五話 例え子どもでも油断は禁物です。
「ベイルくん、明日の食事は私に任せてくださいませんか?」
夜。子供たちの喧騒がなくなり静かになった教会内。
その奥の食堂でいつも通りの食卓を囲んでいると、突然ルナがナイフとフォークを皿の縁に置いて、ベイルに切り出した。
ベイルは目を丸くすると、そのまま首を傾げる。
「え、また急にどうしたんですか? もしかして、朝のことをまだ気にされていたり?」
「……ま、まあそんなところです」
歯切れの悪い返しにベイルは怪訝そうにしながらも、少し考えこむ素振りを見せる。
彼女と暮らし始めてから一年が経つが、ルナが料理をしている姿をベイルは見たことがない。
というよりはベイルが毎日食事の用意をしていたために、する必要がなかったというのが正しいのだが。
ともかくとして、恐らくだがルナは料理ができないはずだ。
万が一にも包丁で手を斬ったり、熱湯で火傷をしたり、油をひっくり返したり……。
「…………」
脳裏でルナが料理をする姿を想像すると、どうしてかそんな不吉な光景ばかりが浮かび上がってくる。
思わず眉間に皺を寄せていると、ルナが「ベイルくん?」と気づかわし気に声をかけてきた。
それに反応して、ベイルはルナをちらりと見つめる。
年頃の女の子は、料理や裁縫などに興味を持つものらしい。
ルナも十七歳。そういう意味では、彼女が今料理に興味を抱き始めていてもおかしくはない。
そして、彼女がやりたいと思うことをとめるつもりはベイルにはない。
自分が傍で見守っていれば大丈夫か。
ベイルは息を吐くと、ルナに微笑みかけた。
「わかりました。……では、明日の昼食をお願いします。朝は忙しいですからね、焦って包丁で手を切ってしまっては料理どころではなくなってしまいますから」
「む、ベイルくんは私がそんな初歩的なドジを踏むと思いますか?」
「あれ? もしかして聖女様、料理の経験が?」
不服そうに膨れっ面になったルナを見て、ベイルは「おや?」と首を傾げる。
聞かれて、ルナは胸に手を当てると自慢げに口を開いた。
「任せてください! 一年間ベイルくんのご飯を食べ続けた私に死角はありませんっ」
「……あ、やっぱり料理をした経験はないんですね」
一体その自信はどこからくるのかと、ベイルは思わず苦笑する。
そんな彼を見てルナは一層不満そうにする。
ばつが悪くなったベイルはコップに手を伸ばし、水を呷ってから再度ルナに視線を送る。
「では、明日の昼食を楽しみにしていますね」
ベイルの言葉に、ルナは満面の笑みを浮かべる。
「はいっ! 頑張ります!」
◆◆
夕食を終え、食器を洗い終えて食堂に戻ってきたベイルが右手に乗せているトレイの上には、ティーカップがある。
朝から夜まで忙しい教会で、紅茶を片手にゆっくりと雑談に興じる夕食後のこの時間は二人にとってとても大切なものだ。
話の内容は、大抵食事の時に交わした話題を掘り下げたもの。
取り留めもない、明日になれば忘れてしまうような話ばかりだが、それぐらいがちょうどいいのだと二人は思う。
ソーサーと共にティーカップを差し出され、ルナは「ありがとうございます」と微笑んで受け取る。
トレイの上にある砂糖とミルクをカップに注ぎ、ティースプーンで静かに混ぜる。
その間、ルナはチラッと対面に座るベイルの様子を窺う。
自分も結構な量砂糖とミルクを入れたが、ベイルはそれを上回る量を入れている。
真面目で大人なベイルがその印象に反して甘党なのが少し可笑しくて、ルナは密かに笑みを浮かべた。
「あ、そうでした……っ」
「? 聖女様……?」
何かを思い出したように両手を合わせるなり立ち上がり、食堂を去っていくルナの背中をベイルは不思議そうに見つめる。
少しして、その手に小さな紙袋と平皿を一枚携えて戻ってきた。
「ベイルくんと後で一緒に食べようと思って残していたんです」
椅子に座りなおすと、同時にガサガサと袋を開ける。
そして、平皿の上で紙袋を逆さにした。
袋の中に入っていたクッキーが平皿の上に広げられる。
それを見て、ベイルは意外そうに声を零す。
「クッキー、ですか」
「はい、アルマさんにいただきました!」
「へぇ、アルマが。うまくできていますね……」
平皿に並べられたクッキーを見て、ベイルは感嘆の声を上げる。
