五十三話 聖女候補の力
「はい、動かないでくださいね」
木製の長椅子が並べられた礼拝堂。
そこに腰を下ろす子どもの擦り剥けた膝小僧に手をかざしながら、ルナは優しく囁いた。
泥だらけの男の子は素直に頷く。
寒いというのに半ズボンで駆け回っていたことが仇となったか、男の子の両足は泥と血で汚れている。
この寒さも合わさって相当な痛みだろう。
しかしルナがそっとその患部を人撫ですると、周囲に光が溢れ、傷口に流れ込み、そしてそれがおさまる頃には傷は綺麗さっぱり消え去っていた。
「痛くはないですか?」
「うん! ありがと、聖女様!」
問われた男の子はニッと笑みを浮かべると、勢いよく立ち上がった。
それを見送って、ルナは隣に座っていた少女の怪我を確認し、そして手をかざす。
光が覆い、収束し、傷が癒える。
理屈では説明できない、超常の力を宿した稀人の一人であるルナ。
そんな彼女の力を目の当たりにして、礼拝堂の片隅で静かに治療の様子を眺めていたティアが呟いた。
「これが、聖女候補の力……」
より信仰を集めるため。
より勢力を拡大するため。
そのために神殿が、教皇が躍起になって生み出そうとしている聖女という存在。
幾人も存在し、あるいは存在していた聖女候補の少女たち。
その中で最も教皇が注視しているルナの力を見て、ティアは納得した。
なるほど、この力はいかにも聖女に相応しく、故にこそ希少で、手放したがらないわけだ、と。
実のところ、聖女候補の少女はルナだけではない。
たとえ彼女が逃げたところで、他の少女を聖女として完成させればいい。
替えは効く存在だ。
しかし、ルナが現れてからというもの神殿は聖女候補を蒐集することをやめ、彼女だけに力を注ぐようになった。
その理由が、よくわかった。
恐らく、彼女以上に聖女然とした存在はもう見つからないだろう。
その力も、その容姿も、……その内面も。
ルナが心優しい少女であることは、この一週間同じ屋根の下で暮らしたティアには痛いほどわかった。
――だから、神殿は諦めないだろう。彼女のことを。
「お前もいい加減、聖女様に治して貰ったらどうだ」
「っ!」
考え事に没頭していたせいで、ベイルが近付いてくることに気付くのが遅れた。
彼に声を掛けられて、ティアは肩をビクリと震わせる。
それから半眼で睨んだ。
「なんのこと」
「惚けるな。この間の傷、まだ癒えきってないんだろ?」
ベイルの言葉に、ティアは表情を歪める。
もう一週間も経つというのに、ベイルとの体の傷は癒えきっていない。
ある程度の運動ならば支障はないが、激しい戦闘を行うとなると体の内側から強い痛みが襲い来る。
遙か上空から地上へ叩き落とされたのだから無理もない話だし、何よりその程度の怪我ですんでいることが特級神官という存在の異常さを物語っている。
ともあれ、体が痛むのであればルナの力で癒やすことができる。
ティアはルナに視線を戻すと、自分に言い聞かせるように小さな声音で言った。
「……いい」
「敵の施しは受けないってことか?」
「それもある。……けど、それ以上に私にはあの女の治療を受ける資格がない」
教皇国からの追っ手としてルナを再び神殿へ連れ戻そうとしておきながら、その力の寵愛に授かる資格など。
「……なに」
「いや、なんでもないさ」
ティアの問いに返しながら、ベイルはどこか嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て胸が弾む自分を感じながら、ティアは言葉を零す。
「ベイルのそんな顔、神殿では見たことがなかった」
「顔?」
「笑ってる顔。神官だった頃のベイルは、いつも無表情で何も見ていない感じがしたから。……私を助けてくれた時も」
だから、彼の視界に入ろうと、認識してもらえるようになろうと足掻き続けた。
その結果、七天神官の一角にまで上り詰めたのだ。
ティアの指摘にベイルは顔を上げると、天井を見つめながらかつての記憶を蘇らせる。
そうだったか。……いや、そうだったのだろう。
あの時の自分は、人並みの幸せを諦めて、ただ歯車の一部になることを受け入れていたから。
「たぶん、笑えるってことは今が幸せだってことの証明なんだろうな」
「ベイルは今、幸せなんだ」
「ああ。聖女様が傍にいるこの生活は、俺にとって何よりの宝だ。失いたくはないし、奪わせない」
「兄さんは神殿でもよく笑っていたけど」
「フレディか。……あいつが浮かべる笑顔はたぶん幸せとは違うような」
彼女の兄であり、第六天神官でもある男の姿を思い浮かべながら、ベイルは苦々しげに答えた。
ティアの言うとおり、あの男はよく笑顔を浮かべていた。
しかしそれは幸せから生まれるようなものではなくて、もっと暴力的な。
「……お前はどうなんだ。この一週間神殿を離れ、神官としての責務を忘れて過ごしてみて」
もう一週間も経っている。
ベイルとルナの暮らしを見て神殿を離反するか判断するという約束に期限はないが、結論を出さないまま長居されては神殿の連中がどう動くかわかったものではない。
そのことはティアもよくわかっているはずだ。
ティアはこの一週間の生活を振り返るように目を瞑ると、少しの間を置いてから薄く目を開けた。
「楽しかった、と思う」
この一週間、主にルナの提案でティアは掃除や料理、洗濯などの手伝いをしていた。
とはいえ、ルナはまだまだ家事に関しては不得意の領域を出ないので、結果としてベイルが二人の面倒を見ていたわけだが。
「任務以外で誰かと協力して何かをするっていうのは初めてで、たぶん、楽しかった」
「なら――」
「でも、楽しいだけ」
「――ッ」
「ベイルに追いつくために鍛錬に鍛錬を重ねていた時のような充足感も、充実感もない。苦しくはないけど、生まれるのは漠然とした感情だけ」
「…………」
どこか悲しそうに話すティアを、ベイルは困ったように見つめていた。
漠然と生まれる感情。ともすれば日々を送るうちにその価値を忘れてしまうほどに曖昧で、儚いそれを、たぶん幸せというはずだ。
少なくともベイルはそう思っている。
周りが見ればなんてことのない日常。誰もが普通は当たり前に享受できる生活。
その中で生まれる心の温かさを、幸せだと。
それを自覚するには、ティアの世界はあまりにも狭くて。
余計な感情を抱かせないように、神殿は広い世界を与えないようにしていた。
そのことに、ベイルは今更ながらやるせない気持ちになった。




