十三話 これはもう、どちらがクマかわからないです。
早朝。まだ陽も昇っていない時間帯に起きたベイルは、厨房でいつもより早めに朝食の用意を始めていた。
ノーティス村は、山々に囲まれた草原の丁度中央に位置する。
南部に広がる山脈までは歩いて三時間ほどかかる。
それから山を登り、薬草を採り、村に戻ってくるまで六時間ほどは軽くかかるだろう。
早いうちから行動しないと、帰宅する頃には辺りが真っ暗になってしまう。
朝食を作り終えたベイルは自分の分をバッグにしまうと、ルナの分を書き置きと共に食堂のテーブルの上へ置いておく。
そして、ルナを起こさないように極力静かに教会を出ようと礼拝堂に向かって、その入り口に黒い人影があり、ビクッと体を震わせた。
「せ、聖女様……」
その人影が、淡いピンク色のパジャマを纏ったルナであることに気付き、ベイルはほっと胸を撫でおろす。
同時に発したどうして起きているのかという疑問を孕んだ問いに、ルナは少し怒った様子で口を開いた。
「こっそり行こうとするなんてひどいですよ。お見送りぐらいさせてください」
「いや、ですが、まだ朝早いですし……」
ベイルは教会の窓の外に視線を向けて、まだ外が暗いことを訴える。
しかしルナはむっと膨れると、ベイルの下へ詰め寄る。
「ベイルくんをお見送りするためなら、早く起きることぐらい大したことではありません」
辺りがまだ薄暗いがために、彼女の頬がほのかに紅潮していることにベイルは気付かない。
だが、と。ベイルは彼女の主張を聞いてふと考える。
逆に自分が彼女の立場だったなら、彼女と同じように不満に思うのではないかと。
「すみません、今度同じようなことがあったら声をかけることにします」
「わかればよろしい!」
おどけてそう言うルナにベイルは表情を綻ばせる。
どちらともなしにその場で佇まいをただすと、ベイルは口を開いた。
「では、いってきます」
「いってらっしゃいっ」
◆◆
春だとはいっても、草原を吹き抜ける風は冷たい。
ザーッと風で草花が揺れる音がベイルの耳朶をくすぐる。
アドレーが万が一のためにと貸してくれたナイフが腰で重たく揺れる。
ベイルにとってこんなものは邪魔でしかないのだが、イノシシなどが出ると言われた上で丸腰で山を登ったりすれば周り目からはさぞ滑稽に映ることだろう。
やがて左の方に連なる山の奥から太陽がその姿を覗かせて、一気に暖かくなる。
丁度、ベイルは山の麓に辿り着いた。
「……結構険しいな」
登り始めてすぐ、ベイルは顔を顰めた。
事前に聞いてはいたが、予想以上に険しい。
ベイルたちが教皇国からこの村まで逃げ延びたときに越えた北の山は比較的なだらかな丘陵だった。
とはいえ、ベイルは汗一つ掻くことなくするすると登っていく。
太陽が真上に来る頃には、薬草が群生しているであろう箇所まではすぐそこまでのところに来ていた。
「さて、少し休むか」
空腹を覚えて、ベイルは山道の傍にある手ごろな大きさの岩に腰掛け、バッグからサンドウィッチを取り出す。
朝食のために持ってきたが、時間的には昼食か。
手を合わせ、食べようとしたその時――
「ガウァアアアッッ!!」
ガサガサと木々をかき分けて、獣道からベイルよりも倍以上の背丈を持った巨大な獣――クマが二頭、両手を上げ、その先の鋭い爪を見せつけて威嚇しながら現れた。
「これの匂いに寄ってきたか?」
特段慌てた様子もなくベイルはそう結論付けると、手に取ったサンドウィッチをしまう。
すくっと立ち上がると、こちらを威嚇してくるクマを見返した。
二頭のクマは口から涎を垂らしてベイルを見下ろし、今にも襲い掛からんとする勢いでジリジリと距離を詰めてくる。
狭い山道で逃げ道はない。
だが、ベイルは一向に腰に備えているナイフの柄に手を伸ばさない。
ふーっと一息吐くと、次の瞬間にベイルの纏う空気が鋭いものへと変貌する。
