死者の宮殿にて4 改訂終了
その瞬間に、目の色が変わる、という表現の適切さをダミーはひしと感じていた。
それまでどこを見ているか分からなかった汚濁の瞳が、ついとこちらを捉えたのだ。少なくともダミーはそう感じた。そして、それを裏付けるようにミノタウロスの両肩の筋肉がぎゅうと音を立てて収縮するのを見て、それは確信に変わった。
それまで停滞していた状況が、空気が変わったのだ。
ダミーの口から、言葉にならない声がもれた。ダミー自身も自分が何を言おうとしているのか、何を言うべきなのか分からなかった。ただ、ダミーの顔を見て怪訝な表情を浮かべているヴィオレッタの手を取り肩を抱き寄せとっさにその場を跳び退いた判断は、おそらく正しいものだったのだろう。
直後、風切り音とともに大きな質量をともなった何かが二人の真横を抜けていった。
ずん、と、腹の底に響く破砕音が辺りに響き渡る。
音の下をたとれば大部屋の石壁に鉄扉を縫い付けるようにして深々と突き立つハルバートの柄が見えた。
「あらあら、どうやらお目覚めよ。ダミー様の企てに是非とも期待したいところね」
ダミーの腕の中でヴィオレッタがくつくつと笑みをもらす。ともすれば、今頃串刺しの無惨をさらしていたかもしれないというのにまったく動揺した様子がない。
ーーーオオォォン……
ミノタウロスの雄叫びが響く。聞く者の神経を否が上にも掻き乱し、心胆を寒からしめる、人のものとも獣のものともつかない怪しげな響きは、成る程魔性人外のそれであった。
視線は真っ直ぐにこちらに向けたまま、一歩と踏み出したその偉容をダミーはひきつった表情で見た。
「……企てならアレに先手を打たれた時点で頓挫したよ」
「あらまあ、じゃあ打つ手無し? 困ったわね」
状況に反してやけにのんびりとした調子でそう紡がれる言葉に強張った笑みを返し、ダミーは首を横に振った。
「馬鹿言うな。打つ手はあるさ、まだな」
「どんな?」
「決まってるだろ? 逃げるんだよ」
そうして、ダミーはヴィオレッタの手を取り一目散に駆け出した。
二人が小部屋を抜けるかどうかといったところで、後背の壁が音を立て吹き飛び牛頭の怪人が追いすがってきた。
「派手なノックね」
「マナーがなってないぞクソが。つっかえてみせるくらいの可愛げもないのかよ」
苦々しげに吐き捨て、そうそうと追跡者から視線を切りまた駆ける。その後背を荒い呼気の音と派手な破砕音が追ってくる。
見るまでもなく、狭い通路をものともせずに追ってくる怪人の姿が容易に想像される。それはまさしく悪夢のような光景だ。
「はっ、家主に叱られても知らんぜ俺は」
やけくそ気味に笑い声を吐きながら駆ける、駆ける。
はじめこそヴィオレッタを気遣い確かめるような調子だったが、息も乱さずついてくる健脚を確認してからは更に速く。
「……二人の逃避行もそれはそれで楽しいものだけれど、終着のあてはあるの?」
「考え中だ。お前さんの方こそ何かないのか」
言われ、ヴィオレッタは走りながらも器用に顎に手を当てふむ、と唸った。明らかに何かある様子だ。少なくともダミーにはそう見えた。
「無いこともないけど、どうかしらね。あれだけ派手に暴れてる相手に効果があるかどうか」
「このまま真っ直ぐ追いかけっこやるのとどっちに目があると思うね」
「それもそうね」
ローブの中をごそごそと探り、取り出されたのはピンポン玉程の大きさの白い球体だった。
「煙玉、のようなものよ。いえ、煙を出す玉だから煙玉でもいいわね。アイテムのネーミングというのは分かりやすくてシンプルなのが一番よね」
「ネーミング談義は後でもいいだろう? というかそういう便利なものがあるならはじめから出せよ」
「これしか手持ちがないのよ、正真正銘これ一個っきり」
くるりと手首を返し、中指と薬指のあいだに手品じみた手際であらわれた細長い鉄棒をこれもまた器用な手つきで煙玉に突き刺すと、ヴィオレッタはダミーについと視線を投げた。
「……わかっているとは思うけど、視界を奪ったからってこの一本道を真っ直ぐ突っ切られれば私たちは仲良くミンチよ? 何か考えがあるのよね? その考えは最後の目を賭けるだけの価値があるのかしら?」
「正直に言うと今も混乱の最中でね、冷静な時に考えればもっといい考えも浮かぶのかもしれんがね。現状ほかに思いつく手が無いとはいえ我ながら相当分の悪い賭けだと思うよ。だから信じてくれ、祈ってくれ、願ってくれ、それで駄目なら……そうだな、笑って同じ墓に入ってくれ」
畳み掛けるように紡がれたダミーの言葉にヴィオレッタは、はじめに目を丸くし、そしてやがてくすりと吹き出した。
「ダメね、ダメだわ、ダメダメよ。女の子にその気を出させるにはあんまりな口上よね。でも正直グッときたわ。これが惚れた弱味というやつかしら」
「さてね、今は頭がまわらんよ」
走り続ける二人の間でかすかな笑い声が響いた。そしてお互いを結ぶ視線の最中でヴィオレッタの手が無造作にひらりと振られた。人差し指と中指と薬指、三本指の立つハンドサインの意図を察したダミーはヴィオレッタに小さく頷き返し右手の段平を強く握り直した。
