火の神が見た元フツミタマ
このお話は、うっすらですが同性愛的な表現があります。苦手な方は来た道を引き返してください。
その神の名は、経津主というらしかった。
黄泉の国に住む私――火之迦具土にとってはあまり関係のないことだと、最初は思っていた。
経津主が高天原へ来たという情報は、母・伊邪那美から聞いた。
黄泉の国に居続けていなければならないという事情から、そういう外の情報には敏感だった。いわばうわさ好きのおばさんみたいなものだ。
私は小難しい申請をすれば高天原や中つ国に行くことはできる。だから、ただの興味本位で、経津主とやらを一目みようと、高天原へといった。
これは単なる好奇心。
人間たちに日本を任せてからずいぶんたつ。もう、初代から十代くらいは時が流れているだろう。
そんな時代に、神が高天原へなんて、かなり珍しい。今では、神は生まれず、成らず。成るとしたら、人間が神として崇め奉られるときくらいだ。
面倒な許可をいただいて、私は黄泉から高天原へと赴いた。
黄泉と高天原の境界すれすれの場所には、同情したくなるほどぼろい大屋敷があった。弟分である鹿島――建御雷の住まいである。いずれ、私もそちらへ移住するつもりなので、いずれは私の住居ともなるだろう。
私はのんびりと、しかし弾む足取りで鳥舟の屋敷へ向かった。
経津主は、しばらく鳥舟の下で働くことになっていたからだ。おそらく、住居も鳥舟のお屋敷に住み込むということになっているだろう。
鳥舟と私は旧知の仲だった。父母の神生みの際、割と近い時間に生まれた縁がある。……もっとも、私は生まれてすぐ殺されたけれど。
「やあ鳥舟」
庭でのんびり池をながめている童――鳥舟に、声をかけた。
私の胸くらいの高さしかない身長、前髪を髪留めでまとめて露出させた額、ぶかぶかの法被、傍らには、自身よりも大きな櫂を置いている。
鳥舟は、私を見るや、ぱっと顔を輝かせて近づいてきた。
「よぉ、カグツチ! 久しぶりだな。相変わらず死んだような顔してんなあ」
「当たり前だろ、私は死んでるんだから」
「こんないい顔色してる死者なんぞほかにはおらんさ」
「違いない」
鳥舟はかかかと笑って、私を迎え入れてくれた。
鳥舟の隣に座り、さて、と本題に入る。
「ね、鳥舟。最近来た神のことなんだけど」
「経津のことか? ああ、俺の家に住み込みで、俺と一緒に鹿島の監視と補佐をやることになってるよ」
「鹿島の、ね」
私の表情は少しだけ沈んだだろう。
鹿島は私にとっては弟のようなもので、もしかしたら誰よりも大切な神かもしれない。
鹿島という神は、飄々としていてつかみどころがない。勝つためならば何でもする卑怯者ゆえ、神からも人間からも嫌われている。
それすら笑って受け止める鹿島は、唯一私にだけは泣いたり喚いたりしてすがりつく。そういう感情をぶつける程度には、私と鹿島は信頼関係が築けていると自負している。
その鹿島には、前々から鳥舟が監視として常にいた。
それを決めたのは国之常立。なよなよしさに定評のある神だ。
常立がそれを指示したのにもそれなりの理由があるのだろう。それは聞かされていたし、理解もしている。
だが、弟が監視されているとなると、心穏やかにできないというのが兄の正直な気持ちであろう。
「といっても、飾りだからな。監視ってのはあくまで面子の問題だろう。実際、鹿島は目立った問題起こしてないし」
「そりゃね。だけど、いい気持ちはしないなあ」
「上の決定だ。俺に言わんでくれ」
「分かってるよ。ただの愚痴さ、愚痴。……いや、鹿島のことじゃなくて、経津主について聞きにきたんだけど?」
「あ? 今いるよ。呼んでこようか」
