四十八話 ルナの想い
ギィィと、礼拝堂の扉がゆっくりと押し開けられる。
中を窺うようにしながら顔を覗かせ、そこに誰もいないことを確認してからベイルは足を踏み入れた。
そして、ゆっくりと扉を閉める。
遠くの山の空はすでに淡い青へと変わり始めている。
草原から教会に戻るまで、結構な時間がかかってしまった。
ベイルは一度深く息を吐くと、背に背負った少女の顔をちらと見る。
視界に移る青色の髪と、柔らかな微笑と共に眠る少女の顔。
スー、スーと、戦闘の末に気を失ったとは思えない安らかな寝息にベイルは眉を寄せる。
――何を、しているんだ。
結局、殺せなかった。
ルナを狙う神殿の追っ手。それも七天神官の一人、第七天神官。
ここで殺さない理由がない。
今からでも草原に引き返し、国都で現れた下級神官たちのように処理するべきだ。
……いや、特級神官がいなくなればあの神殿もいよいよもって本気を出さなければならなくなるだろう。
今までは重要な聖女候補と、そして一人の特級神官を連れ戻すために秘密裏に行われていたそれが、もっと過激な手段になるかもしれない。
だから、ここで彼女を生かしておくのは正しい……のだ。
「誰に言い訳してるんだろな」
それこそ誰にいうでもなく、一人呟く。
静まりかえった礼拝堂を、ベイルの足音だけが反響する。
礼拝堂から廊下へ、そして居住のための建物へと入る。
「……っと」
食堂に差し掛かったところで、人の気配を感じ取り、ベイルは立ち止まる。
見ると、食堂のテーブルに突っ伏したまま眠っている人影が。
ゆっくりと歩み寄り、自分が背にかけた上着を羽織ったまま気持ちよさそうに眠っているルナを見て、ベイルは思わず苦笑した。
「まさか、まだここで寝てるとは」
流石に起こした方がいい気もする。
一晩中テーブルで寝たら体を痛めてしまうし、何より風邪を引いてしまうかもしれない。
とはいえ――。
背中の重みに意識を向けながら、ルナへと背を向ける。
ティアのことを彼女にどう説明したらいいかわからない。
ひとまず整理するためにも、一旦自分の部屋へ連れ帰ろう。
そう考えて踵を返そうとしたベイルの背後で、何かが動く物音がした。
「……ベイル、くん?」
「――!」
慌てて振り返る。
もぞりと身動ぎをした後、上体を僅かに起こしながら目を擦り、こちらを見つめてくるルナ。
寝起きだったためにボーッとしていた頭が徐々にハッキリとしてきて、目の前の光景を正確に認識していく。
認識、していく……。
「……ベイルくん、その、女の子は?」
ベイルが背負っているティアの存在に気付き、ルナは思わず勢いよく立ち上がりながら、寝起きなことも相まって混乱する頭を必死に整理して問いを投げる。
何も知らない者が見れば、目の前の光景をそういうことのようにとってしまうだろう。
「え、えっと、その……」
どう答えたものかと目を逸らして言い淀むベイルを見て、ルナはなんだか胸が締め付けられる感覚を覚えた。
「!? せ、聖女様……!?」
慌てて、ベイルは駆け寄る。
彼の驚きに染まった顔を見て「へ……?」と間抜けな声を漏らしたルナだったが、ふと何かが頬を伝い、手を当てる。
自分が泣いていることに気付くや否や、ルナは慌てて頬を拭いながらこの場を離れようと駆けだした。
「ちょ、聖女様! 誤解ですって!!」
慌ててベイルは彼女の服の袖を掴むと、必死の形相で呼び止めた。
◆ ◆
「そ、そんなことがあったんですね……」
応接室のソファに腰を落ち着かせたルナは、隣に座るベイルの話を聞いて少し気まずそうに呟いた。
あの後。
食堂を出て行こうとしたルナを呼び止め、一旦応接室に場所を移してからベイルは全てを話した。
結果として、誤解を解くことはできたのだが。
「びっくりしました。てっきり、ベイルくんが……」
