安住
平日の午後五時、嫁両親の営むパン屋での仕事も終わり、残りは片付けるのみとなった。今日も売れ残りもほとんどなくすっかり売れてしまった店内を見回して、自分の仕事の成果を見定める。パンの作成は嫁両親と僕で行い、店番は僕とお義父さんが交代制で行っている。客の出入りは朝一番と昼時、そして売れ残っていた場合は仕事の帰りに寄ってくる人達もいる。気づかぬうちにふと寄ってしまう人もいるようだ。この店は初めてもう十年以上になるらしく、地元では名前が知られているらしい。僕は婿養子として家族に加わり、やりたい仕事も見つからず、その場しのぎでこの店で働いているのでまだ勤務して一年足らずではあるが、この店が大きな魅力を持っているということは深く理解できた。
「うし、片付けもひと段落ついたし、お前先に家のほうに行っててくれ。」
「え、まだ少し残っているようですが、いいんですか?」
「構わねえよ、早く娘のとこに行ってやれ。お前にとっては嫁か…。」
お義父さんは若干寂しさを含んだ口調で話した。娘が嫁に行ってしまうというのは親にとってすごく大きな穴がここに空いてしまう出来事らしい。実際、一緒に暮らしているのだからあまり生活自体は今までと変わりがあるわけではないのだが、娘が一人前になって両親の助けがなくとも生きて行けるようになったというのがうれしくもあり、寂しくもありようだ。
嫁父の心遣いに甘え、いそいそと帰り支度を始めたところで、お義父さんが箒で店内を掃き乍ら呟くように話してきた。
「お前が来てから、もう二年くらいたつのか…。」
「その節は大変お世話に…なりました。」
「いいさ。驚きこそしたが、結果的に俺たち家族にとってとてもいいことにつながったしな。来てくれてよかったよ。…お前も嫁がもらえてよかったな!!」
「ははは…。ありがとうございます。」
帰路につきながら、今までのことを考えていた。本当にここまで来るのに色々なことがあった。空を仰いで、情景を目の前に浮かび上がらせてみる。
僕は母に捨てられ、死を決意したあの日花畑で嫁に出会った。なんでここにいるのか、という話はもうお互いにしなかった。たがいの雰囲気に充てられ、いつの間にか体を寄せ合っていった。花畑の端にある古びたベンチに座って自己紹介をした。彼女は生まれながらの病気で、30歳まで生きられれば奇跡だといわれているらしかった。そして、僕に身寄りがないことが分かると、彼女は両親に連絡し、事情を説明した。両親もすごくいい人達で、自立できるまではここにおいてやると言って住まわせてくれた。そうして暮らしているうちに僕と彼女は余計に惹かれあい、いつしか恋人同士になった。お義母さんは大変祝福してくれたが、お義父さんは苦虫を噛んだ顔をしていた。そうしてずるずると暮らしていくうちに、両親のほうから結婚してしまえという話が持ち上がった。急な話だったが、そこからの進行はスムーズだった。
結婚式、地元の教会で行われ、招待した人こそ少ないものの、一人一人との仲は深いものばかりで、皆祝福してくれた。中には泣き出す人までいて、僕はおどおどしていた。因みに両親はずっと泣いていた。その涙の中には、嬉しさと共に悲しみも含まれていたのだろう。僕は彼女の残りの人生をできる限り幸福にすると決めた。彼女を幸せにすること、それこそが自分の幸福であると言い聞かせた。
しばらく無意識のうちに歩いて、いつの間にか家の玄関の前に立っていた。おっと、と声に出して取っ手に手をのばす。家は結婚してから両親、僕と嫁のそれぞれ一つずつマンションの一室を取った。隣り合わせで、度々一緒にご飯を食べることにしている。実際、彼女もこのほうが安心して暮らせそうであったので、このまま暮らしていこうという話になった。
「ただいまー。」
「おかえりなさい、お仕事お疲れ様です。御飯もうできてますよー。」
「ありがとー、さっそく食べよっか。」
「はい!…あ、こっち来てください。」
彼女に手招きをされ、靴をさっさと脱いで玄関先のリビングに入る。彼女に近づくと、もう慣れたが僕の好きな彼女の香りがした。彼女の体は風船か何かのようで、抱きしめると中に詰まった香りがはじけてしまう。
「…はい、今日もありがとうです。」
そういうと彼女は僕の頬にキスをした。唐突のことで多少驚いたが、すぐさまお返しといわんばかりに彼女の額にキスをする。ひゃ、と声を出して驚く彼女がとても愛らしかった。彼女のためなら何でもできる、いつも思っていることではあるが、改めてそう思った。
「今日はどうしたの?何かあった?」
「あ…いえ、今日読んだ本の中にそういった感じのシーンがあったので!してみました!」
彼女は体が弱いため、普段は家にずっといることが多い。彼女には寂しい思いをさせてしまっているという罪悪感があると同時にそうしなければ生活できないという使命感もあるので難しいところだ。彼女は家にいる間、よく本を読むらしい。たまに恋愛ものの本を読み、あこがれることがあるそうだ。今回は僕のほうが上手だったかな?
そうして彼女があらかじめ用意してくれた食事にありつけた。彼女は料理が上手だ、彼女曰く、本で読んだことをいろいろ試してみてるんですという。勉強熱心なのはいいが、いつか実験料理を食べさせられないか心配だ。
料理に手を付け乍ら僕らはゆっくり話す。食事の時にテレビを見るのは行儀が悪いと嫁に怒られてからは、食事の時はゆっくり嫁と話す時間になっている。
「今日もお店は好調でした?」
「勿論。君の両親のお店だよ?当たり前じゃないか。」
「ふふ…今ではあなたも加わって、もっと素敵なお店になってますね。」
「なんか照れるな…たいしたことはしてないんだが。」
この手の会話は何回したかわからない、それでも何度も彼女が言ってくるのは本当にそう思ってくれているからであろう。彼女は自分がお店のことを手伝えていないと罪悪感を感じているらしいが、実際彼女がいなければ僕たちはがんばる気にならないかもしれない。彼女の存在があってこそ頑張れたのだと思う。
「それにしても…両親たちには迷惑をかけっぱなしだ。早く自分で職につかないとな…。」
「別に今のままでも大丈夫だと思いますけど…。」
「いや両親の仕事が楽になっただけで収入は変化していない。その上家族が一人増えたんだ…できるだけ僕は働いたほうがいいだろう。」
僕は彼女にも両親にも今以上の生活を送ってほしかった。どうにかできない者かと考えると、自分の就職がまず浮かぶのだ。僕は甘えすぎた、もっときつい仕事でもいい。それでも、彼女が幸せになってくれるならば。
「では、おやすみなさい。」
「うん、おやすみ。」
そういって二人で大きめの布団に入り、手を絡ませて眠る。夫婦生活は僕らの間にはまだない。彼女の体も心配だし、僕は父親のことがトラウマで、なかなかそういう気持ちになれなかった。彼女といるだけで幸せなので、今はこれで満足している。そうして僕らは眠りに落ちていった。
夢の中で母が僕を指さしながらゆがんだ笑顔で叫んだ。
「あなたは生まれるべきじゃなかった!!どうしてあなたなんかが!!」