悪ぃね、と私は言う。
鳥舟が、奥の方へ向く。「おぉい、経津」と声を張り上げた。
ほどなくして、その神は現れた。
一瞬、男か女かわからなかった。もしかしたら独り神かとも疑った。
経津主は、それくらいの美人だった。
透き通った銀色に少し紫を混ぜたような髪は後ろで一つにまとめられ、その乳白色の肌に赤みなどみじんもさしていない。
異国の装束を寸分の乱れなくきっちりと着こなし、黒緑の瞳は冷淡に鳥舟をうかがっていた。
男神だと分かったのは、それが男の装束だったからだ。もしかしたら、男装の麗神、ということかもしれない。
「お呼びですか、鳥舟」
その声に感情はない。声変わりのない高い声色が、妙に私の耳に残る。
「あぁ、お前の噂を聞きつけて、顔を拝みにきたいって素っ頓狂な奴が来たんだよ。挨拶してやって」
素っ頓狂ってなんだよ。
経津主は、鳥舟の隣に座る私をちらりと見下ろす。
その瞳に見つめられてると思うと、なんだか変な感じがした。
彼――いや彼女?――からは何の感情も読み取れない。
こちらが社交辞令で浮かべた笑顔にも、まるで応える気配がない。
「初めまして、ええと、経津主さん? 私は火之迦具土。カグツチと呼んでおくれよ」
「わざわざご丁寧にどうも。経津主と申します。以後お見知りおきを」
機械的に、完璧に一礼して、さっさと去ってしまった。あれれ、怒らせてしまったのかな。
「気にするな。あいつ、だれに対してもああだから」
「しかし、経津……ふつ……どこかで聞いたような」
私は考えを巡らせる。ふつぬし、という響きが、なんだか懐かしかったからだ。
「そりゃそうだろうよ。あいつはもともとはフツミタマの剣だったんだから」
私は、思わず「え」と間抜けた声を出した。
フツミタマの剣。確か、神々が初代に与えた剣だったっけ。毒を浄化し、全てを断ち切る剣。
その剣はもともと鹿島が持っていて、初代へお渡しするようにと、高倉下に預けた。
「……剣が、人の形に成ったのかい? そんなことって今までにあった?」
「さあ、前例はないよな。だけど、血とか死体とかから神が成るんだから、あながちありえないってことでもないよな」
「そうさねえ。私は身に染みてそれを知ってるし」
私は父親に斬られて死んだ。その死体や血から、神々が生まれた。鹿島もそのうちのひと柱である。
それを考えると、突拍子もないってわけでもない、よなあ。
「で、どうよ、うちの経津は?」
鳥舟がたずねた。
「なんか……とっつきにくい子だねえ。男か女かもパッと見わっかんないし」
「言っておくがあいつは男だ。……ま、カグツチの言いたいこともわかんないでもないけどな。剣だったからか、人の形にまだ慣れてないんだよ。手足動かすとか呼吸とかそういうのは完璧なんだけどな。感覚がずれてるっていうのかな」
「感情が薄いよね。いや、どっちかっていうと感情自体がないのかな」
「上も、その感情を学ばせるってのも考慮してるらしいんだよ。それで俺のとこに預けられた。下手に国つ神や天つ神に任せるよりはよっぽど信頼できるとさ。まったく、この上ないありがたい話だよなあ」
鳥舟は苦笑する。
「なーに、鳥舟さんや、あんたはあの子が厄介だとでも?」
「んなわけない。むしろ情がわいてきてるよ」
「あそ。……んで、あの経津主くんはどう? 剣というからには、戦いにめっぽう強い感じするけど」
「実際戦わせたら強いよ。ナイフさばきは誰よりもうまい。それだけじゃない、初代にいろいろ叩き込まれたって言ってたけど、家事とか事務仕事とか、そういうことは一通りこなせてる。いうことなしだよ。……無表情決め込んでることを除けば」
