながら「任務ですから」と嘯いて。
いつの間にか、彼が自分の下を訪れるのを待つようになっていた。
そんな自分のことを気遣ってか、次第に彼が訪れる頻度も高くなって。
「……?」
突然黙り込んだかと思えば口元を緩ませたルナを、ティアは訝しみながら見つめる。
その視線に気付いたルナは慌ててこほんと咳をすると、熱くなった頬を両手で押さえる。
結局、ルナの話を聞いても自分の疑問を解消することができなかったティアは、話は終わったとでも言わんばかりにトレーニングを開始しようとその場に寝転がる。
立ったままのルナはティアの顔を見下ろし、微笑みながら言った。
「あなたもそうなんじゃないですか?」
「……え?」
突然放たれた言葉に、ティアは瞠目してルナの顔を見返していた。
「ティアさんも私と同じで、ベイルくんと一緒に居たかったんじゃないですか?」
「私は、違うっ。私は、……ただ、ベイルと一緒に戦いたかった……だけ、で」
勢いよく立ち上がり、瞳を揺らしながらティアは叫ぶ。
かつて自分を助けてくれたベイル。その姿に憧れて、彼がかけてくれた言葉に従って自分は強くなった。
ベイルの横に並ぶために。
……並んで、どうする?
何かに気付いてしまったように、ティアはゆっくりと目を見開いた。
同時に、今まで胸につかえていた何かがすとんと落ちる感覚を覚える。
対してルナは、自分の言葉で混乱させてしまったと感じたのか首を横に振った。
「すみません、突然変なことを。ただ、なんとなくそうなんじゃないかなって思ってしまっただけで。……たぶん、ティアさんと仲良く出来たらいいなと思っていたせいで見当違いなことを考えてしまったのかもしれません。夜分遅くに失礼しました。……鍛錬、頑張ってください」
丁寧に頭を下げて、ルナは教会の中へと戻っていく。
その背中を見送りながら、ティアは拳を強く握り、夜空を見上げた。
――そうだ、私は。