「グルルゥ!?」
ベイルに睨まれて、二頭のクマは情けのない声を上げてその場で固まる。
続けざまにベイルが一歩前に足を踏み出した瞬間、二頭のクマは呆気なく獣道へと逃げ帰った。
「いい子たちだ。互いの力量差ぐらいはわかるらしい」
ベイルは嘆息しながら元の岩に腰を下ろすと、再び手を合わせた。
◆◆
ベイルがいないせいで心なしかいつもよりも埃っぽい礼拝堂の長椅子に横になり、ルナはボーッとステンドグラスを眺めていた。
時間はいつの間にか正午をまわっている。
先ほど教会の鐘がなったばかりだ。
退屈だ、とルナは思う。
視界をどこへやってもベイルの姿は見えない。
買い出しに行っている時や、用事で席を外している時、ルナはいつも一人だ。
寂しいと思う反面、ベイルという存在が自分にとってとても大きなものであることを再確認出来て少し胸が温かくなったりもする。
と、そんなことを考えていると突然教会の入り口の扉が開けられる音にルナは体を起こす。
「失礼、聖女様はいらっしゃるかな?」
「は、はい! って、モートンさん。どうされたんですか?」
現れたのは深い青色の髪が特徴の男性、チャドだった。
彼がこんな時間に教会に現れるのは珍しい。
ルナが訊くと、チャドは持参した小包を掲げた。
「ベイルに聖女様のお昼を頼まれて」
「……あ、そういうことだったんですね」
実は先ほどからお腹が空いていた。
ベイルは朝食こそ用意してくれたが、昼食の準備まではしてくれていなかったのでなぜだろうと疑問に思っていたのだ。
ご迷惑をおかけしますと頭を下げてから、ルナはチャドを食堂へと案内する。
「そういえばチャドさん、今日は大工さんのお仕事はいいんですか?」
ルナが問う。
大工の仕事といっても、チャドはまだ見習いだ。
「今日は休みで。それでベイルに頼まれたんですよ」
「ごめんなさい、折角のお休みの日に。ベイルくんが帰ってきたらきつく言っておきます」
「いいんですいいんです、俺も暇してたんで。シェリーの奴も今は裁縫の仕事で忙しいですからね。食事は一人でするよりなんとやらってね」
おどけながらチャドが言っているうちに二人は食堂に着く。
ルナがお茶の用意をしている間、チャドは持参した小包を広げる。
中からは色とりどりの具材の入ったロールサンドが現れた。
「わあ、美味しそうっ。これはモートンさんが?」
「いえ、シェリーです。俺は手先が不器用で、料理なんてとてもとても。親方にもよく怒られるんですよ。まあそんなわけで料理はシェリーに任せっきりで。ダメなのはわかっているんですけど、どうにも」
「や、やっぱり任せっきりはダメですよね……。私も一度料理をしたきり全然で。折角ベイルくんにエプロンを買っていただいたのに……」
しゅんと落ち込むルナに、チャドは困った表情で頬を掻く。
「でもまあ、そんなに気を遣うことはないと思いますけどね。俺が言うのもなんですけど、仕事から帰ってヘトヘトな時に家で誰かが笑顔で出迎えてくれるってだけでありがたいもんですよ」
「そういうものなんですか……?」
チャドの言葉にルナは首を傾げる。
対して、チャドは自信ありげに力強く頷いた。
「ええ。聖女様も想像してみてくださいよ。帰宅したらベイルが出迎えてくれる光景を」
「ベイルくんが、出迎えて……」
言われて、ルナは少し瞑目してその光景を想像する。
ベイルを連れずに自分が出かけることはまずないが、そこは想像で。
クタクタで教会の扉を開けたところに、ベイルが笑顔でいる――
「……確かに幸せですっ」
チャドの言う通りだと、ルナはふにゃりとした笑顔で断言する。
その返答に面食らったチャドは、しかし即座に破顔した。
「あ、そうだ。聖女様、ベイルが帰ってきたら――」
ルナの笑顔を見て何やら思いついたチャドは、意地の悪い笑みを浮かべてルナに一つの提案をした。
チャドよ、君は一体何を吹き込んだんだ……。