心底安心したような声音でそこまで口にしてから、ルナは顔を赤くして慌てて口を閉じた。
それからちらと視線を前に移す。
テーブルを挟んで向こう側のベッドに横に寝かされているショートカットの青髪の少女を見つめる。
その容姿にはまだ幼さが残る。
ティアが特級神官ということは、つまりはベイルと同じようなことをしてきたのだろう。
彼が神官として何をしてきたのかを、ルナはすでに聞いている。
お互いが出会ってから半年ほどが経ったある日のこと。
初めは任務として努めて冷たく接してきたベイルと打ち解けてきた頃。突然ベイルが余所余所しくなり始めて、その理由を問うたときのことだ。
自分の手は血で塗れているからと、神に罪を告白するかのような面持ちで、それでいて救いを求めるかのようにベイルは語った。
迷い子のように感じられたルナは、その時思わずベイルを抱きしめてしまったことを覚えている。
それにしても、と。
脳裏によぎった記憶を一蹴して、再び目の前の少女――ティアへと意識を向ける。
「こんな女の子が、特級神官として過酷な任務を行っているんですね……」
ベイルと重ねてしまったせいか、ひどく胸が締め付けられる。
その呟きを耳にしたベイルは思わず目を細めた。
――彼女だって、似たようなものだろうに。
ティアと同じ年にも関わらず神殿によって拘束されていたルナ。
特級神官として過酷な任務に身を投じることと、神殿に監禁されること、両者にどれほどの違いがあるというのか。
「――ッ」
その事実を考えるだけで、胸の内を激情が駆け巡る。
神殿への、強い怒り。
だが、今この状況でそんな感情を抱くのが間違っているということも理解している。
神殿を憎むのならば、ルナのことを何よりも考えるのならば、ティアをこの場に連れてくるべきではないのだから。
にもかかわらずそんなことをしてしまったのは――。
「ベイルくん……?」
「……っ」
いつの間にか膝の上で強く拳を握っていたらしかったベイルの手の上に、そっとルナの手が重ねられる。
彼女の方を見ると、心配そうに覗き込んできていた。
「そんな顔をして、どうしたんですか?」
「え、俺変な顔してましたか」
「はい。……なんというか、苦しそうな、そんな顔を」
「そう、ですか……」
ベイルはそう返すと、疲れたようにソファの背にもたれかかると天井を見上げた。
そんな彼に、ルナは少し強い声音で聞いた。
「ベイルくん、もしかして彼女をここに連れてきたことが間違っていたと思っていますか?」
「……! どうして、そんな」
「いつもベイルくんのことを見ているんですから、わかりますよ。ベイルくんが悩んでたり苦しんでいるときは、いつも誰かのことを考えている時ですから。……特級神官であるティアさんを助けたことを悩んでいたんですか?」
顔を上げたベイルがルナを見ると、彼女は慈愛すら感じさせる穏やかな笑みでこちらを見つめていた。
敵わないな、と。
ルナへ体を向けながら、ベイルは口を開く。
「聖女様の見抜いた通りです。……俺は、たぶん彼女を助けるべきではなかった。事実、助けるつもりはなかった。ティアが現れたとき、俺は本気で殺すつもりだった」
「…………」
殺す。
その単語を耳にして、ルナは悲痛な面持ちになる。
「でも、できなかった。神殿には友と呼べる者も、仲間と呼べる者もいなかったと思っていたんです。なのに……、可笑しな話ですよね」
笑いながら、ベイルは話す。
意識の曖昧な状態で変なことを口走られたせいで、躊躇してしまった。
こんなこと、それこそ神殿にいたころの自分ならば感じなかったはずなのに。
「ベイルくんは、ティアさんと仲が良かったんですか?」
「さあ、どうでしょう。彼女の兄とは仲が悪かったんですが、ティアとは特別仲がよかったとは。……まあ、悪くもなかったんですが」