「え、なに。料理うまいの?」
「あいつの淹れた茶を飲んだら、自分で淹れた茶なぞまずくてかなわん、ってなるくらいにはな。どうだ、今晩は飯でも? 経津の飯、食ってみたいだろ?」
「では、お言葉に甘えちゃおっかな~」
私は、鳥舟のお誘いを受け入れ、経津主の料理をいただくこととなった。
鳥舟の言葉に嘘などなかった。
あまりもので作ったので、という経津主の謙遜は、もう謙遜を辞書で調べてほしいと言いたくなるほどだ。
本当にあまりもので作ったのかよ、と疑いたくなるくらい豪華だった。
白米はつやつやでふんわりして、ちょうどよい固さに炊き上がっている。煮魚は柔らかく味付けも上品だ。味噌汁は出汁がよくきいていて、喉に流し込むとほっとした。
料理上手というのは、嘘ではないようだ。
なんだか、その事実ひとつ確かめただけで、経津主に近しさを身勝手にも感じていた。
私が経津主という神を意識するようになったのは、そのころからだった。
その日、地上では人間同士の反乱が起こっていたという。
事情を聞いてみると、異国から密入してきた連中が、中つ国の地で好き放題暴れまわっているということだった。
武神軍神は、人間たちの頼みを聞き入れ、地上へと降りた。その中に、経津主もいた。
私も地上に降り立つこととなった。それは、死体の回収を任じられたから。
異国の人間はきれいに焼き、中つ国の人間には救済を与える。その救済というのは、その御魂を黄泉の国へ連れて行くこと。御魂は黄泉の国でしばらく休息し、やがて日本の地へと還っていく。
私は、まだ争い止まぬ戦場をせせこましく移動しながら、死体を焼いたり御魂を黄泉へ送ったりとせわしなく働いていた。自分の身を守るくらいには強いけれど、前線にでられるほどの戦力ではない。
そこで、経津主の戦う姿を、目の当たりにした。
まるで容赦がない。
敵には少しの隙も与えず、わずかの苦痛も許さず、的確に急所をナイフで切り裂いていった。
真っ赤な血を浴びても表情ひとつ変わらず、一人を殺したら次を殺し、次を殺したらまた次を……。そうして、敵はすべて切り裂いていく。
今回の戦場で、人間に一番勇気を与えていたのは、まぎれもなく経津主だろう。
こちら側の人間は、その姿を畏れながらも、心に余裕を見出していた。その余裕がうまく作用したのか、異国の敵は全員退けるか倒すことができた。
と思ったのは、油断だったらしい。
草の影に隠れていた敵が、一人だけ残っていた。
その敵は、経津主の背中に向けて、一本の矢を放つ。しかも、ご丁寧に毒を塗って。
「経津主っ!!」
思わず、私は叫んでしまった。
はっとした経津主は、後方にいた私の方を振り向いた。だが、それだけだった。
矢を回避することは叶わなかった。
その華奢な背中に、毒を塗った矢が、深々と突き刺さった。
一瞬、経津主はよろめいた。
だが、左足で力強く地を踏みしめ、身をよじって背中の矢を引っこ抜く。
どく、と血が流れているのも気にせず、経津主は矢を放った敵を正確に見つけ出す。
そして、軽やかに跳躍し、その敵を一瞬で葬った。
私はその敵だった死体を焼くよりも、経津主に駆け寄った。
「経津主! 大丈夫かい!?」
「……貴方は、カグツチでしたか」
「ああ、うん。……いや、そうじゃなくて、背中! 矢が……」
「大したことではありません」
「いや全然大したことだよ!! はやく傷を……、って、え?」
経津主の背中を見て、私は目を疑った。
確かに、私は経津主が射られたのを目撃した。死んでるとはいえ、目の良さは自負している。
見間違いなど、するはずがない。それに、経津主は刺さった矢を引き抜いていた。
どういうことだ?
