四十九話 幸せの在り処
「…………」
真っ暗な部屋の中。
綺麗に整えられたベッドの上に横になっていたティアはゆっくりと瞼を開けると、その青い瞳を外気に晒した。
鈍い痛みを発する頭に顔をしかめながら視線を天井からすぐ脇へとずらす。
すると、ベッドのすぐ傍に置いた椅子に座っていたベイルと視線があった。
ベイルは声を上げるでもなく、無言でティアを見つめる。
交わる二つの視線。
少しして、ティアはふっと儚げな笑みを浮かべると掠れ声で言った。
「……ほら、やっぱり」
「……?」
ティアの呟きの意味がわからずに、ベイルは眉を顰める。
すると、ティアはベッドに横になったまま視線を天井へ戻し、独り言のように呟き始めた。
「今のベイルには、私のことを殺すことはできないって思ってた。だってベイル、聖女にとっては敵の私を見逃そうとしたんだもん」
「――!」
ティアとの戦闘が始まる直前に、ベイルが彼女へ言い放った言葉。
――今すぐここを去れ。
何もかもを忘れるのであれば、命だけは助けてやると。
仮にその時、ティアがそう約束して神殿へ戻ったとしても、何も言わない確証はない。
……以前のベイルであれば、そんな危険を冒してまでティアを見逃そうとはしなかった。
だから。ティアは矛盾だと言ったのだ。
ルナのことを何よりも大切にすると心に決めているくせに、そんな危険を冒そうとしたベイルの行動を。
「……なるほどな」
ベイルは微かな自嘲の笑みを浮かべる。
確かにそれは矛盾だ。それも致命的な。
だが、ひとまず自分の提案に対する答えを聞くまでは見逃すと、ベイルは先ほどルナと共に決めた。
「……それで、私をどうするつもり? まさか、いくら今のベイルでもこのまま何もしないで見逃すなんてことは、しないよね」
「ああ、そうだな」
苦しげに顔をしかめながら上体を起こしたティアが、冷たい眼差しを向けてくる。
彼女の言葉に頷きながら、ベイルは言った。
「お前、神殿から逃げ出さないか」
「――!」
ティアが息を呑む気配。
構わず、ベイルは二の句を告げる。
「このまま俺たちと一緒に……、いや、一緒じゃなくてもいい。神官としての使命も責任も、神殿への忠誠もすべて捨てて、ただの一人の人間として過ごさないか。今の俺みたいに、幸せな、ごく普通の生活を」
「幸せ……? 私にとっての幸せは、強くなることだった。強くなって、ベイルと一緒に戦うことだけが私の望み。私の願い。私の夢。だから、今更そんなすぐに壊れちゃう脆い幸せなんていらない」
「それが、お前の幸せか」
改めて真正面から言われて、ベイルは自分の胸に鈍い痛みが走るのを覚えた。
自分があのとき放った言葉が、この少女をここまで歪にしてしまったのかと。
もちろん、根底には神殿の存在があるだろう。
いや、だからこそ、彼女を神殿から解き放つことこそが唯一の贖罪だ。
「ベイルこそ、どうして神殿を裏切ったの? あのまま特級神官として神殿に仕えていたら、何不自由ない生活ができたのに。こんなところで隠れるように暮らす必要も、追っ手に怯えることもない、それこそ幸せな生活が。……第一、何年も厳しい鍛錬に耐えて得た力を、地位を、どうして捨てられたの」
ティアの青い瞳が揺れる。
――第一天神官。
教皇国においてその称号は、実質ナンバーツーを意味する。
世界での巨大勢力の一つである教皇国のそのナンバーツーということは、それだけで何不自由ない暮らしが出来る。
国に、教皇に従順であれば。
金も、女も、名声も、何もかも。
事実、教皇国を逃げ出す前の彼がそうだった。
味方は彼に畏敬の眼差しを向け、敵は死神と表し、恐れ戦慄く。
そんな地位を、ベイルはあっさりと捨て去った。
その行動がティアにはずっと理解できないでいた。
必死になって、苦しい任務や鍛錬をこなして、何年も何年もそうし続けて、そしてようやく辿り着く場所だというのに。
――それを、天秤にかけて、どうして一人の女の方に傾くのか。
「どうして、か」
その問いは、ベイルにとって答えに窮するものだった。
迷いはなかった。
神殿を裏切ることも、今の地位を捨てることも。それこそ一瞬たりとも。
いつの間にか、いつもルナのことを考えるようになっていた。
いや、思えば教皇からの命令で彼女と出会ったときからずっと。
初めは努めて冷静に、任務に望むいつもの冷徹な自分を保とうとしていた。
