一話 辺境の村は今日も平和です。
「痛いの痛いの、とんでいけーっ」
教会内に並べられた長椅子に腰掛ける白髪碧眼の少女が、陽気な声で歌うように呟き、隣に座る男の子の腕を一撫でした。
直後、男の子の腕にある擦り傷に光が溢れ、鎮まる頃にはその傷が跡形もなく消えていた。
「はいっ、これで大丈夫ですよ。他に怪我はしていませんか?」
「うん! ありがとう、聖女様!」
「元気なのはいいことですけど、気を付けてくださいね」
聖女様、と呼ばれた少女は微笑みながら雪のように白い手で男の子の頭を撫でる。
男の子は少し照れた様子で立ち上がると、教会の入り口へと駆けだした。
その入り口で男の子を待っていた彼の母親は、隣に立つ漆黒の牧師服を纏った黒髪黒瞳の青年に頭を下げる。
「すみません、うちの子がご迷惑を」
「いえいえ、また何かあればいらしてください。聖女様もお喜びになられます」
青年の嘘偽りのない言葉に母親は再度頭を下げると、駆け寄ってきた子供を抱きしめる。
そして、「牧師様、聖女様、ありがとー!」と男の子が満面の笑みを浮かべて母親と共に教会を出ていくのを見届けてから、青年は教会内に振り返った。
「お疲れ様です、聖女様」
歩み寄りながら、少女に声をかける。
腰ほどまでは伸びているであろう長い白髪は、しかし彼女が被る白いフードに遮られてその大半を覗うことができない。
それでも、教会のステンドグラス越しの光に輝く白髪は、いっそ幻想的と感じるほどの美しさだ。
この教会の牧師を務める青年、ベイルの声に、聖女様と呼ばれる少女は袖を捲ると、むんっと力こぶを作って見せる。
「ぜんっぜん疲れていませんよ。まだまだ働けます!」
そう応える少女の腕にこれっぽっちも力こぶができていないことに気付き、ベイルは微苦笑を浮かべた。
そうしながら、少し咎めるような語気で言葉を発する。
「あまり体を陽の光に晒さないでくださいよ。具合が悪くなったらどうするんですか」
「心配のしすぎです、ベイルくん。これぐらいは大丈夫ですよ」
今度は少女が苦笑する。
彼女が羽織るフード付きの純白の外套は、聖女然とするためのただの衣装ではない。
彼女は生来より体が弱く、あまり長時間陽の光に当たると日射病にかかってしまうのだ。
だというのに、少女が身に着ける淡い紺色のスカートは膝上ほどまでしかない。
体が弱いのだから、ズボンを履いて肌を隠すべきだとベイルは一度提案したのだが、なぜか断られてしまった。
少女曰く、この教会にいるときは可愛い服を着ていたいということらしい。
意味をよく理解できなかったベイルではあったが、結局諦めて足を白いニーソックスで覆うよう提案することでなんとか事なきを得た。
開け放たれた教会の扉から、春の匂いを乗せた風が吹き込んでくる。
そういえば、神殿を抜け出してからもう一年が経つのか。
季節の巡りを感じて、ベイルは聖女様と謳われる少女、ルナとこの片田舎の教会でひっそりと暮らすことになった経緯を思い起こした。
◆ ◆
神技という超常の力を操る存在、神官を有するアポストロ教皇国。その支配者である教皇に独立を認められた神聖ジェネシス帝国は、教皇国の庇護の下その力で他国を圧倒し、大陸の中央部を支配下に置いていた。
ベイル・ベレスフォードもまた、教皇国の神官であった。
神聖ジェネシス帝国の旧首都のみを領土とする教皇国は、そこにアポストロ神殿を立て、神官たちや国民を管理していた。
教皇国に七人しかいない特級神官の一人であるベイルは、ある日突然一人の少女の監視を命じられた。
その少女こそがルナだ。
創世神の加護の下神技という力を操る神官たちとは違い、ルナという少女は加護なしに超常の力を引き出す、俗にいう稀人であった。
彼女の力は祈りを捧げることで怪我を瞬く間に癒すというもの。
その力に目を付けた神殿が、彼女を半ば強引に拉致したのだ。
最初は神殿の命令通り冷徹に、機械的にルナと接していたベイルであったが、いつも笑顔を絶やさない彼女に惹かれ、次第に親睦を深めていった。
そして、監視の任務についてから三年ほどが経ったある日、ベイルはルナを連れて教皇国を逃げ出したのだ。
神聖ジェネシス帝国の国境をなんとか抜け、自由を国是としているために国境も比較的緩い南部のスチュアート共和国に流れ着いたのが彼是一年ほど前。
以来一年間、ベイルとルナは共和国の辺境の村の教会で、牧師と聖女として村民たちと穏やかな生活を送っている。
◆ ◆
もう随分と遠い、昔のことを振り返っていたベイルの耳朶を教会の鐘の音が揺する。
教会の鐘は、正午と夕方の二回、内部に組み込まれた時計の歯車によって音を奏でる。
家々に時計が普及している今の時代でも、辺り一帯に響く鐘の音は人々の生活の中心だ。
「……ベイルくん、お腹が空きました」
昼を告げる鐘の音を聞いて、ルナは少し恥ずかしそうに牧師服の袖を掴み、声をかけてきた。
ベイルは視線を下に向けて微笑む。
「もうお昼ですからね、俺もペコペコです。そういえば、今朝お隣のモートンさんから新鮮な卵をいただいたんです。それでオムレツでも作りましょうか」
「はいっ、楽しみにしています!」
ルナの笑みを受けてベイルは一足先に教会の奥、二人の居住スペースへと向かう。
その背に「ベイルくん」と、彼を呼び止めるルナの声。
ベイルが振り返ると、先ほどまで長椅子に座っていたルナが立ち上がり、こちらを見つめていた。
「午後もよろしくお願いしますっ」
はにかんだ笑顔でそう告げるルナを、ステンドグラス越しの光が照らす。
キラキラと輝く彼女に一瞬見惚れてから、ベイルは彼女に向き直った。
「こちらこそよろしくお願いします、聖女様」