経津主の背中には、刺し傷などどこにもなかった。
ただ、装束に穴が開いているだけだった。
流れ出ていたはずの血も、いつの間にか止まっている。
「お気遣いなく。私は、傷の治りが特別早いのです。もう毒も浄化しました。傷もふさがっています」
私の心中を察した経津主が、そう答えた。
「回復が、早い……?」
さよう、と経津主は首肯する。
「フツミタマは、毒を浄化する力がありました。その作用が私にも流れているのです。……傷を負っても回復することなど、神々の間ではさして不思議なことでもありませんでしょう」
「そりゃ、そうだけど……」
そう。神には『死』という概念が薄い。死ぬことには死ぬけど、それは誰からも忘却された時だけだ。
物理的に傷を負わされても、それはすぐに癒える。程度の差はあるけれど、基本はそう。
だけど、それにしたって早すぎる。武神の中で群を抜いて強いと評される鹿島でさえ、ふた呼吸ほどの時間を要するのだ。
それに対して経津主は、ひと呼吸おく必要もなく、あっさりと癒えた。この驚異的な速度は、私の知りうる神々の中では存在しない。――ただひと柱、経津主を除いて。
「さて、私のお役目はここまでです。カグツチ、あとは貴方のお役目です」
「ぇ、あ……」
「それではこれにて」
経津主は、機械的に一礼して、さっさと引き揚げてしまった。
あのあと、私は御魂を黄泉へ送ったり死体を焼いたりと事後処理にいそしんでいた。黄泉へ送られた御魂の数はそれほど多くなかった。つまり、死んだ日本の人間は、少数で済んだということだ。……死者が出たのに変わりはないけれど。
処理を終えた私は、生き残った人間たちから礼を言われた。当然のことをしたまでさ、と答えたが、生き残った者たちは、かたくなに「とんでもない!」と返された。聞けば、黄泉に送った御魂の中には、彼らの兄弟や親子がいたらしい。家族を救ってくれて感謝している、と、涙をこらえながら笑顔をかろうじて作る人間たちを、私は愛おしまずにはいられなかった。
じゃあね、と私もあるべき場所へ帰ろうとした。
本来なら、黄泉の国へ帰るべきなのに、なぜか面倒な申請をして高天原へと向かってしまった。
いずれ、鹿島のぼろ屋敷に引っ越す予定であったから高天原でも間違いではないのだけれど、私を高天原へ突き動かしたのは、ひとえに経津主がいたからだろう。
驚異的な回復の速さがあったとはいえ、負傷を目の当たりにしてしまっては心配せずにはいられないというのがこの爺のサガ。
夜分遅くに失礼だとは思っていたけれど、鳥舟のお屋敷にお邪魔することにした。
「鳥舟、とりふねー」
なるべく小声で、玄関から鳥舟を呼ぶ。
すぐに、前髪を下ろした鳥舟が、寝ぼけ眼をこすりながら、応対した。
「あー……? なんだよ、カグツチか……」
「ごめんよ、夜遅くに。ちょいとね、経津主が気になってさ」
「あいつなら寝室にこもったっきり出てこねえよ。今日みたいに戦場から帰ってきたあとはいつもあーなんだ。晩飯とかは作り置きしてくれてるからそっちの心配はないんだけどさ」
鳥舟は、眠気の残る顔に、心配をにじませる。
「ただな、心配なんだよ。あいつは何でもないって言ってるし、入って来るなとも言われてるからこっちは何をしようにもできん。もしかしたら、戦場がつらいのかもしれない、って思うんだよ。いくら感情がまるでないとはいっても、今は人の形をしてるからな。いずれ人に倣って感情を芽生えさせたらと思うと、な……」
「そう、だね……」
いくら強いといっても、いくら傷の治りが極端に早いといっても、いくらもともとは武器であったといっても……
今の経津主は、フツミタマじゃない。経津主という神なんだ。
「ねね、鳥舟、経津主の寝室はどこ?」
「あ? ここの廊下の一番奥だ。右側のな。……勢いで教えちまったけど、間違っても入ろうとすんなよ」
鳥舟は低く忠告した。
「わかってるよ。ちょっと様子見るだけ」
「おまえ、なんでそこまであいつに肩入れすんの? 言い方悪いけど、おまえはあいつとは接点ないだろ」
「ん? まあ」
私は答える。
「美人さんに興味持つのは、男として当然じゃない?」
茶化してああいう返答をしたけれど、私は本気で経津主を心配していた。
