三十九話 玩具
宿を出たベイルは、そのまま町の外へと繰り出した。
整備された街道を逸れ、人の手が行き届いていない草原を暫くの間無言で歩き続ける。
背後からつきまとう気配に意識を向けながら。
町と街道から十分に離れたところで、ベイルは不意に足を止めて夜空を見上げた。
涼しい風が草原をだだっ広い草原を吹き抜け、ベイルの髪を揺らす。
黒髪に、漆黒の牧師服。
夜の闇に溶け込むようにしてベイルはそこに佇んだ。
しかし、彼の周りに突如として人影が現れた。
夜空から視線を落とし、ベイルは周りを見る。
そこには自分を取り囲むようにして五人の男が立っていた。
彼らの装いは皆同じだった。
ベイルとは対照的に白いマントを纏い、手には同じく白い手袋をつけている。
神聖な雰囲気を感じさせる風体をした男たちが纏うそれらは、教皇国に仕える神官たちの正装だ。
つまり彼らの正体もまたそれであり、そして彼らが今ここにいる理由もハッキリとしている。
ベイルは他に隠れている神官がいないか気配を探りながら、それが杞憂であることを認識し、ルナの安全が未だ確保されていることを確認して薄く笑った。
「中々寝付けず夜風に当たろうと思って町の外まで出てきたのですが……、奇遇ですね。あなた方も?」
わざとらしい言い回し。
芝居がかった振る舞いを前に、しかし神官たちはくすりとも笑わない。
ベイルの問いかけに、彼の正面に立っていた神官が一歩前に歩み出た。
そして、黒い刺繍で二本の線が引かれた白い手袋を着けた右手を胸に当て、慇懃な礼と共に口を開いた。
「ようやく見つけました、第一天神官様。さあ、教皇様がお待ちです。町にいる聖女候補の少女と共に、神殿へご帰還を」
くだらない戯れ言に付き合っている暇はないと、そんな威圧と共に繰り出された神官の言葉に内心でため息を吐きながら、ベイルは周囲の神官たちに再度目を向けた。
目の前の男を除いて、残る四人が着けている手袋には黒い刺繍で三本の縦線が引かれている。
教皇国の神官たちの正装は白いマントと白い手袋ではあるが、その階級によってそれぞれ微妙な違いがある。
神官の階級は一番下に神官見習いという位があり、その上が五級神官だ。
そして試練を乗り越えて神技が仕えるようになった神官は、四級神官へ上がることができる。
以降、神技の強さと功績に従って、三級、二級、一級と上がっていく。
そして最高位が特級神官である。
白いマントは位があがるにつれてその装飾も豪奢なものとなる。
そしてより明確に、その者の階級を表すのが手に着けている手袋だ。
一級から五級までは黒い刺繍でその階級を表す数字が縦線で引かれ、見習い神官は何も引かれていない。
そして、七人しかいない特級神官に至っては、その順位に従って同じく黒い刺繍で『Ⅰ』~『Ⅶ』の文字が刻まれている。
要するに、この場には二級神官が一人と三級神官が四人いるということになる。
いずれも、神技を扱うことのできる神官たち。
そんな彼らをこの場に差し向けたその意図など、問うまでもない。
しかし――。
ベイルはそれまでののんきな表情を一転、鋭い眼光を神官たちに浴びせながら言葉を返す。
「今更、俺が戻るとでも?」
殺気を振りまきながら、よくもそんな言葉を投げられたものだ。
ベイルにとって教皇や神官を含めた神殿の人間が敵であると同じように、神官たちにとってもまたベイルは憎き敵だ。
己が信ずる神や教皇を蔑ろにした裏切り者なのだから。
だが、当然彼らはそんな私情よりも与えられた命令を優先する。
「教皇様は此度の第一天神官様の暴走――もとい、独断専行をお許しなされています。聖女候補の少女と共に直ちに神殿へ帰還するのであれば、これまでの功績を鑑み、その責は問わないと」
「それは有り難い。だが、今の俺にとっては彼女をあの場に戻すことに勝る苦しみはない。それに、彼女と共に神殿から逃げ出したときに俺は決めたんだよ。彼女の人生には責任をとると。今更神殿から責任云々をとやかく言われたところで、俺にとっては関係のないことだ」
「……神殿に、我々に逆らわれるおつもりか」
殺気が更に鋭くなる。
生半可な者が受ければ即座に地に崩れ落ち、全身を震わせるであろう敵意を前に、しかしベイルは鼻で笑ってみせる。