「とても美味しかったんですよ! ベイルくんもどうぞっ」
ルナは一枚手に取ると、微笑みながら平皿をベイルの方へと押しやる。
「いいんですか? これは聖女様がいただいたものでは……」
「いいんですっ。ベイルくんにあげてもいいと、アルマさんにお許しもいただきました。美味しいものは誰かと一緒に食べるともっと美味しいですから」
「で、では。いただきます」
ベイルは平皿に手を伸ばし、クッキーを一枚手に取る。
そして、微笑むルナを見ながら口に放り込んだ。
「……んまい」
「ふふ、そうでしょう?」
「ええ、とても美味しいです。これをアルマが。……今度作り方を教えてもらいましょうかね」
昔と比べると料理が得意になったとはいえ、お菓子系に関する知識は全くない。
少なくとも今食べているクッキーを作れるかと訊かれて、作れると答える自信がベイルにはない。
「…………」
対面では、ルナもクッキーを口に運び、もぐもぐとしている。
その表情はとても幸せそうで、ベイルは彼女のその顔を見てつい口元を綻ばせる。
やはり年頃の女の子。甘いものやお菓子は好きらしい。
ルナが喜んでくれるなら、お菓子作りを勉強するのも悪くないかもしれない。
……何より、自分も食べたい。
ベイルは平皿にすっと手を伸ばすと、さていつアルマに教えてもらおうかと今月の予定を脳内で整理し始めた。
◆◆
「夜なのにたくさん食べてしまいましたね」
平皿の上を埋め尽くしていたクッキーを綺麗に平らげて、ベイルは思わず苦笑する。
その言葉に、ルナはむっと頬を膨らませる。
「ベイルくん、こういうのは気にしたら負けなんですよ! 体重とかは気にしたらダメですっ」
「別に体重の話はしていないじゃないですか……」
気にしているんだなと、ベイルは内心で肩を竦める。
個人的にはもう少し食べてもいいと思うぐらいだが、本人が気にするのなら明日の朝食は軽めにしておこう。
「それにしても、本当に美味しかったですね。アルマには今度何かお礼をしないと」
「そうですね。あ、教会で育てているハーブはどうですか?」
「いいですね。ハーブティーはきっとクッキーにもあいます。…‥そういえば、アルマはどうしてクッキーを?」
「それは……」
ベイルに聞かれて、ルナは固まる。
ベイルは、アルマがヒースに好意を寄せていることなど知らない。
アルマもあまり知られたくはないだろう。
何より、胃袋を掴むために作ったクッキーの味見を頼まれた、などと言っては明日自分が昼食を作る目的が明け透けになってしまう。
結局ルナは「ど、どうしてなんでしょう……?」と曖昧な笑みでその場を濁す。
――っと、突然ルナは何かに気付いたように固まる。
徐々に、元々白い顔を蒼白させていく。
「その、ベイルくん!」
「は、はい……?」
鬼気迫る表情で突然身を乗り出してきたルナに、ベイルは困惑する。
そんなベイルをよそに置き、ルナは真剣な表情で問う。
「その、アルマさんに胃袋を掴まれたりしていませんよね?」
「……へ?」
「ですから、……その、アルマさんのことを、好きになってしまったりとか……!」
いたって真剣といった様子のルナにベイルはぽかんとする。
そうしてから、ため息を吐いた。
「いくら歳が離れていると思っているんですか。九つも年下の子供に手造りのクッキーを貰っただけで好きになるほど俺は節操なしじゃないですよ」
「そ、そうですよね……」
ホッと胸を撫でおろし、ルナは安堵の声と共にゆっくりと椅子に腰かける。
そんなルナに視線を送りながら、ベイルは冗談めかした笑みと共に口を開いた。
「聖女様は、時々突拍子もないおかしなことをおっしゃられますよね。少し天然というか。あ、いえ、バカにしているわけではないですよ。むしろそういう面も可愛いと思います」
「……フォローしたつもりですか」
ルナがむっとしたのを見てベイルは慌てて付け加える。
その見え透いた意図にルナは唇を尖らせるが、しかしその頬は赤く、語気もどこか弱弱しい。
自覚はないのだろうが、とルナはため息を一つ。
それからジト目でベイルを見つめる。
「……それもこれも、全部ベイルくんのせいなんですから」
言葉と反してむしろ嬉しそうな語気で小さくそう呟いて、ルナは紅茶の残ったティーカップの縁に口をつけた。