あんなに、自分のことに無頓着な神を、私は放置することができない。
自分が傷つくのを些細なこととして受け止める姿勢が、弟の鹿島と重なったというのもあるのだろう。
奥の、右側。忍び足で、そこまでたどり着く。
ふすま越しに、耳を澄ましてみた。静かな寝息が聞こえれば安心もしただろう。
衣擦れの音がしたなら、やましい想像もしただろう。これも男の性だ。死んでるけど。
だけど、聞こえたのは寝息でも衣擦れでもなく、乱れに乱れた、穏やかでない呼吸の音だった。
「はー……っ、はぁ……、っ、う……! は、ぁ……ッ!!」
穏やかじゃない。この状態は、明らかに異常だ。
部屋に入るなという鳥舟の忠告を無視して、私はふすまをすぱんっと開ける。
部屋の隅っこで、丸くなってぜえぜえあえいでいる経津主が、いた。
「うぅ、……っぐ、はー、はー……。は、ぁ、ぐぅ……っ」
「経津主!!」
私は思わず駆け寄り、経津主の肩を掴む。
頭を抱えて、必死に呼吸を整えようとしている経津主が、痛々しかった。
冷淡な表情の経津主が、まるで感情など知らないような経津主が、
苦痛でその美しい顔を歪めている。
どうして、気づかなかったんだろう。
経津主は、剣じゃない。もう、神なのだ。
剣と神とでは、体の調子が整わなくてもおかしくなかろうに。
「経津主、大丈夫。だいじょうぶだから、ゆっくり呼吸しなさい」
私は経津主を抱き寄せて、背中をさする。経津主にしてみれば、私の存在を意識する余裕なんてないだろう。
「う、ぅ……あ、……っ!!」
「大丈夫。大丈夫……」
あぁ、似てるんだ。鹿島に。
何でもないようなふりして、私にわんわん泣きわめいて縋り付く、あの愚弟に。
だから気にかけてしまうんだ。弟に、よく似ているから。
「わ、わたしは、ふつ、ふつ……。ふつみ、た、ま。ふつみたま……」
「ううん。君は、ふつぬし、だよ」
「ちが、う……。私は、剣だ。神じゃない、剣なんだ。剣は、ダレかを斬るものなんだ。斬って、斬って、断ち切って……」
「経津主……!?」
「剣だ、私は剣だ……。だから、敵を斬るのはふつうなんだ。なにもおかしくない。おかしいのはわたしだ。人の形がおかしいんだ……!!」
経津主が落ち着いて、寝かしつけるまでに、夜更けまでかかった。
私は黄泉に帰る気にもならず、鳥舟に一室かりて一晩をしのがせてもらった。
鳥舟は、私が経津主の寝室に入ってしまったことを知っているのだろうけれど、あえて黙ってくれていた。
経津主は、もともとはフツミタマの剣だった。
初代の下で、初代の手で、あらゆる敵や邪魔者を斬ってきただろう。剣に感情はない。
だが、そんな剣が、ある日突然人の形になってしまったら?
感情というものを知ってしまったら?
今まで自分がしてきたことに対して、心が何かしら反応するのなんて、少し考えればすぐにわかることだ。
どうして気づいてあげられなかったんだろう。
おそらく、経津主は戦場から帰ってきた後、ずっとああして自己暗示をかけて必死に自我を保っていたんだろう。
一緒にいた鳥舟を責める気にはなれない。だって、経津主が気づかせなかったんだから。気づいていたとしても、鳥舟だってどう対処すればよいのか困っただろう。
翌朝、朝食の準備をしていた経津主は、昨夜の取り乱しなどまるでなかったかのように、通常通りの冷淡な表情に戻っていた。
私に抱き寄せられたことも記憶にないらしかった。それほど、余裕がなかったんだろう。まあ、その方がいいけど。
「悪いね、鳥舟。昨晩は泊めてもらっちまって」
「いいさ、別に。経津、傷は?」
「昨日の矢の傷ですか? 完全に癒えています。問題はありません」
「そっか」
鳥舟は弱く笑った。
あの丸まった背中は、私にとって決定打だった。
本当は、最初から、君を意識していた。
初めて会ったとき、君の美しさに、不覚にも一目ぼれした。
そして、剣であったころの自分と、今の自分の大差に苦しむ君を目の当たりにして、君の支えになりたいと、分不相応にもそう思ってしまったんだ。
ねえ、経津主。
私は、君の苦しみを和らげられるような、支えになれるかい?
別所でいろいろと夢想しているカグツチさんと経津主さんのなれそめ的なものをいきなり思いつき、勢いのままだーっと書きました。