「それこそ、今更過ぎる問いだな」
そう、今更過ぎる。
あの日。
ルナを連れて神殿から逃げると決めたときに、すでに教皇国を相手取って戦うことを覚悟していたのだから。
そんな彼に今更その覚悟を問うなど、一体何の意味があるのか。
最早ベイルの決断が変わらないと察した神官たちは、内に秘めていた敵意を一気に解放する。
命令がなければすぐにでも殺してしまいたかった神官たちにとって、ベイルが神殿に逆らうのはむしろ望ましいことだ。
この手で、神の反逆者を屠ることができる。
信徒としてそれ以上の喜びはない。
獰猛な獣のような表情で、神官は口を開く。
「では、あなたをここで殺し、聖女候補の少女を連れ戻すといたしましょう」
「俺を倒す? ……まさか、この俺が誰か忘れたのか?」
ベイル・ベレスフォードは教皇国に七人しかいない特級神官――七天神官の内一人。
そしてその中でも、最強を冠する第一天神官。
下級神官が五人程度では、相手にもならない。
だからこそベイルはこの時間に町の外へ一人出歩くことで彼らを釣り出し、ルナには決して悟られぬよう密かに始末しようと考えていた。
唯一の懸念事項は追っ手が七天神官の面々であったことだったが、国の最大戦力を内密に国外に放出する覚悟まではなかったらしい。
結局、現れたのは二級神官が一人に三級神官が四人。
当初の予定通り、即座に彼らを始末し、何気ない顔で宿に戻ればいい。
そうすればルナには余計な心配をかけることがない。
だが、ベイルの問いに今度は神官たちが可笑しそうに笑った。
「ええ、……ええ、もちろん忘れていませんとも。しかしあなたこそ、忘れておられる。我々は神の助けがなければ神技を使うことすらできない、只人であるということを」
「――ッ」
そう言いながら二級神官が懐から手のひら大の黒い石版を取り出した。
それがなんであるか、もちろんベイルは知っている。
五級神官となって暫くの期間が経過すると、洗礼と呼ばれる儀式を受けることができるようになる。
その洗礼を受けることで神技を扱えるようになるわけだが、この時に命を落とす者も少なくない。
無論、命を落とした者は神への信仰が足りなかったこことなり、異教徒として晒される。
そんな試練を乗り越えた神官には神技と、そして四級神官という身分が与えられると共に、当人の名前が刻まれた黒い石版がつくられ、教皇の下で管理される。
この石版に名前が刻まれることはすなわち、神に認められて神技を扱うことができる神官であることを示す。
逆に言えば、この石版が壊されてしまえば神からの資格が剥奪され、神技を扱うことができなくなる。
今、目の前の神官が掲げる石版には当然ベイルの名が刻まれている。
それをこの場で出してきたということは、すなわち――。
「これが最後通牒です。教皇様はあなたの力をとても評価されておられる。できればこんなことで無為にしたくないとも」
「評価といえば聞こえはいいが、ただ単に自分の戦力を失うのが怖いだけだろう。まあいい、どうあれ俺の答えは変わらない。俺の力は教皇にも神のためにも使わない。――そう決めたんだよ」
「……ではッ」
石版を砕くやいなや、ベイルを取り囲んでいた五人の神官が一斉に神技を発動する。
相手は七天神官とはいえ、すでにその資格は剥奪され、神の加護を失った只人。
神技を扱えるこちらの敵ではない。
虚空に燐光を振りまきながら現出した白い剣。
四方八方に現れたそれは、なぜか余裕な態度で中心に佇む愚者へと放たれる。
次の瞬間には串刺しに――。
神官たちの脳裏をよぎったその未来は、しかし目の前の光景に否定された。
「バカなっ!?」
――消えろ。
ベイルが小さくそう呟いた刹那、神官たちの放った剣は砂のように光となって消え去った。
何をされたのか、神官たちは理解している。
しているがゆえに、現状を飲み込めずにいた。
なにせ、たった今自分たちの神技を打ち消したものは、紛れもない神技であったのだから。
「悪いな。俺は元々、神なんて信じていない身だからな。そんな玩具、なんの意味もないんだよ」
動揺する神官たちにそう言葉を放ちながら、ベイルは牧師服を脱ぎ去った。