頭の中で音を刻む、一、二、……三。
瞬間、視界の内を白い煙が埋め尽くした。想像よりも遥かに早い煙のまわりに対する戸惑いが一瞬、それが頭の中に巡るより早くその足はかねてあったように踵を返し、その腕は段平を上段に構え直していた。
度の過ぎた緊張状態とそれによって針のように先鋭化された意識の中で、この濃煙の中でも躊躇いの感じられない勢いで疾駆してくるミノタウロスの足音がミシリ、ミシリ、と聞こえていた。
ミシリ、ミシリ。足音が間近に迫る、濃煙に遮られ姿は見えない。
ミシリ、ミシリ。胸の早鐘と合わせ頭の中にやかましく響く足音を知覚しながら半身を捻る。
ミシリミシリ。濃煙を揺らす影が目に映る、が、まだ遠い。
ミシリ、煙の壁を突き抜けるように曖昧な人型が像を結ぶ。
そして、ダミーは目の前に現れた毛むくじゃらの右足に袈裟斬りの段平を振り下ろした。
怒りか、悲鳴か、身のけもよだつような牛頭の怪人の絶叫が響く。疾駆の勢いそのままに地面に転がる巨体の背を走りながら、ダミーは腰からするりと革製のベルトを引き抜いた。そしてバックルの部分を握りに、見えた牛頭の首に巻きつけ引きつける。
肩から背中までに感じられる隆々と発達した筋骨に反し、人と牛とのひとつの境になっている首根の部分はサイズこそ太かったが、感触といい色合いといいまるっきり人間のそれのようだった。
全身で抱え込むように拘束した牛頭の口から苦しげな音が漏れる。首への圧迫に効果があるかどうかは実行するこの段階になるまで不確定な部分だったのだが、どうやら博打は抜けたらしい。
ミノタウロスの方も体を捻りダミーを振り落とそうとするが、狭い通路のスペースがアダになり一度転倒した状態ではろくに身も起こせないようだ。
先までは後ろ背に聞いていた呼気がひどく間近に聞こえている。そして、牛頭の怪人はその最期の瞬間までロクな抵抗もできないまま、濃煙の晴れる頃その呼吸を止めた。
「どんなマッチョだろうと首を絞められれば苦しい、と。一つ教訓だな」
握力の萎えた手でベルトを握り、もたもたとミノタウロスの分厚い背中を降りるダミーを大分薄くなった白煙の中から歩み出たヴィオレッタが迎えた。
「アンデット化していなかったのが救いだったわね」
「ああ、やっぱり腐ると首絞めても駄目なのか。おっと……」
言いながら、ベルトをズボンに通そうとするが、危うげな手つきからするりと抜け出したベルトが地面に落ちからりと音を立てた。
「死体から再生したアンデットは基本的にそうね。まあ、どの程度のダメージになるか、どの程度のダメージに耐えられるかはそれぞれの個体によりけりだから一概には言えないのだけれど」
足元に落ちたダミーのベルトを拾い上げ、ヴィオレッタはそう結んだ。
「おう、悪いな」
照れくさそうな顔でのばされた手をするりとかわし、少女はダミーの腰元に屈みこんだ。狼狽し離れようとする足を抱えるように制しローブの内から見上げるように意地の悪い表情を見せる。
「握力ないんでしょ。ここは素直にお姉さんにまかせておきなさいな」
「僕ちゃん恥ずかしいから勘弁してくんないかね」
冗談めかしてダミーが言うがヴィオレッタはまたくつくつと笑み漏らすだけでベルトを離そうとはしなかった。
「美少女との触れ合いは楽しいものでしょう?」
歌うような調子で言いながらダミーの腰にベルトをするりと通す。
「どういう理屈だよそりゃ」
お手上げとでも言いたげに苦笑し肩をすくめ、ダミーはやはり手品じみた手際で巻かれるベルトをただ眺めていた。
「はい、おしまい。あなたと私の命を救った立役者なのだから大事にしないとね」
「ありがとよ。恥ずかしさとありがたさで涙がでてくるぜ」
身を離すヴィオレッタに少しの皮肉を込めて毒を吐く、がこたえた様子もなく曖昧な笑みを返される。
溜息を一つ吐き出し、ダミーは首を巡らせた。まっすぐ続く通路の往路は見る限りに酷い有様で、彼方からこちらまでの壁や床にはところどころと罅やあるいはもっと大きな破壊の跡が延々と続いていた。その終着点となる場所にミノタウロスの大柄な体がうつ伏せの体勢で転がっている。異常といってもいい程に隆起した筋骨の背中は当然といえば当然であるがぴくりとも動かない。牛の頭、人の体、そしてまた獣の下半身、視線を順々に巡らせる。今更ながら、現実離れした姿だった。まっとうな生態系を無視したようなその体躯が物言わず転がっている様子を見ているとまるで趣味の悪い着ぐるみか何かでも見ているような気分になる。
「血の通った生き物を絞め殺すってのはこれが初めての経験だが、案外何も感じないもんだな」
別段誰そと意識しての言葉ではなかったがヴィオレッタはダミーの言葉に曖昧な微笑を投げフードを目深にかぶり直した。
「さあ、さしあたりの障害は消えたけれど先は長いわよ」
ほっそりとした手がダミーの手首を掴む。意外と力強く引かれる腕に引きずられるような様から、ダミーは後背をもう一度振り返った。物言わぬ死体が何かを伝えてくるということは、やはりなかったが。