意識
ふと手を止めて外を見ると、曇り空のせいで太陽が隠れてしまっていた。もう昼が来るようで、嫁が料理をする音が聞こえてくる。もうひと頑張りしようかな。僕は首を左右に傾けたのち、再び鉛筆を手に取った。
彼女に宣言して一か月、両親にも説明し、僕の意志を尊重してもらった。義父の紹介で知り合いの弁護士から手ほどきを軽く受け、試験に向けての勉強方法などを学んだ。もとから自立するために色々なことを調べたり本を読んだりしていたので、一般教養は身についている。大学をでていなくとも、司法試験予備試験を受け、合格することで司法試験の受験資格を受けることができるらしい。望みは薄いが、僕はやってみることにした。一年頑張って無理なら、何年かかってでも行こうと思った。だが彼女や両親にばかり頼るわけにもいかないので、一度落ちたら店の手伝いはまた始めようと思う。
彼女の両親は、やりたいことを見つけた僕の言葉を聞き喜んでいるようで、さみしそうな顔をしていた。もう僕らにとっての日常は出来上がっていたはずなのだ、それを僕はあえて壊そうとしている。皆のやさしさに甘えてしまっている自分に嫌気がさしながらも、今となってはもう引き下がれず、どうにかして試験に通ることばかり考えてきた。彼女は何も言わず、あなたが頑張っているのが素敵、とだけ言い、微笑んでいた。僕はそれがうれしいのか悲しいのか、はたまた複雑な感情でいるのかよく理解できず、困ったように笑い返していた。二人で生活しているはずなのに、いつの間にか一人になってしまった気がして少し寂しかったが、それもいつか終わるのだと信じ、今はただ頑張ろうと思っていた。
それからまたしばらくして、朝起きると彼女がそわそわしていた。おはよう、と声をかけると、慌てたように視線をそらしたかと思うと小さく挨拶を返してきた。その顔は少し朱が差しており、どこか恥ずかしそうであった。僕は頭にクエスチョンマークを浮かべたが、あまり気にしていなかった。
朝食をとっているときに何か話題を出したほうがいいなと思い、頭の中を巡ったが良い内容が浮かばない。それどころか頭の中で一部が欠けている感覚がしてすっきりしなかった。どうしたものか、と思っていると彼女がしびれを切らしたかのように少し身を乗り出して話しかけてきた。
「あの!今日は何の日ですか!?」
「おいおい…、…え…あ…。」
視線を動かし、カレンダーに目を向ける。記憶の断片をつなぎ合わせる最後のピースがそこにはあった。今日の日付の位置に赤い文字で書かれた誕生日という文字。今日が彼女の誕生日だと今更気づいた。
「ごめん!!ほんとにごめん!!」
「…いいえ、いいんです。勉強で忙しいんですもん、仕方ないですよ。」
彼女の寂しそうな顔がひどく胸を刺した。痛みで視界がゆがむほどに心が裂けそうになった、僕は彼女のことを何だと思っていたのだろう。一番感謝しなくてはならない存在である彼女、今の僕にはなくてはならない彼女、その彼女にとって大事な日を忘れてしまうなどと――。
「……。」
「……。」
彼女の何かできないかを必死で考えてはいるものの、どうにも良い案が浮かばない。彼女は俯いてしまって一言もしゃべらなくなってしまった。完全に怒らせてしまった、これではまずい、非常にまずい。何を言うにもためらってあたふたと心の中で葛藤を続けていると、彼女のほうがまたしびれを切らしたようで、机を両手でたたいた。
「もう!今日は一日私とデートしてください!拒否権はありません!絶対です!!」
「…え?」
「何か不満でも!?」
「…いや、それでいいのか?」
「いいんです!!」
「ははは…うん、わかった。いこっか。」
「やった!!じゃあ早くご飯食べちゃってください!!」
僕の不安は割と杞憂だったようだ。彼女の望むことは思ったより小さなことだった。結婚した今、デートに行くなんてわざわざ言ったのはいつ以来だろう。デートという言い方がすごく新鮮で心が躍った。
彼女両親にも連絡し伝えたところ、すごく喜んでくれた。しかし彼女はついでに僕が誕生日を忘れていたことも伝えてしまい、すさまじい声を張り上げられて叱られた。僕は電話越しに何度も頭を下げて謝った。
不思議なくらい勉強のことをことときは忘れていた。あれほど意識していたのに、彼女のこととなると僕は冷静でいられないらしい。