だけど、彼女と接しているうちにそんなものはどうでもよくなってきて。
……胸に湧き出た感情がなんであったのか、当時はわからなかったけれど、今ならわかる。
それを口にしたことは一度としてないけれど。
ベイルはふっと笑う。
ティアはジッと見つめる。
「そうだな。……彼女と、ずっと一緒にいたいって思ったからだな」
彼女を神殿から救いたい。
彼女に普通の少女としての幸せな生活を送って欲しい。
自分を救ってくれた彼女を今度は助けたい。
もちろん、そう思っていた。
だけどそれ以上に。本当に自分勝手な、我が儘なことだとはわかっているけれど、ルナとずっと一緒にいたいと――そう、願ったから。
ベイルの告白に、ティアは静かに目を閉じた。
そしてゆっくりと開きながら、小さく頭を振る。
「わからない。私にはわからないよ、ベイルの言っていること」
そうだろうな、と。ベイルは薄い笑みを浮かべる。
ルナに出会う前の自分だったら、同じ話を聞いてもティアと同じように首を傾げていただろう。
「なあ、ティア。お前はなんのために力を求めるんだ。どうして神殿のためにその力を使うんだ」
「なんのためって、……それは、ベイルに追いつくためで。どうしてって、……それ、は」
ベイルの問いに、ティアは顔をしかめる。
どうして。なんのために。神殿。力……。
小さな声で繰り返し呟いて、悩むティア。
やがて、掠れた声で呟く。
「……わから、ない」
なぜ神殿のために力を使うのか。
その理由を、持ち合わせていないと。
迷い子のような不安げな表情で、ティアは言う。
これまで考えたことのない問いに、困惑した様子で。
まるでかつての自分を見ているようだと、ベイルは思った。
ルナに出会う前の自分もまた、ティアと同じだった。
力を持つ理由すらなく、ただ命じられた任務をこなすだけ。
そこに理由も目的もいらないと、そう思っていた。
「でも!」
突然ティアが声を荒らげた。
「どうあっても、神殿には逆らえない! 私たちは石版を壊されたらそれで最後。力を失ってしまう。なら、理由なんていらないっ。神殿から与えられた力を、神殿のために振るう。それだけでいい! ベイルだって、石版を壊されたらあの女を守ることさえできないんだから!」
神殿に仕える理由は、あるいはそれで十分だと。
ティアは吠える。
その言葉を聞いて、ベイルは僅かに肩をすくめた。
「そういえば言ってなかったな。国都で戦った下級神官。実はあいつらが俺の石版を壊したんだよ」
「嘘!」
「本当だ。だから、弱かっただろ? 俺」
「…………」
俄には信じがたい。
石版を壊されれば神技を扱う力は失う。
それは絶対だ。
だからこそ、神官たちは誰一人として神殿には逆らわないし、逆らえない。
だけど、確かに。
ティアはジッとベイルを見つめる。
確かに、草原での戦いでのベイルは弱かった。
負けた自分がこんなことを思うのは可笑しな話だが、神殿時代のベイルはあんなものではなかった。
てっきり、それはベイルが辺境の安穏とした生活に慣れたせいなのかと思っていたが。
「石版を壊された俺が神技を使えている以上、お前たちが信じる神は存在しないことの何よりの証拠だ。ほら、神殿のために力を使うのがバカバカしく思えてきただろ?」
ベイルがルナと共に神殿を逃げ出すと決めた時。
それは、ベイルがすべてを知ったときだった。
神殿が崇め、神技という超常の力を信心深き者に与えれるという創世神の、その正体を知ったとき。
こんなものにルナと、そして自分の人生を捧げることの無意味さに気付いた。
ベイルの言っていることが嘘ではないと、彼の物言いから感じ取ったティアは「なら、どうやって……?」と、抱いて当然の疑問を発した。
どうして未だに神技が使えているのかと。
「それは、教えられないな。お前が敵である内は」
「…………」
ベイルの返答に、ティアはキュッと唇を噛む。
それから暫く黙り込んでから、小さく頷いた。
「……わかった。ベイルたちの生活を見て、決める。ベイルたちの言う幸せが何か、それを見極めて」
「ああ、それでいい。その上でお前が神殿につくなら、今度こそお前を殺す。もちろん、聖女様に危害を加えようとした時点でも」
二人の視線が交錯する。
それは、ベイルにとってもティアにとっても、危険な約束だった。