むしろ、神殿の人間の仲では一番親しかったような。
そんなことを、ルナの問いに答えながらぼんやりと考える。
応接室に沈黙が降りる。
ベイルはやはりまだこの選択を悩み、そしてルナは何かを考えこんでいる。
少しして、ルナはポツリと絞り出すように呟き始めた。
「ベイルくん。ベイルくんが私のことを考えてくれていることはわかります。そのことはすごく、すごく嬉しいです」
でも、と。
ベイルの顔を真っ直ぐに見つめてルナは続ける。
「ベイルくんが私のことを想ってくれているように、私もベイルくんのことを想っています。神殿を逃げ出して、新しい人生を送ると決めたあの日に、私は……私たちは、二人共が幸せになれることを願ったはずです」
熱の籠もった声で、ルナは言う。
いつの間にかベイルの右手はルナの両の手で握られて、熱を伝えてくる。
そういえば、あの日ルナに逃げだそうと提案したときも、彼女はこうやって俺の手を握ったっけ。
場違いにもそんなことを思い出すベイルに、ルナは尚も続ける。
「ベイルくん。私はベイルくんの選択が間違いだなんて思いません。むしろ、私は嬉しいんです。ベイルくんが、ベイルくんの望む選択をしてくれたことが」
「――――」
ルナの笑顔に、見惚れる。
彼女はいつも、こんな風に笑いながら自分の悩みを吹き飛ばしてくれる。
自分の悩みなんてちっぽけなものなんだと、思わせてくれる。
その笑顔に、どれだけ支えられてきたことか。
その笑顔に、どれだけ救われてきたことか。
だけど、いや、だからこそ――。
「……聖女様。聖女様の言葉は本当に嬉しいです。ですが、俺にとっては聖女様が何よりも大切です。だから、聖女様を危険に晒すようなことは……ッ」
すぐ傍で眠るティアの寝顔が視界に入り、ベイルは表情を歪める。
殺せ、殺すべきだ。
国都に現れた神官たちだって、そうしたじゃないか。
それがたかだか見知った少女一人、何を躊躇う。
物事の優先順位を間違えてはいけない。
理性が。何度も何度も、繰り返しそう告げてくる。
しかし感情が、それに抗おうとする。
なまじティアの背景を、神殿に入ることになった経緯を、そして神官となってからのその後を知っているからか。
彼女を殺すことにどうしても抵抗が生まれてしまう。
これを、たぶん同情というのだろう。
ティアへの同情ではなくて、自分への。
彼女の生い立ちが、少し自分に似ているから。
「ベイルくん」
「ふぇふぃほぉさま!?」
突然両頬をルナの白い手が挟み込んだ。
唖然としながら疑問の目を向ける。
すると、ルナはこつんと自身の額をベイルの額につけると、囁くように言った。
「今は私のことよりも、ベイルくんが選びたい方を選んでください。私のせいで望まない選択をするベイルくんを見るのは、とても辛いです」
「…………」
一体どれほどの時間そうしていただろうか。
ベイルもルナも、そのまま固まってしまう。
不意にルナが手を離して、ベイルは自分が呼吸を忘れていたことを思い出した。
(自分が、どうしたいか……)
ティアと、ルナを交互に見る。
たとえば二人のどちらかを選べと言われれば、自分は間違いなくルナを選ぶ。
だが、今二人を天秤に掛けないでいいのだとすれば。
「聖女様」
「……はい」
静かに黙ってベイルが話し出すのを待っていたルナは、彼の声に優しく頷き返す。
ベイルは少し躊躇ってから、しかしハッキリと言った。
「彼女を、説得します。神殿から逃げないかと」
「はいっ」
そう告げると、ルナは満面の笑みを咲かせながら嬉しそうに頷いた。
そんな彼女にベイルもまた表情を和らげる。
部屋の準備をしてきますねと飛び出していったルナの背中を見ながら、ベイルは胸の中で密かに決意する。
もし、説得に応じなければ。その時は――。
その決意は、心優しい少女には決して悟られぬように。




